ナポレオン先生
「”不可能”という語を塗り潰せ」
田中の第一声だった。現代文の教師である。
突然の出来事にクラスは静まり返った。
「いいか? お前らの辞書に墨塗りしろ! ”不可能”に」
大切なことだったのだろう。同じことを二度言ったのである。
そして板書された”不可能”をサッと消した。
「終わったな? お前らは、ナポレオンだ。絶対に受かる」
五十手前の姿勢の悪い教師が、一世一代の大芝居を打ったのだ。
「セントヘレナ島で幽閉……。大学合格後は、ぼっちってことですか?
先生。そんなのいやです」
青木が言った。黒髪ロングの美人だが、空気を読まない所が玉に瑕である。
いや、合格は確定しているのかよ。
そう心でツッコミをいれた瞬間のことである。
♪ ジャジャジャジャーン――
田中のスマホからベートーヴェンの「運命」が大音量で響いた。
「運命を変えて見せろ!!」
ポーズまで決めている。少年漫画の主人公か。アンタは。
右手を高く掲げ、チョークの粉が舞った。
西日が差し込み、薄くなりかけた頭頂部が神々しく照らされる。
誰かが小声で言った。
「後光さしてね?」
だが青木は止まらない。
「先生。ベートーヴェンは、ナポレオンの皇帝即位に失望してますよね」
すかさず田中が染み入るような言葉を返した。
「それでも、思い出は消えないんだよ」
「交響曲第3番のことですか。通称は『英雄』」
「……詳しいな。青木」
「世界史選択ですから」
田中の掲げた右手が、ゆっくりと下がる。
クラスは笑いを堪えて震えている。
スマホはまだ鳴っている。
♪ ジャジャジャジャーン
「……毎日鳴るんですか?」
「毎日だ」
一瞬、教室が静まり返る。
田中は観念したようにスマホを止めた。
「さて、茶番はここまでだ」
「えっ?」
「ワーテルローを回避したければ、赤点なんかとるんじゃない!」
彼は不動明王の如き修羅の形相で、答案を返却していく。
ナポレオンと大書された答案を。
俺達は留年の危機だったのだ。




