絶対に押すなよ?
「押すなよ? 絶対に押すなよ!? ゼファー」
切り立った断崖絶壁の上。
弓張月に向かって遠吠えする神狼ルナファングは、実に上機嫌だ。
自慢の尻尾をふりふりと揺らし、こちらの悪戯心をこれでもかと煽ってくる。
「磁石が引き合うがごとく、我ら召喚獣とこの崖下もまた――」
「おっと、ゼファー。その先は言うな。……野暮というものだぜ?」
鋭い眼光が射抜かんばかりに突き刺さる。
冗談はここまで。
ここからは「覚悟の上での儀式」だと、彼の瞳が告げていた。
「ルナ殿、真下の間欠泉は凄まじい熱さよ。聖女様はまことにお怒りですぞ……」
神獣がくるりとこちらを向いた。
空気の流れが変わる。
周囲のマナが渦巻いて、身動きが取れない。
「何を? コボルトぐらいで、いちいち呼ぶなと私は言いたいな」
「ボイコットの上、魔力もかっさらうとは……。重罪でござるよ?」
「それがどうした!? 聖誕祭の犬ぞりの最後列にさえ加われなかったのだぞ」
「……やっぱり、拗ねておったのか」
一陣の風が吹いた。
真冬の夜は、身を切るような寒さである。
白い息を弾ませ、私は覚悟を決めた。
眼前の狼をきっと見据える。
「我が必殺の刀を受けてみよ! 風継の舞!」
愛刀を振りかざすと、古の奇跡の如く視界が開けていく。
月明りの銀狼を視認すれば、一足飛びに間合いをつめて、毛むくじゃらの彼を抱きかかえた。
そのまま真っ逆さまに間欠泉へと飛び降りる。
「何をする! 馬面の半獣人め! 気安く触れるでないわ!」
「磁石のごとく引き合う運命なのだ! ルナ殿!」
ぐんぐん速度を増していく。
あっという間に水面に激突すれば、砲弾が破裂するような音を立てて、豪快な飛沫が上がった。
「アツッ、アツッ、アツ!」
「アツッ、アツッ、アツ!」
逆巻く熱水の面を爆ぜるように蹴りつけ、一気に縁へと跳躍する。
腐っても我らは、聖女様の召喚獣なのだ。
「……これで、満足か? ルナ殿、旅は道連れ世は情けよ」
「ゼファー……。お願いだ……。もっと……、して欲しい」
狼の頬は紅潮し、つぶらな瞳が潤んでいる。
それはまるで夜空に浮かぶ双極の星だ。
物欲しげな声色は、なお一層の悦楽を催促しているではないか。
だらけ切った狼から眼を背ける。
私は聖女様が、彼を呼ばなかった御真意をしみじみと領解するのであった。




