にぎやかな山脈越え
『御主を追放する』
その声ですぐ夢だと分かった。師匠との最後だ。
あたしは山を出てすぐ書庫を探したかった。
でも生きるのに精一杯で、あちこちぶつかり渡り歩いた。どこもはぐれものは、使い潰す消費財でしかなかった。彷徨いながら五つの季節を跨ぎ、年を越すことを慣いとした。
そのうち噂を聴くことを覚え、ついにいくつか書庫も見た。
素材と火を研究する花火、台本と楽譜を蓄積する歌劇。春は物語を蒐集し、夏は経験を交易し、秋は価値を飾っていた。
どれも知を集める書庫じゃなかった。
残る季節の書庫は羊季と冬、見つかるだろうか。
眠りのふちで、たまに鱗の下から静かな歌が聞こえた。なにかを探すか細く声。
あたしの山なら絶対に阻止しなきゃ。追放してもらったから、あたしの内側から繋がることはできない。師匠のおかげだ。あとは穿孔の魔術が山を見つけないよう、出来るだけ遠く離れればいい。
満月がこちらを見た。その瞬間、繋がらないと知られてしまったことに気づいた。月が歯を剥き出しにて笑う。
それからあたしは丸呑みにされた。
「――っ!」
強張る身体でとびおきた。
砂原と朧鹿の足が目に入る。
夜は明け、陽射しが肌を刺す。
荒涼とした風が毛皮を冷ました。
荒れた息を整える。よかった、ただの夢だ。
「まだ俺が必要か?」
勝手に口が動いた。なんで。息がとまった。
「ここは山か? 砂漠みてぇだな」
「――穿孔の魔術?」
「おう、俺の中身はそれだ。が、今こうして話してるのは過去のニンゲンだ。そうだな、シビトとでも呼んでくれや」
「どうして今ここにいるの?」
「さて。俺だって消えたいよ」
「じゃあなんで」
「お前が必要としてるんじゃなければ、魔術がお前に近づいてしまったんだろ」
あたしの言葉に答えず、シビトは首を傾げた。
「――なぁ、俺は穿孔なんざしたくねぇ」
「あたしも、もうこれ以上周りに被害を出したくない」
「じゃあ、やるべきことは分かってるだろ」
「穿孔の魔術を無視する、あるいは封じる?」
相槌に含まれた戸惑いを無視して話を続ける。
「んー、そうだな。ないものとして扱うと、多分お前に危機が迫った時、俺が出てきて、言葉巧みに合意をとったら発動するだろ?」
首が勝手に傾げられた。あたしの首なのに。
「じゃあ、シビトが出てきても、合意しないようにする?」
「それは絶対同意するな」
「それって難しくない? もっといい方法ないの」
「俺が現れるのは、穿孔とお前の意志が近づいた時。いっそ、お前と穿孔の魔術が遠く離れてしまえればいいんだろうが……」
吸われた息は言葉にならなかった。
「結局、まずは知を集める書庫を目指すしかないのか」
「噂でしか聞いたことはないが、そこなら俺の知らない知識でどうにかできるかもしれないな」
師匠……。喜色を隠した顰めっ面で見分、実験する様が目に浮かぶ。そして長い時間はかかるけど、しっかり理由を教えてくれるんだ。こちらが望んでないことも全部、しっかりと。
少しだけ胸が苦しくなった。
だめだ、少し気分転換しよう。
静かに大きく息を吐き出して、虚空から干し肉を掴みあげる。
治安がよい街では小さな獣がおねだりすると、人は気前良く食糧をくれた。
竜は身のうちから湧く魔術で生きる。
食事を必要とする身体ではないけど、嗜好品としてとることもできる。
ちぎって口に放り込めば、不思議と心がおどった。
ばらけた繊維の小さなものをさらに細かく噛み締める。香りと味が鼻と喉近くまで広がる。
「お、干し肉か――こりゃ、牛か」
「牛?」
「また随分と贅沢なもん食ってるじゃないか」
「ヤマネ姿だからもらえたの。竜にとってはあまり必要ないけど」
「人間様にとっちゃ大事な命綱だ」
「ごめん」
*
あたしの魔術は世界に混じらない。山の主からすれば、不快な異物。はあ、姿を変えれば不審者で、力をみせれば侵略者か。早くこの山をぬけるべく、静かにそっと歩みすすめる。
「尻尾をまく必要あるか?」
「喧嘩する必要はないでしょ」
「――穿孔するのか」
「しない」
丁度いい。脇で苺が鈴なりになっていた。いちばん熟した小さい実を一粒だけもらう。いい苺の対価に、あたしの小さな鱗を置く。鱗がなくなるまで、苺の株に丁度いい水分調整をするだろう。
「新鮮な味だな」
「高山青苺。ひとつしかないから」
「おかわり」
「ないってば?!」
「じゃあさ」
「ダメ」
「いや、まだ何も言ってないだろ?! その葉を齧ってる虫をさ。苺のお礼に」
言いたいことは分かった。虫を取り上げ遠くに放す。ついでに水鱗を追加して、防虫効果を付け足しておいた。
「これでいい?」
「おう、あんがとよ。ついでにそこの茂みの実も」
「ああ、これね。はいどうぞ」
口に丸花蜜苺を放りこんだ。さっきより甘くて酸味がない。一瞬ピリッとしたのは、野生の実だからかな。変なにおいや味はしないから毒ではないはず。
先を進むうち、風が冷たくなってきた。
この先に備えて防寒をかえよう。毛鱗から頑丈な鱗に戻し、上から微かな雲霧を羽織る。雲霧の膜を三層にすれば、熱は逃げない。これなら微量の魔術ですむ。
「つめた! 薄荷?」
「そう。山薄荷の葉」
「思ったより――月みたいだな」
道脇の花が強い風にそよいだ。
「月?」
「近寄れそうで遥か遠い」
「月ってそういうものかもね。好きなの?」
「ああ、あの届かないのが最高によかった」
「届かないのが?」
「穿孔は所詮穴をあける魔術でしかない。そもそも、月と決定的な違いがあるから、月と比べたって仕方ないのにな」
「決定的な違い?」
「月は穴をあけない。暗くなるだけだ」
「それは――そうだね」
「月は黙って俺と共に歩んでくれる。分かってる、幻覚だ。だが、穿孔はその歩みをゼロにする」
「うん」
「取り上げるばかりだから、穿孔は美しくなんかない」
防寒は万全のはずなのに。
雲霧の膜の内側を冷たい風がすり抜けた。
咽喉の奥が苦くて痛い。
「本当に、そうなのかな」
「馬鹿、否定しろ。肯定すんな」
「でも」
「もう穿孔しねぇんだろ? だったら見る必要は無え」
「そうなのかな」
「魔術が乱れてる」
「どこの高山地帯も、頂は地と空と夜の紛争最前線だよ」
山脈最上部は傘雲に閉ざされている。
陽射しが薄く、大気すら粉々になるほど低い。
凍った空気は体内を夜の魔術で荒らしてしまう。
深く長くゆっくり息を吸って温める
脆くて尖った崖地は、歩くだけで身も魔術も削いでいく。
手足だけの結界を張って保護を強化した。
感覚が鈍る。速度はあがらない。
足元を観察しながら慎重に進んだ。
「もっと楽なところはなかったのか?」
「残念ながら辿り着けるところには」
「その目は節穴? あそこからいけばいいだろ」
「はは――そうかもね」
山惑いは追い払った。
あたしを狙う視線の数は、山に入る前後で変わらない。
寄ってこないのは、倒せるほど弱ってないからだろう。
そのうち微かな古道にぶつかった。道の魔術がまだ残っている。
「なんでこんなところに道があるのか」
「頂上が随分と高いようね。その近くまでのびてるなら幸運じゃない?」
「古いけど、安全と道行祈願の魔術がしっかり効いてるな」
ここは土地の栄養も大気も薄い。
茂みの枝ぶりは太く短い。高山の特徴だ。
もう麓に戻ることも、簡単じゃない。
道に入ってまっすぐ進めば、傘雲のなかへ入っていく。
上空から鋭い山風が吹き、すぐ後に下から強い谷風が舞いあげ渦巻く。
まばらだった道の魔術は完全に途切れた。
足元の土地は氷雪が積もり、重みで脆く崩れがちだ。
一歩ごと、足の踏み場に慎重になる。
必死で土地にへばりつく。
ここは夜と空と地の紛争領域。
風を駒に万年の時を争っているのだろう。
空や崖下に勝手に連れて行かれそうだ。
風に乗った細かい氷片は、身を熱心にやすりがける。
結界も、はがれて露わになった鱗も。
地を這っていても上へ下へと身が踊る。
力をこめて進む。凍て澄みわたる夜が、思考にしみる。
流れが読めない。
「待て、あそこに夜が」
「今立ち止まるのは――ちょっと無理!」
暴風が口に飛び込む。
「あの先に、いる」
「なにが?」
そのまま黙りこんだ。
不意に隠れた割れ目に足をとられた。
爪先が震えるほど過敏に反応する。
それでも頭は痺れてどこか遠い。
辺りに氷が乱雑に散らばる。魔術でも視覚でも周囲の様子が見えにくい。
気づけば戻る道は、激しい吹雪にとじていた。
「どこかで休憩しないと」
「そうだね。身体の限界が近そうだ」
風が緩む岩場をみつけて滑り込んだ。
肩から力を抜き、現状を確認する。
魔術は胸の奥から湧いている。貯まるのを待つがなかなかうまくいかない。
「魔術の減りが早すぎる」
「大丈夫か?」
「山にしがみつかないと。でも、使用量が上まわってる」
「風がおさまるといいのだがな」
「もう残りが少ない。尽きる前に山を越えなきゃ」
状況は刻々と変わる。
一瞬で安全地帯が危険になる。
似たような場所を探して、嶺をまたぐ好機を伺う。
ひたすら立ち位置を調整する。まるで羽虫の火遊びだ。
夜と空がゆるんだ。土地の魔術で道ができた。今しかない。尾根めがけ一気に駆けあがる。
進むほどに雲霧が晴れた。
澄んだ空気に遮るもののない世界があらわれる。
山の加護なき身に容赦ない陽射しは眩い。
吐く息が瞬時に凍って煌めき宙に道をつくった。
夜が近いからだろう。空も色が濃い。
「なあ、夜の領域に行かせてくれないか」
「この上空の?」
「ほんの、一瞬でいい」
見上げれば、激しい風が吹き荒れている。
今ここが無風に近いのは、上空に魔術の紛争領域が押しあがっているせいだ。
「それって、あの魔術の争いのなかにいけってこと?」
「無理ならいい」
あまりの落ち込み方に絆された。
「――一瞬だけだよ」
余分に分けてあった魔術を羽にこめる。
ひとうちで、空を突き抜ける。
高く夜まで打ちあがった。
真横の宵空に星がレース模様を広げていた。
上、横と世界を見渡す。
星と夜だけが静寂を広げていた。
「ああ」
口が震えていた。風が頬を冷やす。瞬く星は静かだ。星の明るさに夜の影は無情な暗さのままだった。
「月。あんたは美しい。あんたがくれた魔術種――穿孔はやっぱりあんたには及ばなかったな。でもよ、だからって穿孔を研究したあの日々が無意味で無駄だったとは、やっぱり思えねぇよ」
零れた言葉はそれっきり。竜の身でもこの高さは限界だった。勢力争いに突っ込む前に羽の向きを変える。
弱く畳めば、山際まで滑空する。周りを見渡す。
黒みの空の下、黒い大森林は地平線の向こうまで連なる。あの先に双璧の山脈があるはず。流石に遠すぎて見えない。師匠がいるのは、あの方角。――今はまだ。
未練に尾を向け、行き先を見やる。
この先は大草原。淡く平らな土地には、川の流れが銀色に続いていた。木々がまばらにしか見えない。
このどこかに書庫があるだろうか。
鋭い風が頬を切る。
強風にあおられ、大草原側へ滑空した。
暴れ出した谷風にのり、必死で羽と尾で舵を切る。
高度が下がると徐々に夜と空の支配がぬけていった。
なぜかあちらは黙ったままだ。
気を使う余裕はなかった。
あちこち痛くてこわばっている。
身体は、無謀な山越えで消耗しきっていた。
『智』に意識をめぐらす。
ここは山脈の端の『気まぐれな月』の領地、柱岳。
近づくべきではないかもしれない。
街の声はあまりいい雰囲気ではなかった。
乾いた石は容赦なく熱を奪う。
分かっていても、柱状の岩山の先に羽が引っかかる。
よろけぶつかるように着地したあたしは、そこでとぐろを巻くしかなかった。
目を開けているのすら辛い。
結界を張ろうとする。
目の前が暗くなり、何度か失敗する。
最低限の結界を張り、視界は暗転した。
あたし……よく魔術に還らなかったな。




