11.【裏】.11
「ずっと夢を見ているような気がする」
昼休み。少女は友人に語った。
「頭の後ろがボンヤリしていて、起きているのにどこか夢の中に居るような、そんな感じがするの」
「す、睡眠不足とかかな」
「ううん、ちゃんと寝てる」
眼鏡をかけ、机に読みかけの小説を置く少女が彼女の言葉に反応する。
武城マイは高校一年生。友人の込名メイと一緒に昼食を取っていた。
品行方正、真面目で謙虚。武城マイはクラスでも人気の美少女だった。
「あ、あれ、マイちゃん、それどうしたの?」
込名が武城の耳にピアスがあるのに気づいた。
「ああ、これ? なんか開けたくなって」
「マイちゃんもそういうことあるんだね」
込名の言うとおり、武城も自分で自分の行動に少し驚いていた。
彼女はおしゃれに無頓着というわけではないが、それ以上に規範を大切にする。
髪を染めることはもちろん、制服を着崩すこともない。教員たちからも生徒の鑑だと褒められている。
その彼女がピアスを開けているのだ。周囲からすれば天変地異の前兆かと思えるほどの衝撃的なことである。
「なんか、ピアス開けると埋まる気がするんだよね」
「う、うまる?」
「胸にぽっかり空いた気がする穴がさ」
「穴を空けて穴を埋めるの」
「変だよね」
武城は笑った、けれど込名は笑えなかった。
彼女の笑顔がとても寂しそうに見え、どうしても笑えなかった。
いつも一緒に帰る放課後。武城は一人で帰ると言った。
どこか虚ろな彼女を一人にしていいものか、込名は悩んだが、悩んでいる間に武城は一人で去ってしまった。
あてもなく歩く。意味なく過ごす。
「お姉ちゃん」
声がした。武城は振り返る。ビルとビルの間の広場。公園とも言えるだろうか。
高い建物に挟まれて、日の光の届かない、人目にもつかない空虚な公園。
ちょうど、武城の胸の内に似ていた。
「こっちこっち」
もう一度声がした。武城は声の主を探す。
公園のベンチに座っている子供が背中を向けている。他に誰もいない。
「ねえねえ、どうしてそんなに落ち込んでいるの」
声の主はその子供だった。武城は戸惑った。
言葉はまるで自分に向けられているようなのに、こちらを一切見ようとしない。本当に自分に話しかけているのか確信が持てなかった。
戸惑い、視線を落とし、手を口に当て悩む。
すると、服の裾が引っ張られた。
「ねえねえ、どうしてそんなに落ち込んでいるの」
ハッとベンチを見ると子供はいない。その子供は武城の服を引いていた。
駆け寄れない距離ではない。視線を外していたのだから気づかぬ間に寄られていても不思議ではない。
けれどけれど、武城は目を閉じていたわけではない。
子供が近づけば、視界の端に陰が映るはずだというのに、彼女は気づけなかった。
風が吹く。服の厚みを越えて、背中に冷気が流れてくる。
「ねえねえ」
子供はこちらを見ていない。裾を引っ張っているのに、その子供は顔を見せようとしない。
なんだか不気味だった。脳が裏返りそうな気持ち悪さを感じた。
ただ、その気持ち悪さをなぜか『懐かしい』と感じる自分がいることに気づいた。
逃げ出したい。けど逃げ出したくない。
「私さ――」
意を決して声をかけようとすると、既に子供の姿はなかった。
「ねえねえ、どうかしたの?」
子供は心の隙間を縫うように歩いていた。
背中を向けたまま、彼か彼女か、その子供は公園の奥に向かって歩いている。
なんだろうか。
武城は目を擦った。
なんだろうか、さっきまであんなものがあっただろうか。
公園の奥には御社が建っていた。
「あれ――?」
御社だけではない。公園の入り口に鳥居がある。こんなものを潜った記憶はどこにもない。
どうして知らないものが知らない内に当たり前のように存在しているのだろう。
武城は吐き気がした。
鬱蒼と茂った草木。ビルはどこにもない。狐に化かされたように、気づけば知らぬ場所に連れ込まれた。
知らぬ場所。知らぬ場所。知らない場所のはずなのに、武城はこの光景に覚えがあった。
頭がかき混ぜられたように気持ちが悪い。
武城はそのまま吐いた。
「いーけないんだー、いけないんだー」
子供の声がした。武城の後ろから、彼女を指さし揶揄う子供の声。
クスクスと笑う声が、辺り一面から聞こえてくる。
「いーけないんだー、いけないんだー」
「いけないんだあ」
「ダメなんだあ」
「忘れん坊さんだ」
「バカみたい」
「いーけないんだー、いけないんだー」
「大切なものを失くすなんてねえ」
「助けられたくせに」
「感謝することもできないんだね」
「ずっと守っててくれたのに」
「いーけないんだー、いけないんだー」
「誰のおかげで生きてられると思ってるの」
「一人でぬくぬく生きちゃって」
「ずるいなあ」
「あの子は今も苦しんでいるのにね」
「いーけないんだー、いけないんだー」
「いーけないんだー、いけないんだー」
「いーけないんだー、いけないんだー」
全身から流れる汗。足先からやってくる悪寒。臓物が歪み、脳が混ぜられ、耳の奥に声が残る。
武城は無様に倒れ、地面に蹲った。
「私だって、どうにかしたいの」
頭痛、吐き気、悪寒だけでなく、内臓がぐちゃぐちゃに引っくり返ったような気持ち悪さ。
嗚咽と共に出てくる汗と涙と涎と鼻水。身体の外も中もぐちゃぐちゃだ。
「でも、どうすればいいの。何かしなきゃいけないのに、何をしたらいいか分からないの。私はどうすればいいの」
「あっ――」
泣きじゃくり、地面に額を擦りつける武城を足元に、子供が一つ声を上げる。
「ねえねえ『ムシンエキ』って知ってる?」
「……無人駅?」
「ちがうちがう『無神駅』だよ。無神の駅」
「シン……?」
武城の頭の中で『シン』と『神』が繋がらなかった。
けれど、どこかその話し方に懐かしさを覚えた彼女は、縋りつくように子供を見上げる。
電灯の点いた鳥居の下。子供の顔は逆光で見えなかった。
顔が見えないというのに、子供が笑っていることだけは分かった。
◆◆◆無神駅◆◆◆
「がたーん、ごとーん、がたんごとーん、がこーん、ぷしゅぅー」
子供はのんびり歩きながら、適当に電車の音を口真似した。
「そこの駅には誰もいないの」
「やっぱり、無人駅じゃないの」
「誰も居なくて何もないの」
「何も……?」
「線路とプラットホームとベンチだけ」
「あるじゃない」
「他には何にもないの」
「普通の無人駅ね」
なんてことはない、都心から少し離れればどこにでもあるような無人駅と変わらない。
だから何だという話。興味深くもない、どこにでもあるような話。
聞き流すことだって出来るだろうに、それでも武城は子供の話を聞いた。
「がたんごとーん、がたんごとーん。無神駅には何もないから誰でも来れるんだ」
てくてく歩く子供の後ろをふらふらとついて行く武城。花の香りに誘われた蝶のように、ひらひらふらふら歩を進める。
「ある時、女の子がその噂を聞いて、無神駅に辿り着きました。そこには何もないのに彼女はどうして来たのでしょう」
「……好奇心?」
「猫が死んじゃうね。猫と言えば猫ってたくさん命があるらしいね。命って本当は一つのはずなのに、猫だけズルくない?」
子供の問いかけに、クスクス笑う声が聞こえた。
誰が笑っているのだろう、誰が見ているのだろう。
武城は意識朦朧としながら、周囲の声に気が削がれそうになるのを耐える。
この子供の話は最後まで聞かなければならない。武城には根拠のない確信があった。
「その子はどうしてそこに来たの」
「何もないからだよ」
クスクス笑いながら子供が問いかけに答える。
「何もないからその女の子は来たんだよ。何もない方が良いことがあるんだ」
「私もそこに行きたい」
「そこ? そこってどこ? あっち? こっち? そっち?」
クスクス、クスクス、子供は笑いながら、あちこち指さした。
「無神駅に行きたい」
「何もないよ」
「何もないところに行きたい。見るもの全てが嘘に見えて、何が本当で何が嘘で、現実と夢の区別もつかないの。だから――」
「だからゼロになりたい?」
そこに御社はなかった。
子供が立っているのはプラットホーム。
そこにあるのは線路とプラットホームとベンチだけ。他には何もない。
「本当に、何もない」
天も地も光もない。そこには線路とプラットホームとベンチだけ。
風もない、音もない、重力もない、世界がない。
無神駅。つまり神のいない場所。
【健闘を祈るよ。戻ってきたら、また遊ぼう】
子供はその身を闇に消し、武城の頭にあったモヤモヤは吹き飛んだ。
「私は――」
八百万の神々は全てが善神というわけではない。すべてが創世の神でもない。悪さをする神がいれば、塵芥に等しい神もいる。
作り替えられた記憶も神の呪いの一端。上書きされた記憶は、羽箒で払うようにふわりと消える。
「エリ!!!」
武城は叫んだ。声はどこにも響かない。
地に足着かず浮かぶ身体。プラットホームを見失えば二度と戻って来れないだろう。
掴む場所がない。ベンチに手は届かない。
「せっかく思い出したんだ! このまま消えてたまっかよぉぉおぉぉ!!!!!」
武城の叫びが身体中に響き渡る。世界に音がなくともそこに武城がいる。彼女は自分を響かせる。
闇に取り込まれる前に、自分の魂を鼓舞した。光がなくとも自分が星になる。
ピアスが輝いた。
品行方正、眉目秀麗、清廉潔白。玄河のいない世界の彼女は優等生だった。
ずっと優等生で規則に縛られながら、いつも自由に憧れていた。
けれどその時の記憶はもう吹き飛んだ。彼女の中に玄河が蘇っている。
武城マイはもう一度生まれ変わる。
身体にヒビが入る。卵の殻が割れるように、爬虫類が脱皮するように、武城マイは自分を脱ぎ捨てた。
自分の抜け殻を踏み台に、武城は蹴っ飛び、ベンチを掴む。
そして、その先に光があった。
ちかちか光る金色の毛。太陽の瞬きのように美しい髪の毛。
武城は手を伸ばす。光に手を伸ばす。
「掴んだ!」
金毛の猿。武城はそのまま無神駅に彼女を引っ張り込む。
金毛の猿の身体が無神駅に入ると同時、彼女の身体は見る見るうちに人間へと戻る。
金の髪、桃色の毛先、黒真珠のように艶めく肌、そして――
「へぶぅ」
武城の顔を埋めた巨大な乳。息が出来ない。
【お疲れ様】
パチンと音がしたかと思うと、無神駅の全てが歪む。
捻じれ回り、歪み千切られ、二人は地面に落ちる。
「あれ。ここは……?」
そこは元居た場所。というには少し異なる。元居た場所の本来あるべき姿。
御社は壊され、ビルが建つ。その屋上に二人は転がっていた。




