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紫煙の牢獄

船の周りを紫色の霧が覆う。


分厚い靄は火元のない煙のように蠢いた。


皓々と輝く月が瞬く間に消失していく。


「お出迎えですぜ、旦那?」


舵から手を離すと船長が私を見た。


上下左右に船が揺れる。


彼はすぐさま船員たちに命じ錨を下ろせば、巨大な錨鎖は重力に従って勢いよく落ちていく。


「やはり魔導の念話が通じないよ。誰も応答しない」


小指に火を灯した。


魔力を封じられた訳ではない。


商船全体を覆う霧の結界は、船と外部を遮断する類のものだと当たりを付ける。


「闘うなら甲板にしてくだせぇ、この部屋の計器類をやられたら海の藻屑だ」


「分かっている。炎も厳禁だな。やれやれ久しぶりに剣を使うか」


捨て台詞と共に操舵室から、船倉を抜けて船首へ駆け上がる。


果たして波に攫われた甲板には、青白い顔をした黒装束の女が悄然と歩き回っていた。


「この霧を消してくれるかな? お嬢さん。君を傷つけたくはないんだ」


ゆっくりとこちらを向いた彼女。


眼が血走っている。


射抜くような眼差しは拒否の意思を明瞭に告げていた。


「けけ。浅はかな。これは愛しい『我が子』だよ?」


視線と視線が交差した瞬間、私は敵目掛けて、飛び上がり袈裟懸けに切り払う。


だが手応えがなかったのだ。


着地と同時にしたたかに背中を蹴られれば、脳髄に戦慄が走る。


頭上の紫煙の霧が狂気を宿した目付きで、おぞましい哄笑を上げていたのだ。


「何ということだ……」


見上げるような高さの霧は、牢獄と言って良かった。


恐ろしい看守は終身刑を下そうというのだろうか。


「怖がらなくていいぞえ。お前たちの命はゆっくりと私達が喰らうからなぁ」


命を吸い上げる魔物がいるとお師匠様から聞いた。


これはその類なのだろう。


大しけで揺れる甲板に踏ん張りが効かなくなってきた。


ここでぐっと堪える。


「貴様の好きなようにはさせんぞ! 吠え面かくなよ」


私は懐から、酒瓶を取り出しコルクの栓を開けると、呪言を唱えて天高く掲げた。


大気中のマナは私の魔力に共振し、空気の波が激しく揺れる。


すり鉢状の竜巻が起きるや否や船を覆う霧の群れはみるみるうちに吸い込まれて消え去った。


私は炎を掌の中に封じ込めたまま、酒瓶だけを焼き切った。


見上げれば天頂に乳白色の月がたおやかに輝いている。


船は穏やかに静かな波間を漂っていた。

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