1 アゲハとサナギ
東の空から、太陽が顔をもたげていた。ギラリと肌を焼く、そんな一日が始まった。
「起きなさい、アゲハ。今日は晴れていますから、洗濯物を干して下さい」
カーテンの隙間から、熱い日差しが窓を抜けて部屋を照らす。
アゲハはお腹の上に掛かっていたタオルケットを握り締めると、もぞりと身を起こした。
「アゲハは、今日はどこかへ出かけますか?」
そう広くない室内に響いた声に、アゲハはそれは嬉しそうに目尻を下げると、大きく頷いた。
「友達と遊んでくるよ」
そう言った直後に、アゲハは部屋を飛び立った。
アゲハは日が暮れるまで、沢山の友達と遊んでいた。友達は皆アゲハのように飛ぶことができ、アゲハはとても楽しかった。
「そろそろ、帰るね」
アゲハは友達にそう告げると、手を振りながら家路につく。橙色の空を見上げながら、アゲハは上機嫌に大きく宙返りをし、そして見事空中で着地した。
その時だった。パチパチと耳に響く音が森の中で木霊したのは。
アゲハはギクリと身を縮ませて、ゆっくり周囲を見回した。けれど、動くものは風に揺れる自然だけで、あの音の原因は見当たらない。
アゲハは気のせいだ、と己に言い聞かせるように首を振ると、そっと宙を進んでいく。
そして、それでも背後を気にしていたアゲハがようやく前方に顔を向けた、途端に何かにぶつかった。
「帰るのかい?」
目の前に、男が立っていた。アゲハは驚きのあまり一瞬喉を詰まらせた。
「あれ、もしかして…しゃべれない?」
アゲハのすぐ頭上から声が振ってくる。あまりの身長差に、飛んでいるアゲハのさらに上で、男が困ったように笑っている。
アゲハは男の顔を恐る恐る見つめた。優しそうな、けれどどこか頼りなさそうな目尻が印象的で、身体つきも、高い背丈に反してひょろりと細く、周りを囲む木の枝のようだった。
そんなことを考えながら男を凝視していると、男がクスリと笑いながら一歩距離を縮めてきた。その一歩は、二人の間の空間を無くした。
アゲハの全身の毛が逆立ったようにアゲハが身を奮わせた。男はそれを見計らったように、そっとアゲハの身体を抱きしめる。途端、アゲハは凍ったように動けなくなる。
「君の家に遊びに行きたいな」
唐突な内容だった。その為、アゲハは瞬時にその内容を理解できず、首を傾ける。男はもう一度、その耳元で囁いた。君の家を見たいんだ、と優しく、諭すように。
「だ……め。母さんが、ダメって、言う、から」
アゲハは得体の知れない生き物と対面している気分だった。自然と声も震えてしまい、その震えは小さく体中に広がった。アゲハは、怖さと戦っていた。
けれど、男はアゲハを抱きしめたまま、再び困ったように笑う。そして、そっとアゲハの震える背中をあやすように叩いた。
「しゃべることが出来るんだね?」
「は、い」
「じゃあ名前」
男が人差し指を立てながらにっこりと目を細める。アゲハはその意図が掴めず、ポカンと宙に浮いていた。ただ、男の腕の中から解放されたことにほっとしていた。
そんなアゲハの様子に、男の困った笑顔はもはや動かぬものとなっていた。
「名前を教えて欲しいのだけれど、駄目かな?」
「あっ……」
やっと男の言わんとすることが分かったアゲハは、なんだか無性に恥ずかしくなり、僅かに俯く。けれど、その状態で、確かに口を開いた。
「アゲハ」
「揚羽蝶の、揚羽かな?」
「え…?」
「いや…いいんだ。うん。アゲハだね」
「そう、アゲハ」
そう答えたアゲハは、それから何か思いついたようにおずおずと顔を上げると、後ろで手を繋ぎながら呟くように尋ねる。
男はその様子を、微笑みながら見つめていた。
「…名前」
「僕の、名前?」
「そう」
「知りたいの?」
そう言われて、アゲハは強張った顔を見せた。後ろで繋いだ手に、ぎゅっと力が篭る。
「聞いちゃ、駄目だった?」
「まさか。僕の名前はサナギ。蛹のサナギさ」
「サナギの…サナギ?」
「うん。サナギでいいよ」
「サナギ」
「そうだよ」
見上げた先にある優しい笑顔に、アゲハは強張っていた頬がふにゃっと緩むのを感じていた。
そして、心臓がドキドキしていた。こんな風に男の人と話すのは、どれぐらい久しいだろうかと考える。それは、思い出せなかった。
「じゃあアゲハ、またね」
男は静かに背中を見せると、暗い森の奥に消えていった。
「……」
アゲハは、男が草を踏む音が聞こえなくなるまで、男が立っていた場所で佇んだ。
「ただいま!」
狭い室内に、その声は大きく響いた。アゲハは息を切らしながら部屋の布団めがけて飛び込む。
「おかえりなさいっ。遅かったですね!」
勢いづいた声が続いて響く。アゲハは興奮した様子で飛び上がった。
「今日はサナギって人に会ったの!私と話したわ!」
そして再び布団にダイブ。
「それはよかったですね!それじゃあおやすみなさい」
一日の終わりを告げる挨拶に、
「おやすみなさい!」
アゲハは大声で返すと、そのまま眠りにつく。
空腹も家事も、全てを忘れて、眠りに落ちた。




