4 静かな荒屋
アゲハが目を覚ましたのは、太陽が下り始めた頃だった。あまりの空腹に目が覚めて、そして力ない様子で布団の上から身を起こした。
手櫛すら通らないぼさぼさの頭をひとなでして、そして睫毛にこびり付いた目脂をごしごしと擦り落とす。
座ったままの姿勢で宙に浮いたアゲハは、空き缶に水を汲み、プラスチックの皿に木の実を乗せると、再び布団の上に戻ってそれらを口にした。冬に向けての貴重な食物は、一日に食べる量を限らなければならない。アゲハは一粒一粒を大事に噛み砕いた。
食べ終わって、アゲハはぼんやりと窓の外を見る。いい天気だった。
「いるわけ…ないよね」
小さく呟いてから、数秒俯いて、それから弱冠焦ったように立ち上がると、引き戸を引いた。外を見た。
「……」
誰もいない玄関の先を、アゲハはじっと見つめていた。玄関の先の、森の先にも、全く人間の気配はなかった。
花が、消えた。ポツリとアゲハは呟いた。
それから、アゲハは久しぶりに沢山の友達と遊んだ。一緒に宙を舞い、共に水を飲む。すぐに夕暮れはやってきた。
「じゃあ、またね」
そう言ってアゲハは友達に手を振った。そういえば、これが日常だったな、とアゲハはなんだか可笑しな気分になった。そして、胸が鈍く痛んだ。
暗い顔を俯けながら荒屋に着いたアゲハは、信じられない光景を目にしていた。男が、サナギが家の前に立っていたのだ。
「サ、ナギ」
驚きと、確かな嬉しさから喉が詰まる。目の奥がじんわりと熱を持ち始めていた。アゲハは咄嗟に手を伸ばした。癖だろうか、今すぐサナギに抱きしめて貰いたかった。
腕を広げて近づいてくるアゲハに、サナギはにっこりと微笑んだ。そして、カラリと引き戸を数センチ開く。その様子にアゲハはギクリと腕を広げたまま固まった。
「アゲハ、家に入ってもいいかな?」
初めて会った時と同じことを、サナギは再び言った。そしてアゲハもその時と同じ答えで返す。
「だ、だめ!」
「どうして?」
「……母さんが、だめって」
「ふうん。お母さんが、ね」
アゲハは開いた口が閉められなかった。まるで目の前にいるサナギが、今まで一緒に過ごしてきたサナギとは別人に感じられたのだ。口調も、顔つきも、その身が醸す空気全てが別のもののようで、アゲハは戸惑ったように視線を彷徨わせ、けれど最後はサナギへと向けた。恐る恐る、サナギの顔を見つめる。
サナギはその視線を、笑顔で受け止めた。否、跳ね返したようにアゲハは感じた。
「ねえアゲハ?今日アゲハは一日何していたの?」
「……今日は、友達と」
「友達って、鳥のことだよね。沢山の、鳥の群れ」
「な、んっ」
「君は鳥に話しかけるんだ?」
「……見てた…んだ」
悪いことなどしていないのに、アゲハは無性に居心地の悪い気分だった。人間以外の生き物を友達と呼ぶ自分が、とても陳家で馬鹿だと言われているような気がした。会話のできない鳥に話しかけることが愚かであると、そう諭されているような、そんな気もした。
歯を食いしばって宙に浮くアゲハを見て、サナギは軽く溜め息を吐いた。そして吐いてすぐに、困ったように笑みを作る。その笑顔のまま、引き戸をさらに引こうとした。
アゲハの頭の中が、一瞬にして赤く染まる。
「だめ…入っちゃ、だめっ」
鳥に話しかけている事実を突きつけて、こんなにも惨めな気分にさせるサナギ。そんな男が、己の家の中に入ったらどうなるか。自分がどんな気持ちにさせられるのか容易に想像が出来たアゲハは、扉に突進する勢いでサナギを押しやり、少し開かれた引き戸をピシャリと閉める。
扉の前に立ち塞がるように、アゲハは宙に浮いていた。サナギが大袈裟に息を吐いても、アゲハはビクリと肩を揺らしはしても、そこをどこうとはしなかった。
サナギの表情が、途端になくなっていった。能面のようなその顔で、サナギはだるそうな声を出す。
「本当にさあ…アゲハは面倒くさいね。でもね、君は女で、僕は男なんだ」
そう言うや否や、サナギはアゲハを片手だけで押し飛ばした。その細い身体のどこにそんな力があるのかと思わせるほどに、勢いよく。
アゲハはどさっと地面に腰を打ち、そして呆然と顔を上げる。そこに見えたのは、やはり表情の読めない能面だった。
そしてその能面をくるりと扉へ向けると、勢い良く引き戸を引いた。その様を見て、アゲハは声にならない絶叫を胸の中で発していた。
男は一部屋しかない、おまけに布団を二枚敷けるか敷けないか程の室内を見回して、そして視線は室内に向けたまま口を開いた。地面に手を着き、俯いたアゲハは、まるで地獄からの囁きを覚悟するかのように、ぎゅっと固く目を閉じていた。
「ねえアゲハ、おかしいね。いないよ?お母さん」
アゲハは涙が零れないように、強く、強く瞼を閉じ続けた。




