第92話 変装令嬢と潜入捜査④――背信の指先と、思わぬ助っ人騎士団
エレナたちがスラム街の狭い路地を歩いていると、前方からざわめきが押し寄せてきた。
笑い声や囁き声が入り混じり、何かを取り囲むように人々が集まっている。
エレナは思わず足を止めた。
「なに? あれ……」
エレナの問いかけにジーンも訝しげに首を捻った。
子どもが背伸びをして覗き込み、老人が首を傾げ、女たちはひそひそと噂を交わす。
その表情には恐怖よりも好奇心が濃く、しかし笑みはなく、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
「なんでしょうね?」
喧騒の中心で声高らかに自らを名乗る聞き覚えのある声が聞こえた。
「あたくしは、サンティエ伯爵が娘、フレデリカよ」
エレナとクロフォードは思わず顔を見合わせ、恐る恐るコンラートに視線を飛ばした。
「なぜお嬢様が……」
コンラートの顔は真っ青だった。
「ねえ、あなたたち、教えて」
澄んだ声が、ざわめく群衆の中でひときわ場違いに響いた。
「あら、でも、ごめんなさいね。あまり近づかないでくれる?
あなたたち、臭うのよ。
ちゃんと湯殿に入っているのかしら?」
フレデリカは眉をひそめ、鼻先をわずかに歪める。
美しい絹のドレスに、燃えるような赤髪、陶磁器のように滑らかな肌。
その完璧な美貌から放たれる言葉は、冷ややかな蔑みを帯びていた。
本人にとって何気ない一言なのだろう。
けれど、この無自覚さ、悪意のない残酷な言動にエレナは恐怖心を覚えた。
言葉が通じなくとも、人々はその表情から侮蔑を読み取っている。
その証拠に、ざわめきが広がり、群衆の顔に不快の色が浮かぶ。
「すみません、ちょっと見て参ります」
コンラートは血相を変え、群衆をかき分けて突き進んだ。
「おいおい、誰だよ。
ここにフレデリカを連れてきた奴は……」
蒼ざめたクロフォードは頭を抱えて、その場にしゃがみ込む。
「マジで勘弁してくれよ」
「ああ、あれがこちらの領主のご令嬢ですか……。
なかなか強烈な個性をお持ちですね」
ジーンが苦笑を浮かべた。
「個性どころじゃねぇよ。本当、迷惑」
「あはは。でも、あれはまずいですね。
言葉の壁はあっても、同じ人間ですからね。
彼女の露骨な態度から伝わってしまうものですよ」
エレナもおどおどしながら、頷く。
好奇心で集まっていたはずの人だかりが、次第に重苦しい空気へと変わっていくのを、クロフォードもジーンも肌で感じているようだ。
野次馬たちの大半は、言葉が分からないはずなのに、なんだか怒っているように見える。
そもそも、このスラム街の人々はエレナたちに好意的ではない。
たまたま彼らの作ったものを口にしたことで心が通い合ったように見えただけだ。
だが、フレデリカの奔放な言動は、その脆い均衡を崩し、移民たちの不満を爆発させる火種になりかねないのだ。
エレナの胸に、不安が冷たい影となって忍び寄った。
そして、エレナには、もう一つ懸念材料があった。
彼女は魔法が使える。
それを[夜鴉盟約]に悟られ、魔力測定器で魔力を測られたら?
誘拐される恐れだってある。
「ねえ、あなたたちは、『魔力石』を知らない?」
フレデリカの高飛車な声はまだ響いていた。
『魔力石』という単語が出ると、その単語は分かるのか、移民たちがざわっとどよめいた。
「あたくしは魔力石を探しているのよ」
その反応に何を勘違いしたのか、フレデリカは気を良くして、ますます声を張り上げた。
エレナは額を押さえ、思わず舌打ちをしていた。
苛立ちがじわじわと募っていく。
(なんで言っちゃうかな?
その単語は口にしない方が安全なのに)
フレデリカだって、昨日何者かに魔力石を盗まれていく光景を目撃した。
それなのに、不用意に『魔力石』という単語を口にする。
それだけで、悪者に目を付けられるかもしれないことを彼女には分からないのだろうか。
全然危機感がない。
コンラートが彼女の暴走を止めてくれる、と期待しつつも、一抹の不安は残る。
果たして、彼女が父親の腹心の部下コンラートの言うことをおとなしく聞くだろうか。
いや、聞くわけがない。
「『魔力石』というのはね、ひし形でね、とても美しい七色をしているの。
あなたたちからしたら大変高価なものなのよ。
でもね、昨夜我がサンティエ伯爵家から盗みを働いた人がいて……」
フレデリカの独白は続いていた。
ざわめきは一層膨らんでいく。
(ああ、もう、どうしてこうもわたしたちが嫌がることを平気でやれるのかしら。
これが人助けになるって本気で思っているわけ?)
中央の役人だと顔バレしたくないクロフォードも、もどかしい気持ちでしゃがみこんだまま、爪を噛みしめ動けずにいる。
同じ貴族令嬢としてエレナも苛立つ。
彼女の奔放な言葉は、悪意ではなく無知から生まれた残酷さ。
それこそが最も危うい火種になる。
そして、潜入の努力を無下にし、周囲の注目を引き寄せる愚行。
無知で無神経。
――その『無垢な残酷さ』が、今この瞬間も誰かの首を絞めていることに気づかないのか。
抑えきれない殺意に似た感情が滲み出してしまう。
これ以上、彼女が余計なことを言う前に止めないと。
(そうだ、あの子の口を封じよう)
と言うと、とても剣呑だが、ほんの少しの間、そのおしゃべりな声を封じるだけ。
これくらいの魔法なら施しても特に後遺症は出ないはずだ。
本来、魔法はよっぽどの理由がない限り、人に施してはならない。
とはいえ、ここでもしペラペラと王城の役人であるエレナやクロフォードの存在を明かし、エレナたちが『魔力石』の調査をしていることを公表されるのは、大変困る。
もし、このことで魔法省に帰ってから咎められたら、その時はその時だ。
(よし、行こう)
エレナは自らを奮い立たせ、言う。
「わたしも見て来る」
「え? ちょ、ちょっと待て。やめておけって」
クロフォードが立ち上がって、そっと耳打ちする。
「だって、エレナ、人混み、苦手だろ?」
「うん、でも、行く。
コンラートさんの説得にも応じないようなら、魔法で一時的に彼女の声を出ないようにするから」
「待て待て。
それなら、俺が行く」
クロフォードが群衆の方に向き合う。
「駄目。
クロフォードはそのまま隠れてて」
「けど」
「そうしないと、フレデリカ様のことだよ。
昨晩みたいに突進して抱きつかれるかもよ?」
「げっ」
クロフォードの顔が露骨に歪んで、一歩後ろに退く。
「だから、わたしが行ってくるの。いい?
ちゃんとそこでクロフォードは待っててよ」
エレナは、ぴしゃりとクロフォードに言い放つと、人混みをかき分けて前に突き進んだ。
フレデリカの甲高い声が耳に突く。
「……だからね、あたくしにその『魔力石』を返して欲しいの。
ちゃんとお代は支払うわ。
ねえ、あなたたち、そういう人物に心当たりはない?」
エレナの苛立ちは頂点を極めた。
(なぁにが、あたくしにその『魔力石』を返して欲しいの、よ。ふざけるのも大概にして)
フレデリカの考えはどこまでも自分中心だ。
本気で自分の説得一つで、闇ギルドの連中が『魔力石』を本当に返してくれると思っているだろうか。
あっちだって危険を冒してまで領主邸に忍び込んだんだ。そう簡単に返してくれるわけがないのに。
(まったく、とんでもなく頭の中、お花畑だわ)
少年トマに扮するエレナは、内心毒づいた。
「おやめください、フレデリカ様」
ようやく群衆の一番前に飛び出したコンラートが、フレデリカの話を遮った。
「あら、コンラート。
やっぱりここにいたのね」
フレデリカの声はどこ吹く風。
それどころか、ようやく見つけたと言わんばかりに、声が上擦っている。
「で、クロフォードはどこ?」
「彼はおりません。
それよりなぜここに?」
端的にコンラートは答えた。
「嘘つかないで。
ここにクロフォードがいるって知っているのよ。
それに、あたしがこうやって『魔力石』回収のお手伝いを進んで協力してあげてるんだから、臣下のあなたはまず感謝を述べるべきじゃないの?
なんて無礼者なのかしら」
フレデリカの居丈高な口調に、ますます群衆が不快にざわめいた。
空気の変化を肌で感じ取るたび、エレナの心臓は早鐘を打つ。
言葉は分からずとも、フレデリカの高圧的な態度に明らかな反感を示し始めている。
その場の空気がじわじわと険悪に変わっていくのを、エレナは恐怖と苛立ちが入り混じって胸を締め付けた。
やっとかき分けて入った群衆の中、エレナは必死で背伸びをした。
そうすれば、かろうじてフレデリカたちの様子がなんとか見えるのだ。
「協力は結構です。
お嬢様は屋敷へ早々とお戻りください」
ぴしゃりと冷たくはねつけるコンラートの声。
「ほら、お前たち、一刻も早くお嬢様を連れてこの場を去りなさい。」
コンラートが付き添いで来た護衛と侍女たちをギロリと睨みつけた。
護衛は、特にコンラートの部下だからか、一際ぎくりと肩を震わせた。
「もう、コンラート、何を言っているの?」
フレデリカはフン、と鼻を鳴らした。
「あたくし自ら未来の旦那様であるクロフォードのお手伝いをしようとしているのよ」
「ですから、それは一切不要ですから」
あくまでもコンラートは強気で拒絶した。
がんと譲らない強い語尾。
「どうしてよ。
領主の娘のあたしが尋ねた方が、余所者の女官より早く情報を入手できるはずでしょ?」
怒りを滲み出すフレデリカは、なかなか引かない。
エレナは人知れず頭を抱えた。
(駄目だ、この子。自分の状況を理解できていない。
ああ、お願いだから、これ以上クロフォードの名前を連呼しないでよ)
せっかく、変装して極秘できたのに、これではすべて水の泡だ。
(だいたい、誰よ)
あの子にここにエレナたちが訪れていることを知らせたのは。
エレナはふつふつと怒りがさらに湧き出てきた。
エレナとクロフォードがここに来ていることは、サンティエ夫妻とその腹心の部下、口の堅い侍女しか知らない。
サンティエ夫妻だって、他家のエレナがここを訪れることすらいい顔しなかったんだ。娘に話すわけがない。
その時、エレナは気づいた。
何やってるの? あの人――。
視界の端、異様なものを見た。
フレデリカの背後に控える侍女の両手の動き。
息が止まりそうになった。
彼女の両手は、祈るように組まれているふりをして、指先が奇妙なリズムを刻んでいた。三角を作り、指を重ね、複雑に形を変える。
それは、コンラートへ向けられたものではない。
その向こう側にいる――群衆の中に紛れる、昨晩自分たちをつけた男への合図だ。
よくよくみると、さっきまでみかじめ料徴収していた男たちも、その男の傍にいるではないか。
晴れ渡る空。
じりじりと太陽が世界を灼くのに、悪寒に似た感覚が蘇った。
体温がどんどん冷えていく。
得体の知れない不安、何か不穏なものが滲み広がっていく。
エレナは、魔法を使おうと詠唱を紡ごうとする。
不意に群衆に影が覆い、そして、エレナは大きな魔力を感じた。
「いやはや、これは何事でしょうか?」
空から声がした。
軍服に身を包んだ凛然とした屈強な男たち数人。
彼らは魔法騎士団だ。
その中でも昨晩の自衛警察団を捕縛した第8騎士団のメンバー。
彼らはフレデリカの真ん前の地面に降り立つ。
群衆は顔を蒼ざめ、蜘蛛の子を散らしたように解散した。
もちろん、[夜鴉盟約]だと思われる男たちもその場を去って行った。
「貴女は、フレデリカ・サンティエ伯爵令嬢ですね」
リーダー格の騎士が、フレデリカに怜悧に声を掛けた。
「ええ、そうですわ」
フレデリカは毅然と答えた。
「我々はただいま魔力石の取り締まりをしております」
「あら、偶然ね。
あたくしもその情報を求めておりますの」
「そうですか」
低く落ち着いた声だが、その目は鋭い。
「ねえ、あなたたち、何かいい情報をお持ちじゃない?」
騎士たちは目配せし、それからフレデリカに向き合う。
「そうですね。
……逆に我々は、なぜあなたがここで情報を求めているのかが疑問です」
「え?」
予想外の台詞だったのか、フレデリカはきょとんとした。
「むしろ、あなたが何か一枚噛んでいるのではないかと疑っております」
奇妙な笑みを騎士は浮かべた。
「何を言っているの?
あたくしはクロフォ……」
「こんなところで大々的に『魔力石』のことを口にするということは、売りさばく悪者たちに加担しているのではないか、そう疑わざるをえません。
一度詳しくお話をお聞かせいただけますか?」
「お話ってそんな、話すことなんてないわ」
「いいえ、ご同行願います。
ちなみに、サンティエ伯爵は、こちらに貴女が来ていることをご存知なのでしょうか?」
騎士団員の言葉尻りは丁寧だが、鋭い眼光から迫りくる圧迫はかなりある。
フレデリカは顔を蒼ざめ、静かに頷いた。
案の定、フレデリカは両親には内緒でここを訪れたようだ。
じゃあ、誰がフレデリカに情報を流した?
コンラートはほっとしたような表情を浮かべ、そして、彼女を連れてきた護衛と侍女を咎め始めた。
やがて、フレデリカとお付きの者たちは、騎士団に連行される形でこの場を後にした。
エレナは胸をなでおろした。
とはいえ、彼女のせいでクロフォードという名の役人がここにいることが知られてしまった。
それと同時に、侍女の不可解な手信号。
何故貴族の侍女がこんな荒れ果てたスラム街にいる男と連絡を取るのか?
エレナは、習得したばかりの手紙魔法をこっそり発動させる。
マインラートやクロフォードのように、動き回っている特定の人物に直接送ることはまだできない。
でも、今回のように決まった場所、つまり座標が固定されているなら問題ない。
「――言葉よ、形を成せ。
我が想いを刻み、定められた座へ届け。
――手紙魔法!」
エレナの手元がぼんやりと明るくなり、エレナが頭に描いた文章が転写される。
宛先は、サンティエ邸のバルトロメ・サンティエ領主の執務席だ。
手紙は決まった座標に固定され、そこに淡く浮かび上がる。
空気に溶けるようにして飛んでいき、手元の光が消えた。
(これでよし……)
エレナは再びクロフォードとジーンと合流した。




