10.蟲喰い
朝の学校。少し早い時間。教室の後ろの方で、ひとり読書をする少女が一人。
窓から吹く少し冷たい風。彼女がかけた眼鏡が、少女の小顔のせいで通常より大きく見える。
この学校では珍しく、制服を規定通りに着て、ボタンは全て閉めている。
だというのに、彼女の胸の存在感は他の追随を許さない。
本は胸に乗せながら読むようなものではないはずだというのに、彼女にとってはそれが自然だった。
「ナメコっちぃ助けてぇ」
教室の扉が乱雑に開けられたかと思うと、金髪を朝日に反射させながら玄河が駆け込む。
彼女は教室に一人いる少女――込名に向かって飛び込んだ。
「どどどどうしたのエリちゃん」
「歴史の宿題忘れてたぁ」
あまりに必死な玄河の様子に、込名は驚いた。まるでこの世の終わりのように泣いていた彼女の様子にただならぬものを感じていた。
けれど蓋を開けてみれば宿題未達成の報告。込名は呆れて溜息を吐き、少し微笑んだ。
「もう、だから昨日言ったでしょ」
「あり? 言ってた?」
「言いました」
ぷんと頬を膨らませる込名。とぼける顔して玄河が笑いかける。
「反省しているわけだし? 見せてぇ」
「もう、仕方ないなぁ」
「マジサンキュウ」
両手を合掌し感謝のポーズついでにウインク。手を合わせる際に腕が寄るため胸も寄せ上げられる。
込名はそれを特に気にしないどころか、胸が寄ったことにすら気づかない。
「昔からエリちゃん変わんないよね」
「変わるも何もあたしはあたしじゃん?」
「人は成長と共に変わっていくものなんですよ」
「えぇ。変わりたくないじゃんねマイタケ……?」
笑いながら会話を続け、玄河は左の何もない空間に話しかけた。
教室には玄河と込名の二人だけ。そこには誰もいない。
あれ、と玄河は小首を傾げた。自分は一体何に話しかけたのだろうかと。
玄河の瞳には何も映らない、何も映っていないというのに、彼女はとても悲しそうに眉をひそめた。
「どうしたのエリちゃん」
「なんかあたし、変わっちゃったかも」
「人は変わるものなんですぅ」
「そうじゃなくて、なんか、記憶が、変なの。なにこれバチクソキッショイんだけど」
玄河の言葉に、いつものおふざけかと思った込名は、口を尖らせながらぶうたれた。
そんな彼女の言葉を意に介さず、玄河は頭痛でもするかのように、頭を押さえた。
さすがに込名も心配になり、彼女の顔色を見るが、苦しそうな表情をするばかりで何もない。
そのとき、込名は思い出したかのように「あっ」と小さく声を発した。
「それって……もしかして蟲喰い?」
「は?」
「エリちゃんが教えてくれたんでしょう」
■■■蟲喰い■■■
込名は本を鞄にしまうと、拳を握り、自分の頭に置く。そしてパンッと破裂するかのように手を広げる。
風船が弾けるように、泡が消えるように、頭から記憶が飛ぶように、込名の手は空に向かう。
「ぽかんって記憶が無くなること」
「んなんかそれとは違くね?」
「私もね、そう思ったの」
「ただの忘れん坊将軍じゃね?」
「あでも、なんか、ね、そうじゃなく記憶が無くなることもあるんだって」
パタパタと手を動かしながらどうにかして説明をしようとする込名。
けれど鶏が暴れるようなジェスチャーでは伝わるものも伝わらない。
玄河は少しだけ笑うが、どうも表情は晴れない様子だった。
「へえ、ナメコっちマジ詳しくね?」
「教えてもらったから」
「え誰に?」
「エリちゃん」
「マ?」
「マ? あ、うん、マジ。本当ですよ」
玄河の言葉が一瞬理解できなかったのか、タイムラグが生じた。
昔からの仲だと言うわりに、彼女たちの会話はどこかぎこちないように見えてしまう。
「急に敬語とかウケる」
「ご、ごめんね」
「謝ることじゃなくね?」
「あ、ああ、そうだね」
そのぎこちなさに、どこか二人も違和感があるようにも見えた。
小気味の良いテンポのコミカルな会話でも、心地よい間のある穏やかな会話でもない。
互いが求めている言葉の応酬がここにはなかった。
「蟲喰いって記憶が食べられるみたいな?」
妙な間が嫌で、玄河が会話の先導をする。
なぜ自分が口火を切っているのだろうと、ぼんやり感じながら、違和感を隠すように玄河は微笑んだ。
「そう、そうなの。思い出した?」
「全く?」
「ああ、そうなの。うん、でも、そう、蟲に食べられちゃうんだって」
救われたような気分になった込名も、それが自分の早合点と気づき、肩を落とす。
「バク的な?」
「バクみたいな? たぶんそう。夜中、寝ている間に記憶を食べる蟲がやってくるんだって」
「ヤバいじゃん」
ワサワサと両手の指を細かく動かして、蜘蛛や百足のような仕種をする込名。
腋を閉じながらやるものだから、指の動きと連動して胸が少し揺れた。
玄河は厚着なのに揺れるそれを見て「デカいな」と頭の片隅で思い、同時にそれが『初めての感覚』のような気がしてしまった。
オカルティックな話をする相手にこんなことを感じたことがあっただろうか。
自分が聞き手に回っているのも何だか居心地悪くなり、玄河は段々しかめっ面になっていく。
「ね、ほんとだね。その話聞いた時、寝れなくなっちゃって」
「夜寝なきゃお肌に悪くね?」
「そ、そうだね? そうだね。う~ん……そういう問題かな?」
込名は言葉が早口になっていく。
不機嫌そうな玄河に何を焦るのだろうか。二人が幼い頃からの友人で、気の置けない仲であるならば、気にするほどでもないことのはず。
不機嫌になったからと言って、彼女のご機嫌を取る必要はない。すぐ手が出るような危険人物でもなければ、仲良くしなければ自分のクラスカーストが危ぶまれる訳でもない。
込名が焦れば焦るほど、玄河は話に興味を失っていく。
話に興味を失っても友人なのだ、会話は続ける。けれど、玄河の態度は明らか。彼女は爪をいじり出した。
「蟲喰いって言っても? それただ記憶トンでるだけじゃね? 言い訳みたいな?」
話を流すような適当な返し。玄河の視界に込名は映らない。
別に玄河は込名のことが嫌いというわけではない。
会話中に相手を見ずに別のことをやっていたら『失礼』だということくらい、玄河だってわかっている。
けれど、どうしてか今日は機嫌が悪くなってしまう。そのことに玄河は自ら苛ついていた。
「ああ、それがね、なんか、食い破るんだって」
「えなに?」
「頭を。蟲が。だから、皆こめかみ辺りの毛が丸く抜け落ちちゃうんだって」
「エンケーダツモーショーじゃね?」
込名も必死におどろおどろしく話してみるも、玄河の視線は戻ってこない。
なぜかそれが悔しくて、なぜかそれが当たり前のように思えて、なぜかそれが怖くて――込名は口に溜まった唾液を呑み込む。
「記憶が落ちるのと一緒に毛も落ちるみたいな、ね」
「ウケる、ハゲの老化の言い訳じゃんね。ねマイタケ聞いた?」
パッと顔を上げ、誰もいない窓側に向かって玄河は尋ねた。
朝日零れる窓の光。空は青く輝いて、あまりに綺麗な青空で、虚しさだけが描かれた。
風が吹く。カーテンが揺れる。誰かの笑い声が聞こえるような気がした。
「ねえ、エリちゃん。さっきからその、マイタケってなに?」
「……なんだろうね」
込名の方を見ることなく、玄河はずっと窓の外を見る。
その先に誰かがいるのだろうか。虚空を見つめる彼女の姿につられ、込名も外を見るが、何も見つけることが出来なかった。
愛想笑いも、作り笑いもすることなく、ただジッと何かを見る玄河の瞳から、一筋の雫が零れる。
それを拭うこともせず、ポツリとスカートに落とされた涙を見ることもせずにいた。
込名は何も言わなかった。彼女には何も理解できなかった。出来なかったからこそ、彼女は沈黙を選択する。
朝の教室。静かな時間は終わりを告げ、教室に生徒たちが集まる。
時間は動き出し、何もかも流されて行くように日常が始まる。
それが本当に日常なのか、失ったものに気づくことは出来ない。
玄河は天井を見た。
「穴がいっぱい」
「エリちゃん、授業中だよ」
天井に空いた穴。教師の声が響きすぎないように作られた吸音の穴。
今までちゃんと見たことがなかったが、今までこんな形状だっただろうか。
もっと別の形の穴だったような気がする。もっと別の色だったような気がする。もっと別の――
「エリちゃんってば」
玄河は自分の胸に空いた穴の形を見る。昔からずっと空いていたような気がする。いや昨日までこんな穴はなかった。そうだろうか、ずっと穴は空いていたんじゃないか。
込名が後ろから肩をつつくも、玄河は天井を見続けた。




