2 サナギの言葉
「いってきます」
アゲハは引き戸を閉めながら外に出た。生暖かい空気を肺一杯に吸い込んで、そしてほっと息を吐く。
見下ろした先には、履き慣れない赤い靴を身につけた足があった。草と湿った土を踏む感覚がとても懐かしい。
そして次に顔を上げると、いつも通りに男は立っていた。
「おはようアゲハ。今日は晴れたね」
「おはようサナギ」
アゲハは覚束ない足取りでサナギに駆け寄ると、そのままサナギの胸に抱きついた。サナギはそれに驚くでもなく、当然のように抱きとめる。
「お母さんはまだ寝てるの?」
「うん…寝てる」
毎朝繰り返される会話を今日も繰り返して、そして二人は落ち葉が見えだした山の道をゆっくり歩き出した。
「今日はどこへ行くの?何を教えてくれるの?」
「そうだな…それじゃあ、学校の様子でも教えようか?」
サナギは有名大学の院生で、今は夏休みなのだと言う。この綾那山にはサバイバル体験をしたくて、一人登ってきたとも言った。
もう幾年もこの綾那山から降りたことのないアゲハは、サナギが話す街の様子に、毎日耳を傾けていた。気がつけば一ヶ月ほど時間は過ぎていた。
「それが…学校。楽しそうだね」
「アゲハは学校にも行ったことがないのかい?」
「ううん、小学校には…二年間だけ。だからちょっと、忘れたのかも」
そう言って黙り込んでしまったアゲハを、サナギはそっと抱きしめた。高い高い木の上で、二人はそっと寄り添っている。
サナギは、アゲハが十年前に新聞の紙面を独占した少女であることを、出会った翌日にアゲハから聞いた。そして、それは辛かったねと言ってアゲハを抱きしめた。
アゲハはそれがとても嬉しかった。十年前、周囲の人たちが口を揃えて言ったような、賞賛の言葉ではなかったから。
それは、アゲハの警戒を解く一つの切欠でもあった。
「ねえアゲハ…君はもう十八歳だ。いつまでこうしているんだい?」
「え……」
サナギの言葉はいつだって唐突だった。そして今日も。
「僕と一緒にこの山を降りないか?」
本当に唐突で、アゲハは決まってうろたえる。けれど、数十秒黙って考えた後、アゲハはしっかりと首を横に振った。
「降りたく、ないのかい?」
「私の家は、ここだもの」
「……でも、食べ物が少ないだろう、ここは」
サナギの言う通りだった。アゲハの身体は、見るからに痩せ細っていた。頻繁にアゲハの身体を抱きしめるサナギにはよく分かっていた。
「木の実以外には何を食べているんだ?アゲハが自分で耕している畑は…残念だけど上手くいっていないみたいだし」
「…そんなこと、ない」
「あんな野菜は、失敗作っていうんだよ」
「それでも、それを食べて、私は生きてる…生きてるわ!」
珍しく声を荒げたアゲハは、はっと我にかえると、気まずそうに身を縮める。そんなアゲハの肩を、サナギはそっと抱き寄せる。
「ごめん、ちょっと言い方がまずかったね。ねえ…アゲハ。アゲハはもっと色んな事を知りたいだろう?僕の話を、食い入るように聞いてるよね?」
「……」
「拾った新聞からの情報だけでは、つまらないのだろう?なにより読めない字が多いはずだ」
「…それは」
「だから、ね。山を降りよう?」
じっとアゲハの顔を覗き見るサナギに、アゲハがそれを遮る様に首を大きく横に振った。振りながら、言う。
「駄目…駄目!……母さんも、いる、から」
そしてアゲハはそのまま木の上から飛び立っていった。
残されたサナギは、悲しげな瞳でそれを見届けて、そしてはあっと小さく息を膝元に吐き出す。そして再び顔を上げた時には、
「やっかい、だな」
アゲハが見たこともないような目つきで、そして口元を歪ませていた。
一時間後、アゲハはサナギがあの高い木から降りられないのではと心配して戻ってきた。
けれど、それは杞憂に終わった。




