第96話 変装令嬢と潜入捜査⑧――聖なる場所の不穏な影と、一羽の梟
サンティエ広場へと続く石畳の道は、夕陽に染まって黄金色に輝いていた。
街の中心部は商人や巡礼者で賑わいを見せ、雑然とした喧騒に包まれていた。
香辛料の匂いと絹の衣擦れが混じり合う。
『美味そうな匂いがするぞ!』
エレナ扮するトマの胸ポケットに隠れる小次郎が声を弾ませ、顔を出した。
これは、暗に「美味いものを食いたいぞ!」というアピール。
ついさっき活躍した小次郎にご褒美をあげたいところだが、今はそれどころじゃない。
「あとでね」
『ちぇ……』
エレナに窘められた小次郎は拗ねたような顔をして、再びポケットの奥に入った。
途中、街の子どもたちとすれ違った。
小さな足音が石畳を叩き、夕暮れの影に溶け込むように笑いながら駆けていく。
日常の温もりが漂う光景だ。
ふとエレナの頭の中にスラム街の光景が蘇る。
潮風に晒されて崩れかけた家々、それでも煤にまみれながら笑う子どもたちの声。
同じ夕陽を浴びているはずなのに、そこに差す光はどこか鈍い。
あそこにいる移民のほとんどが、無理矢理この国に異国から連れ込まれた元奴隷だ。
奴隷は体のどこかに必ず焼き印を入れられている。
彼らは薄い布で全身を纏っていた。
恐らくどこかに印があり、それをひた隠しにしている。
ここサンティエ広場の中央にそびえる聖マルス教会は、その対比をさらに際立たせている気がした。
エレナは息を整え、クロフォードとコンラートと共に石段を上がった。
『ふむふむ……』
さっきから小次郎が不思議そうに、ちらちらとエレナの顔を見てくるのが気になった。
「なあに? 小次郎。
おかしい?」
『いいや、全然おかしくないぞ。
けど、変な感じがするなぁと思って』
「変?」
『だってだぞ、気配も魔力もエレナに間違いないのに、なんだか違う。
侍女姿でも思ったけど、人間というのは面白いなぁ。
リスの俺様たちはどうあがいてもここまで変装できないぞぉ』
小次郎がふふん、と感心するように尻尾を振った。
その時、教会の鐘が鳴った。
空気を震わせるように、重く澄んだ音が広がる。
厚い石壁は夕陽を受けて赤銅色に染まり、鐘楼は空を突き刺すように高く伸び、黄金色に輝く。
鐘の音の余韻は長く尾を引き、 鳩が羽音を立てて空高く舞う。
ステンドグラスから漏れる光は、まるで天上から降り注ぐ祝福のように広場を彩っていた。
「……きれい」
エレナは思わず足を止め、見上げた。
その瞳に映るのは、荘厳で揺るぎない教会の姿。
クロフォードもまた、夕陽に染まる鐘楼を見上げていた。
「聖なる場所……か。ここが[夜鴉盟約]の連絡拠点だなんて。
なんだか皮肉だな」
「そうだね」
教会は、夕方だというのに、巡礼者と商人で常に賑わっていた。
確かにここは、領地内でも最大規模を誇る教会だ。
サンティエ伯爵領地に住む領民たちは一生涯に一度はここを訪れたいというほどの名所でもある。
それだけこの教会のステンドグラスは素晴らしかった。
一見の価値はある。
まるで光そのものを編み込んだ絵画のように輝いている。
赤や青、緑の色彩が精緻に重なり合い、描かれた聖人や天使は静かに息づいているように見える。
「大丈夫でしょうかね、あの怪力な侍女とジーンは……」
ふと、不安そうにコンラートが呟いた。
今頃カシアは、例の砂浜に埋めた男たちを掘り起こし、魔法騎士団のところまで連れて行っているはずだ。
だが、領主腹心の部下コンラートにとって、女性にそんな荒業をお願いしてよかったのかと後悔を滲ませている感じだ。
「ジーンも一緒だし、たぶん大丈夫でしょ」
クロフォードがあっさり答えた。
「ですが……」
コンラートは不安を払拭できない感じだった。
「大丈夫だって。男たちも長時間埋められていたからか、ぐったりして抵抗もできない感じだったし。
それに、カシアはマインラート・ソシュール伯爵家の紋章ペンダントを持っている。
あれを見れば、魔法騎士団なら問題なくちゃんと対処してもらえるよ」
「そうだといいんですが……」
いまいち懐疑的なコンラートの背中をクロフォードはぽんと叩いた。
「大丈夫、大丈夫」
――女性一人で自衛警察団まで男数人連れて行くのは大変でしょう。一緒に行きます。
そうジーンが、やけに張り切った様子でカシアに行くことを名乗り出た。
本日一番、キリリと引き締まった顔をしていたと思う。
カシアはそんな男気を見せるジーンを一瞥するだけするが、もちろん頬を染め上げるようなことはしない。人形のよう美しい顔を不思議そうに傾けるだけ。
「っていうか、絶対、ジーン、カシアに惚れ込んでるよな」
クロフォードが階段を昇りながら、ぼそっとエレナにしか聞こえない声で言った。
「ジーンが?」
「そう」
「ふふ、そうかもね。桁違いの美女だからね、カシアは」
「美女でも俺は御免だけどなぁ……しかもあれ、人外だぜ」
「まあまあ。吟遊詩人なんだもの、恋愛は自由だよ」
平民の彼は、貴族みたく家柄や身分に縛られて、婚姻相手を決める必要はない。
それどころか、人外のマインラートの使い魔に惚れこんだことすら、吟遊詩人としてたちまち歌に変えてしまうだろう。
夕日が差し込む教会の厚い扉の前では、祈りを終えた巡礼者が次々と出入りしていた。
入れ替わるようにクロフォードを先頭にエレナとコンラートが入ると、オレンジ色の夕陽が聖マルス教会のステンドグラスを透かし、床に鮮やかな模様を描いていた。
まるで天上から降り注ぐ祝福のように広がり、殉教者マルスの姿が壁画に浮かび上がる。
(なんて、荘厳で美しいのかしら)
三人は巡礼者に紛れて歩みを進め、そのまま回廊の奥に並ぶ巡礼者用の貸しロッカーへと近づく。
誰もが自由に使える貸しロッカーが並ぶ回廊は、人々の荷物で埋め尽くされ、まるで市場のような雑然さを見せていた。
この、誰もが自由に使えるその仕組みこそが、遠方から訪れた信者には便利な代物であり、そしてまた[夜鴉盟約]にとっては格好の隠れ蓑だった。
砂浜に埋められた彼らが命乞いしながら教えてくれたロッカーは、扉に猫の引っ掻き傷があるという。
「ここだな」
お目当てのロッカーを前に、クロフォードが口角を上げて低く呟いた。
ロッカーの扉には円形の石盤が嵌め込まれていた。
そこには数字ではなく、十字、聖杯、星、炎といった聖なる紋章が並んでいる。
クロフォードが聞き出した紋章の順序で紋章を選ぶと、澄んだ鐘の音が響く。
カチッと音がして扉を開くと金属の軋む音がする。
エレナは握った手が汗ばんでいて、自分が思っているよりも緊張していることが分かった。
扉の中には銀の硬貨が一枚、ぽつんと置かれていた。
クロフォードはその銀貨を凝視したまま、わずかに眉を寄せた。
指先で触れることもせず、その配置の角度や、硬貨の「表」が正確に真上を向いている様子を鋭い目で見つめる。
「『実行』だっけ? 硬貨は」
クロフォードが硬貨を見つめながら確認するように、エレナとコンラートに尋ねた。
「うん。そう。
でも、何の実行だろう?」
エレナは眉をひそめ、銀の輝きに映る自分の影を見つめた。
こうやって見ると、硬貨はただの忘れ物に見える。
「……ただのゴロツキの連絡にしちゃ、妙に規律めいているよな。
配置の仕方っていうか……軍部が作戦開始を告げる時の『秘匿暗号』に似ているんだよなぁ」
「軍の暗号……?」
エレナが聞き返すと、クロフォードの若草色の瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っていた。
「ああ。これは単なる犯罪じゃない。
組織立った『作戦』の匂いだ」
「作戦……なんなんだろう」
エレナは首を捻る一方、内容が分からないからこその不気味さを感じた。
肌が粟立って、自分の腕をさすった。
「どちらにしろ、何かを行うぞ、という合図だ。
用心に越したことはない」
「そうだね。
あと、あの人たちが言うとおり、ここが[夜鴉盟約]の組織の連絡場所っていうのは確認できたね」
「ああ」
クロフォードは周囲をちらっと確認する。誰もこちらを見ていないのを見届けてから詠唱する。
「――解錠の囁き」
「これでロッカーが開いた瞬間、俺にそれが分かるよう魔法をかけておいた」
すぐ駆けつければ、誰が開けたのか分かるかもしれない。
「そんな一か八か的なものよりも、誰か見張り役を置きませんか?」
神妙な面持ちでコンラートがクロフォードに尋ねた。
「ああ、まあ、確かに。
サンティエ家から誰か手配できそうか?
なんなら、魔法騎士団に頼むか?」
「ええ、できればそうさせていただきたいところです。
現段階のサンティエ邸は誰が味方なのか分からない状況ですからね」
コンラートは考えを巡らせながら、ゆっくりと言った。
「了解。じゃあ、次は魔法騎士団が陣取っている自衛警察団の詰所へ行こう」
結局のところ、何を実行するのかは定かじゃなかった。
再度あの男たちに質問し直してみるべきか、三人と一匹は首を捻りながら、すっきりしない気持ちのまま教会を後にした。
石段を降りながら、エレナはもう一度振り返って黄金色に染まる教会を仰ぎ見た。
ステンドグラスから漏れる光は広場を彩り、巡礼者の影を長く伸ばしていた。
周囲には鳩が群れをなし、屋根や回廊に止まっては羽音を響かせている。
夕陽に照らされた白い羽が舞い散る様は、まるで平和の象徴のように見えた。
だが、その中に異質な影が混じって、エレナは思わず目を細めた。
「え……」
コンラートも同じように気づいたらしく、声に出して呟く。
「……あれは梟でしょうか?」
鳩の群れを裂くように、一羽の梟が夕陽を背にして舞い降りてきた。
その鋭い翼は鳩たちを散らし、広場の空気を一瞬張り詰めさせる。
梟は真っ直ぐにクロフォードのもとへと飛び、上空を何周もくるくる回る。
「あれは第八魔法騎士団の遣いだ……」
クロフォードが眉根を寄せて低く呟いた。
梟はクロフォードの肩に舞い降りると、黒い瞳を瞬かせ、まるで言葉を持つかのように静かに佇んだ。
周囲は現れた梟に驚き、異様な静けさに包まれ、ちらちらと遠巻きに三人を見た。
自然界の摂理か、ポケットの中の小次郎の耳がピンッと伸び、恐る恐る警戒心を剥き出しにして梟の様子をじっと窺っていた。
梟は足首に巻かれた小さな筒を差し出した。
クロフォードがそれを受け取り、封を切って、筒の中の手紙をさっと読む。
「え!」
クロフォードから狼狽した声が漏れ出た。
「どうされたんですか?」
クロフォードはコンラートに紙片を差し出した。
コンラートがそれに目を通し、エレナと小次郎もそっと横から覗き込んだ。
短い一文が記されていた。
――フレデリカ・サンティエ伯爵令嬢が誘拐された模様。至急、自衛警察団の詰所までお越しください 。
コンラートの顔がサッと蒼ざめた。
エレナは息を呑み、クロフォードの手に戻った紙片をぎゅっと握った。




