07.笑う人
ほのかに漂う薬品の匂い。清潔な場所特有の匂いというものがある。
扉を横に動かすと、音もなく滑らかにスライドする。
淡いパステルカラーの床や壁が独特の空気を醸し出す。
窓から吹き込む風がレースを揺らす。
ベッドの上に眠っているのは柳弥勒。彼女は救急車で病院に運ばれた。
知り合いが突然気を失った。頭をぶつけているかもしれないと、救命士には伝えた。
武城は窓のそばに花を飾る。
病が根付かないよう、そのまま寝付かないよう、鉢植えは避ける。
擦りガラスの花瓶に沿えた花が朝日に照らされる。
静かな寝顔の柳弥勒。検査で「異常はない、時期に目覚めるはず」と言われたが、本当にそうかは怪しいところだ。
武城が振り返るとそこに玄河が立っていた。
玄河は眠っている柳弥勒と自撮りツーショットを決めている。
武城は彼女の頭を叩いた。
「痛っ。マイタケひどくね?」
「寝顔撮るのもひどくね?」
「寝顔可愛いから良くね?」
「エリはノーメイクの顔勝手に撮られて平気とか?」
「いや無理くね?」
「じゃあやめとかね?」
「理解」
理解したら行動が早い。玄河はその場で画像データを消して単独で自撮りをした。
「自撮り自体はするのかい」と思ったが、他の人が写っていなさそうなので、武城は何も言わずにおいた。
加工付きのカメラアプリ。顔を判断して自動的に写真を補整する。
パッと見ただけでは気づかない程度に小顔にすることもあれば、顔前面に白いラメをキラキラと輝かせることもできる。
それならノーメイクの写真も問題ないのではと思われるかもしれないが、それとこれとは話が別である。
玄河は満足したようで、そのまま自撮りを写真投稿アプリでインターネットに公開する。
暢気なものだなと、武城は小さく微笑んだ。
あの時、柳弥勒はナニカに取り憑かれていた。そのことは間違いないだろうと武城は考える。
彼女の身体を動かしていたのは、彼女とは違うものであり、柳弥勒の手に負えないものだったということを意味する。
そのナニカは玄河を狙った。ところが彼女は無事である。
彼女を守ったのは白い靄である。白が黒を追い出した。
柳弥勒すら取り憑かれるナニカを、エリに取り憑くナニカは弾き飛ばす。
つまり、仮に柳弥勒が取り憑かれていなかったとしても、武城の目論見が達成されることはなかった。
どうすればいいか分からない。もうどうしようもないかもしれない。ならば武城は笑うしかなかった。
「おー?」
玄河が嬉しそうに武城に携帯を向け、シャッターを切る。
「ちょ、なに」
「マイタケ美人」
「いつものことじゃん?」
「自然光バチ盛れる」
撮られた写真を見せられる武城。確かにカメラに写った彼女の姿は美しかった。
「マジ盛れてんじゃん。なんてアプリ?」
「ノーマルカメラ」
「は? 美人過ぎね?」
「元が良いからじゃね?」
「カメラマンの腕が良いからじゃね?」
「マ? あたし天才?」
「いまさら気づく?」
「そのうちオーラとかも撮れるようなるかな」
「なるんじゃね? 知らないけど」
オーラと言えば人の生命エネルギーのようなものとして認知されることが多く、心霊写真や霊能者による霊視などで見られることが多い。
当たり前に話題に出るが、彼女たちの中では共通の言葉として成り立っていた。
武城は多少のオカルト用語なら理解が出来る。
むしろ用語などの知識に関してなら玄河よりも遥かに詳しい。
玄河を助けるための方法を探して多くの知識を収集していたこともあり、見た目と裏腹にその手の知識に明るい。
その時、あっ、と『武城が』口を開いた。
「エリさ、写真好きなのはいいけど、あんまり窓の外を写さないようにね」
「えなんで?」
「そりゃ『笑う人』が写るからだよ」
◇◇◇笑う人◇◇◇
「つまりどゆこと?」
「いやこれ、私も聞いた話なんだけど、カメラマン? が外の景色を撮影したとき、人影がヒュンッて写ったんだって」
「あー、で、下見ても人いなくて写真現像したら女の人が笑ってこっち見てたってヤツね」
玄河は膝を打ちながらネタバレをした。
得意げに語っていたというのに、話の腰を折られてしまった武城は、完全に沈黙した。
いつもの仕返しとばかりに、知っている怪談を話そうとするも、玄河に全く通じなかった。
「写真より音楽じゃね?」
「エリが写真始めたんじゃん」
「写真はマイタケじゃね?」
「記憶喪失した?」
玄河は桃色の可愛らしいケースを取り出した。蓋を開けるとイヤホンが入っていた。
片方を武城に渡すと、もう一方を自分の耳に入れる。
武城も「なんだ?」と思いながら耳にはめた。
ワイヤレスのイヤホン。玄河が携帯をいじると、音楽が流れ始める。
いつものK-POP。
ここは病院内。携帯の使用が制限されていない場所とはいえ、スピーカーで音楽を流すほど常識知らずではない。
とはいえ、見舞い相手が目覚めぬ横で、彼女を無視して音楽を聴きながら窓の外を眺めるのは如何なものだろうか。
そう思いながらも、武城は青空を眺める。
熱を含んだ風はどこかに消え、次の季節の匂いがする。
忙しさに追われることなく、友人と共に音楽を聴きながら風に吹かれる。まるで心にも爽やかな風が吹いているようだ。
武城は何か視線を感じて振り向くと、玄河がジッとこちらを見ていた。
「聞こえた?」
「え、なに? なにか言った?」
「だから聞こえた? って」
「聞こえてないから聞いてんだけど?」
「あやっぱり? なかなか上手く行かないよね」
「なにが?」
音楽が止められ、武城もイヤホンを外す。
玄河がなにかを言ったらしいが、武城はそれを聞き逃してしまったと思った。
青空にかまけている場合ではなかったようだ。
少し残念そうな顔を見せる玄河は、武城からイヤホンを受け取ると、桃色のケースにしまいこむ。
「えだから、写真より音楽だって思ったけどどっちも失敗じゃん」
「どゆこと」
玄河が何を言っているのか、武城はよくわからなかった。
「えだから笑う人」
◆◆◆笑う人◆◆◆
玄河が携帯を見せるが、さっきと同じ武城の写真が写っているだけだった。
「ママが入院してた時? あたしがお腹にいるとき、暇だからって写真撮ってたんだって」
「そう……なんだ?」
「んでも? 看護師さん激おこで」
「写真ダメなの酷くね?」
「それな。ママもなんでだって聞いたら『写っちゃうから』なんだって」
「……『笑う人』が?」
ようやく武城も気づく。自分が発した怪談を発端に、別の怪談を引き寄せてしまった。
「んでもママ好奇心旺盛じゃん?」
「たしかし」
玄河の母は毎日のように外に出かける。仕事をしている時間以外も、何かしらの習い事や教室に通っているのだ。
二人が幼い頃は、二人して連れて行ってもらうことも多かった。
しかし、あまりにも数が多く、最終的に二人は二人で遊ぶようになってしまった。
最近も新しくヒエログリフ教室に通っているそうだが、好奇心はいまだに尽きていない。
「だからママ、看護師さんが見てないところでガンガン撮ったんだって」
「怖いもの知らず過ぎじゃね?」
「でもなんも写んなかったんだって」
「良かったじゃん」
看護師がわざわざ注意するということは、『本当に』写ってしまうことがあるのだろう。
その上、脅すように怒るということは『写る』だけでは済まない可能性があるわけだ。
それなのに、撮ってしまったのは非常に危うい。
好奇心は猫も殺すと言われるくらい危険なもの。九生あると言われている猫すら殺す好奇心に従っては、命がいくつあっても足りない。
「ママも結構残念がっちゃって? 当時の写真とか見せてくれるけど全部綺麗な写真だけなんだよね」
「いい事じゃん」
「声のする方にカメラ向けたって言ってたんだけどね」
「なんて?」
「声のする方にカメラ向けたって」
「なんの声?」
「笑い声」
武城の目尻がピクピクと引き攣る。
「エムディープレーヤーっつーの? なんか音楽聞けるやつ聞いてたら笑い声が聞こえたんだって」
スッとベッドを指し示す。
玄河の母はきっと、いま柳弥勒が寝ているようにベッドの上で寝転がっていたのだろう。
「最初はイヤホンの不調かなって思ったけど? なんか向いている方向で大きさ変わるからイヤホンじゃねえなってなったんだって」
ベッドで横になり音楽を聴いていた玄河の母を幻視する。
彼女は身体を起こし、キョロキョロと周りを見回すと、小首を傾げた。
「でも不思議みたいな? なんかイヤホン外すと聞こえなくなるんだって。だからイヤホンはしたまま周り探して、カメラを向けたんだって」
そう言いながら、玄河は病室を歩く。
「最初は窓の方。だけどそこじゃなくて壁の傍を通って」
玄河は母が歩いたであろう順路で病室を歩く。
武城は何も言わずに彼女の歩く姿を見続けた。
壁際を歩きながら、病室をぐるり。最後にベッドの傍に立つ。
ベッドの上に眠っている柳弥勒。
玄河は彼女にカメラを向け、シャッターを切る。
「どういうこと?」
武城は尋ねた。
「それって声が動いていたってこと?」
玄河は口をへの字に曲げ、眉をハの字に寄せて困ったような顔をする。
「んー、ていうか。ほら、森でチュンチュンしたときってなかなか見つかんないじゃん?」
森の中で鳥の鳴き声が聞こえて来た時、どこから聞こえて来たのか探そうとしてもなかなか鳥の姿が見つからないことを言っている。
「チュンチュンじゃんって振り返っても、なんか別のとこからまた聞こえる感じ?」
姿が見えない声というのは、その音がどこから来るか探すのに時間がかかるものだ。
「最初からそこから聞こえてたの」
「最初から」
「そう、最初からずっと枕のところ」
「そこでずっと笑ってたの」
「んー」
玄河は口に人差し指を当てて言葉を探す。
「てか、声だけじゃわかんなくね?」
「えなにそれ」
「笑ってても苦しい声に聞こえたり?」
「ああ、笑い方が下手なやついるね」
「ママも言ってたけど――」
スキップするように、玄河はトトンと跳ねて武城にハグをした。
「泣いてたんじゃないかなって」
幻聴が聞こえた。
それは武城の脳内に響いた幻聴。記憶から呼び起こされる声。怪異とは関係のない生理現象。
笑い声のように聞こえる泣き声が、武城の頭に響いた。




