第90話 変装令嬢と潜入捜査②――きらめく海面と澱んだ流れ
橋を降りたエレナたちの目に広がったのは、川沿いに果てしなく続くスラムの帯だった。
鼻を突く悪臭が潮風に絡みつき、胸の奥に重く沈むような感覚が広がる。
それは港町の繁栄とは別世界だった。
足元のフナムシがサッと影に隠れ、エレナはひやっとした。
板切れや布を寄せ集めただけの小屋が、川の両岸にびっしりと張り付くように並んでいた。
その群れは濁った流れに沿って海へと伸びていた。
茫然とするエレナの隣に、クロフォードが立つ。
「中心街と落差が激しいな」
「うん……」
苦く重いものを胸に飲み込んだ。
「潮の満ち引きが、この街の階層を決めています」
吟遊詩人のジーンが静かに乾いた声で説明する。
「最も低い場所に建てられた小屋は、満潮になれば水に浸かり、住人たちは夜ごと寝床を濡らしながら暮らしています。
最も高台の小屋に住む人は、スラムの中でもかなり余裕のある人々です」
エレナはジーンの視線の先にある高台の小屋を見た。
雨風を凌げる吹きさらしではない、板を重ねて補強した造り。
つまり、ここに住む者たちは闇ギルドにみかじめ料を払えるだけ稼いでいる。
ジーンは先頭に立って、歩き出す。
「これは……想像以上に酷いな」
ちらちら周囲を見たコンラートが改まった声で呟いた。
「これが現実ですよ。特にここ数年は、顕著だそうですよ」
数年――闇ギルド[夜鴉盟約]が組織化して、目立ってきた時期だ。
「そもそも、ここはこの国のあぶれ者たちが集まってできた小さなものだったそうです。
それが、異国から連れてこられた奴隷の逃亡者たちが住み始め、いつの間にかこんなに大きくなったとか」
「奴隷の逃亡者って、マリュード皇国へ連れて行くための奴隷、だよな?」
「恐らく」
ジーンは、中心街を指差した。
「中心街からマリュード皇国は大通り一本で繋がってます。
途中、大きな森や川、山岳を越えなければなりませんが、ここから一番最速最短で到着できる道です」
「けど、奴隷を連れた荷台などを目撃した証言はありません」
ジーンの言葉にコンラートが補足するように言った。
「そうなんだよなぁ。マリュード皇国に連れて行く奴隷の船がこの港に漂着しているのは、王宮魔術師と軍部の報告に多数あがっている」
クロフォードは中心街にある港に視線を投げる。
「でも、その運搬方法、ルートが不明なんだ」
「なるほど。
王宮魔術師と軍部を欺けるほど、相手は相当な手練れなんですね」
ジーンは乾いた声で呟き、慣れた様子でスラム街を進む。
その間、無数の視線が注がれていた。
エレナたちが珍しいのだろう。
思わずエレナはクロフォードの服の裾をつかむ。
それに気づいたクロフォードは多くの視線からエレナを遮るようにして歩く。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
警戒し、怯える目。
見るからに高貴な身なりの人間が何しに来たと怒る目。
あわよくばエレナたちの持ち物を盗もうと狙う悪意に満ちたギラついた目。
無関心を装いながら、何か恵んでくれるのではないかという期待の目。
エレナは身のすくむ思いがしながら、重い足取りで歩く。
「広いな」
クロフォードが呟いた。
「ええ、スラム街といえど、思ったよりも広い。
ちょっとした町です」
ジーンは抑揚なく相槌を打つ。
沈黙。
みんな、それぞれ別のことを考えているようだ。
「少し、歩く速度を早めます。
そうしないと、物乞いが寄ってきますから」
ジーンの歩みは、次第に速まる。
どこからともなく異国の言語が聞こえてきた。
人々の笑い声や子どもたちのはしゃぐ声もそこに交じる。
歩くスピードを早め、湿度も高いせいか、肌に汗が粘りつく。
風に乗ってくる話し声も、どこか気持ちを苛立たせる。
これは、緊張しているせいなのだろうか。
「とりあえず、そうですね。
慈善活動の炊き出しをやるのでしたら、やはり中央の広場ですね」
ジーンはわざとらしく朗らかな声を出し、エレナたち一行が害意を持ってこちらに来たわけじゃないことをアピールする。
言葉が通じない以上、どこまで意図が伝わったかは不明だ。
それでも、なんとなくだが、突き刺さるような警戒の視線は和らいだ気がした。
(あれ……?)
エレナはふと、複数人で歩く男たちに視線が自然とそちらに向けられた。
質素な服だが、スラム街に住んでいるわりには身なりがいい。
腰には帳簿のようなものを下げ、手には小袋を持つ。
小屋の前に立つと住人が慌てて何かを差し出していた。
男たちはニヤニヤしながら奪い取るように無言で受け取り、袋に放り込み、また歩き出した。
(たぶん、みかじめ料の取り立てだ)
彼らの歩みは妙に軽い。
靴音が石と砂を踏みしめるたび、周囲の住人たちの空気が張り詰めた。
通りを見渡すと、人々は彼から目を背け、子どもたちは泥遊びをやめて母親の影に隠れた。
「ねえ、クロフォード」
エレナは声を潜めた。
「なんだ?」
「あの人たち……わたしたちを昨日つけてきた男たちだよね?」
「え、あ? マジ?」
クロフォードがちらっと彼らを盗み見た。
「確かに。アイツらだ。
じゃあ、あれは[夜鴉盟約]の連中ってことか?」
「たぶんね」
「ふうん」
クロフォードは少し考え、ジーンに小声で話し掛ける。
「なあ、それとなくあの男たちの後を付けてくれないか?」
ジーンはさっとクロフォードに視線を投げ、さりげなく頷いた。
ゆっくりとした足取りで、そして例の男を追跡しながらも離れて案内をする。
しばらく歩き進めると質素な露店がぽつぽつと立ち並んでいた。
「あそこでちょっとした商売をやってるんです。
露店街と呼ぶには些かお粗末ですが、ここに住む病人や怪我人にはありがたい商店ですね」
商店といっても露店とも言い難い、薄い板で簡易的に作ったボロ小屋だ。
強風が吹いたら、あっという間に壊れそうに脆い。
調理台なんてものはない。
店の前の小さな簡易な石の竈で魚を焼いて、壊れかけのイスに座る人たちに薄汚れた器に入った料理を小銭と交換で提供している。
隣の露店は、地面に薄い板を置き、魚や貝を剥き出しで羅列しているだけだ。
蠅などの虫が飛び交う。
市場のように氷など並べて、新鮮さを売りにしている様子はない。
照りつける太陽で、並べられている売り物の魚の目玉が赤く濁り、干からびている。
「へえ、焼き魚を売っているのか」
クロフォードが焼いている魚に興味を示した。
昨日一緒に食事をして思ったけど、クロフォードは肉も好きだけど、魚を好んで食べるようだ。
特に煮込み料理のトマト煮は好物のようで、嬉しそうに頬張っていた。
奥で二枚貝のスープを煮込んでいる。煮汁のいい匂いがする。
エレナは飲食店っぽい露店を覗き見た。
「ここは港町です。海に入れば魚は取り放題です。
何気に彼らが採ってきた魚は美味いんですよ。
たぶん、魚を捌くのが美味いんですよね。
刃物さばきとか、三枚おろしっていうらしいんですが、なかなか素晴らしい腕前ですよ」
にっこりとジーンが和やかに笑っていると、聞いたことない言語で店員らしき肌の黒い異国の男がジーンに声を掛けてきた。
ジーンは流暢にその男と異国語で話し出した。
「わぁ、すごい」
エレナは思わず呟いた。
クロフォードとコンラートもびっくりしていた。
全然知らない言語を繰り広げる二人。
きっとジーンは、彼らに言葉を教えてもらい、必死で覚えたのだろう。
男も、なんとなくだけど、時折この帝国の言語を口に出している。
サンティエ伯爵夫妻は、「言葉の壁」は想像以上に厚い、と言っていた。
けれど、こうやって互いに必死に言葉を覚えようとすれば、心を交わすことはできる。
そう、お互いが通じ合いたいという意志があれば――。
「三人は僕の友達って話をしたら、焼き魚を売ってくれるそうです。
品はこれ一点になりますけど、どうします?
僕、彼らとの付き合いもあるし、奢りますよ」
ジーンが三人に尋ねた。
「焼き魚っていっても……」
見ると、魚は新鮮でも露店周辺には蠅がたかっている。
魚も豪快に焼いているだけで、さして美味しくなさそうだ。
クロフォードとコンラートは少し顔をしかめた。
「もちろん、これは強制じゃないですよ。
彼はね、必死でこの国に馴染もうとしているんです。
言葉も、領主が設営した自立支援施設に通って学び、少しずつだけど、話せるようになっているんです。
ただ、文化と宗教の違いから、清潔観念とか、そういう習慣がまだ馴染めないみたいなんでここに住んでる。
ってことで、僕は彼を応援したい気持ちを込めて、お金を出して食べますけどね」
「え……でもなぁ……」
クロフォードとコンラートは顔を見合わせながら、辞退しようとする。
エレナが一歩前に出て、言う。
「食べてみたい、です」
クロフォードとコンラートはぎょっとした。
ジーンは、一瞬驚いた表情を見せつつ、微笑む。
「いい心意気です」
男にジーンが何か言うと、その男は何かの葉に包んだ一切れの焼いた魚をエレナに差し出した。
エレナは不思議そうな顔をしながらも受け取る。
温かい。
小さな木の切れ端が添えられていて、それを使って魚をぱくっと何のためらいもなく入れた。
「マジかよ……絶対明日、腹下すって」
クロフォードの呟きが聞こえた。
エレナはもぐもぐ食べる。
「うん、結構いける。
塩味きいててシンプルに美味しい」
エレナの顔が思いのほか輝くので、クロフォードとコンラートはますます顔を引きつらせ、逆にジーンと男は嬉しそうに笑った。
店先の男はますます嬉しくなったのか、店の奥からスープを器に入れて持って来た。
「サービスだそうですよ。
これは滅多にないことです」
ジーンは友好的に微笑んだ。
けれど、その器は明らかにどこをどう見ても汚れていて、清潔感がない。
虫がスープに浮かんでいた。
(うわぁ……)
さすがに、エレナは内心困惑するが、男たちの期待に満ちた瞳に何も言えなくなる。
今更、やっぱりいりません。なんて口が避けても言えない。
「えいっ」とばかりに虫を避けて、器に口を付けて一口飲んだ。
「え、なにこれ」
じんわりと貝の旨味が染み渡る。
「案外、美味しい。出汁きいてる……」
まじまじとスープに入っている二枚貝を観察する。
男は大喜びし、隣の露店の背の高い男に話し掛ける。
それまで興味津々でこちらを見ていた客らしき移民たちもエレナに、気さくに声を掛け始めた。
「え、あ、あ、あ……」
エレナはその頭を小さい子どものように、男たちに「よしよし」と撫でられ、好意的に話しかけられる。
けど、言葉は分からないし、初めての男の人たち。
彼らに囲まれ、エレナは体をカチカチに強張らせた。
「おいおい、エレ……じゃない、トマ。大丈夫かよ」
クロフォードがエレナの肩を叩くが、エレナは完全に硬直している。
「あはは、彼らに気に入られたようですね」
ジーンは他人事のように笑った。
そのうちエレナは異国の男たちからいろんな食べ物を差し出された。
「え、え……」
「差し支えがなければ、ほんのちょっとでもいいので食べてあげてください。
彼らはこの国に来て、この国の人たちが自分たちが作った食べ物を口にしてくれたことが嬉しいんですよ」
ジーンはやんわりそう言うが、全然見たことのない食べ物と匂いにエレナは躊躇う。
そのとき、エレナの隣にいたクロフォードが、ひょいっと、料理を口に入れた。
「あっ、本当だ。案外いける」
クロフォードのその声に、言葉は分からないけれど、彼らは好意的なものを感じ取ったようで歓喜の声を上げた。
たちまちコンラートも異国の男性たちに取り囲まれ、食べ物を差し出される。
渋々コンラートも口にした。
「お〜!」
その途端、何故か拍手まで沸き起こって、一気に場が盛り上がった。
彼らにとって、なかなかの好感触のようだ。
悪い気はしない。
むしろ、仲間として認められたような誇らしい気持ちに陥る。
それでもクロフォードは心配に思ったのだろう。
「ジーン、明日腹壊すとかないよな?」
そっとジーンが尋ねた。
「え? 予防薬を飲んできてないんですか?」
きょとんとするジーンの声に、三人は顔を蒼ざめた。
やっぱり清潔観念に大きな隔たりがあったようだ。
「ほう、これは珍しい。
お貴族様ですかな」
ふと、この国の言葉が飛んできた。
老人のしわがれた声。
振り向くと、年配の白髭を生やした背の低い、とても身なりがいい男性だった。
五十代半ばか、もしくはそれ以上の歳だろうか。
彫の深い、目の落ちくぼんでいるが、清潔感があり、しゃんと背筋が伸びていた。
「ラダース!」
異国の男たちが敬うように口々に声を上げた。
「あっ、どうも。
ラダース先生」
ジーンが彼に会釈をした。
「やあ、ジーン。
今日もお天気はいいねぇ」
「ええ。波も穏やかでなによりです」
穏やかに他愛ない会話を交わす。
どうやら二人は顔馴染みのようだ。
「こちらの御方は?」
老人はちらっと三人に視線を投げた。
「はい、こちらはサンティエ家から遣わされた方々です。
近々ご夫人がスラム街で炊き出しを行おうと検討しているとのことで、今回、彼らが下見にいらしたんですよ」
「ほう、そうですか」
三人はペコリと頭を下げた。
「クロフォード殿。
こちらはスラム街にお住まいのラダース医師です」
「医師⁉︎」
驚いて三人は顔を見合わせた。
「そうそう。これでも医師です」
その反応に、彼は楽しそうに笑った。
「ちなみに、医療技術はどこで学んだんですか?」
コンラートが尋ねた。
「儂はこれでも元は貴族なんですよ。
ですが、貴族社会では医療についての考え方がどうも折りが合わず、人命を救いたく、このスラム街に流れ着きました」
「そうですか。
まさかこの街に医師がいるなんて驚きです」
コンラートは感銘を受けた。
「いやいや、本当、流れ者に過ぎませんよ」
ラダースは手をひらひらと振った。
「いえ、それでもこういう場所で医師をなさっているとは……。
いやはや、なんと高貴な心持ち。素晴らしいです」
丁寧に敬意を示して、コンラートが胸に手を当て、お辞儀をした。
「ははは、なに、そんな大したことじゃないですよ。
ところで、あなた方はちゃんと腹痛予防のお薬は飲まれてますよね?」
三人は気まずそうに顔を見合わせた。
「それが、先生。
どうやら飲み忘れてしまったようでして」
ジーンが気まずそうに言葉を切った。
「おやおや、それは大変ですね。
見たところ、口に入れたものは火を通したものなので、まあ、大丈夫なんだと思いますが……」
ラダースは言葉を濁しつつ、三人の顔色を探るように見る。
三人はごくりと唾を飲み込んだ。
「念のため私の診療所に行きましょう。
お薬を出しますよ」
「ありがとうございます」
三人は同時に頭を下げ、お礼を言った。
「ではでは、こちらです。
行きましょうか」
ラダースは、先を歩き出そうとした。
「あの、クロフォード殿」
ジーンがクロフォードにそっと囁く。
「あの男の尾行はどうしますか?
おそらく、各家を回ってみかじめ料を徴収するので、かなり時間を要すると思います。
それに、我々は少々目立っているようでして、尾行は難しいかと……」
ジーンが気まずそうに、ぐるりと集まって来た移民の野次馬を見廻す。
「……みたいだな」
クロフォードは頬をぽりぽり掻いた。
好意的に受け入れられたようで何よりだが、こっそり調査に訪れたにしてはバツが悪い。
「そうだな。これ以上注目を集めるのは避けたい。
あの男たちも、たぶん俺の顔を覚えているだろうし。
うん、そうだな、これ以上深追いしても収穫なさそうだからいいや。
とりあえず、ああやって連中が違法みかじめ料を取っているのはよく分かったし」
「そうですか。承知しました。
それで、その……すみません。
お三人に事前に薬を勧める前に露店を回ってしまい……」
ジーンはすまなさそうな顔をして、言葉を切った。
「いいよ。こっちも不用心すぎた。
はぁ、やっぱ何も予防せず食ったらまずかったよなぁ」
クロフォードが狼狽の色を滲ませた。
「えっと、そうですね……。
皆様貴族ですから、ふだん、こことは違う清潔さ溢れる環境で生活されているので、下手したら三日間下痢する可能性がありますね」
「え?」
三人はさーっと顔が蒼ざめた。
そんな中、ジーンはにっこり笑顔を浮かべる。
「僕はほぼ毎日通って、すっかりお腹が丈夫になりました。
今では薬いらずですけどね」
「うっかりのレベルじゃねえよ!」
クロフォードが、本音をぽろりと言い捨てた。
「ふぁははは!」
ラダースは豪快に笑った。
「だから儂の診療所にお誘いしたんですよ。
彼らに悪気があるわけじゃない、このジーンにもね。
ただ彼らの使う油が我々と合わんだけなのです。
人は水と油が合わないと腹を下しますからね」
「申し訳ありませんが、処方をお願いしてもいいでしょうか?」
渋い顔でコンラートが丁寧にお願いをした。
「はいはい。
ですから、我が診療所に参りますよ」
ラダースは歯を見せてにかっと笑った。
異国の男たちは、ラダースの診療所に向かう三人を笑顔で手を振って見送った。
手を振ってお別れをするのは、万国共通なのだろうか。エレナは軽く手を振り返した。
「移民というから怖いイメージあったけど、別に普通だったね」
ホクホクした気分でエレナが言うと、クロフォードが同意して頷く前に、ジーンが首を振った。その顔は険しい。
「あそこの地帯だけですよ。
ほら、ご覧ください」
歩きながらジーンは、海沿いに視線を投げた。
エレナたちもつられるようにして、その視線を辿る。
「海面近くなると、いろいろ最悪です。
さっきの場所はスラム街の中でも、海面から最も離れている一番治安の良い中央広場。
心にまだ余裕があるので、犯罪も件数も少ない」
ジーンの声は暗く、鋭かった。
そのジーンの咎めるような眼差しが、エレナに向けられる。
「特にトマ。油断してはいけないよ。
君は小柄な男の子だ。
顔立ちも所作も貴族並みにキレイだ。
人買いに最も狙われやすい。
気を引き締めて」
警戒心を滲ませるジーンの声に、エレナは戸惑った。
嫌味や皮肉で言っているわけじゃない。
本心で忠告してくれている。
エレナは自分の不用心さを恥じ、視線を泳がしつつ、言う。
「はい、気をつけます」
ラダースは、さらに海面から離れて高台を目指した。
「彼らはスラム街に住んでおるが、ちゃんと漁師という職で生活を営んでおる者たちだ。
朝早く魚を獲り、中心街の市場でも売る。
売れ残った魚をここで売り、この小さな集落の経済を循環させている。
街の機能を果たす歯車のひとつ」
ゆっくりと、さっきよりも砕けた口調で、ラダースは話し出した。
その彼の言葉の節々に訛りがあるのに、エレナは気づいた。
ひょっとしたら、彼はこの国出身ではないのかもしれない――。
「彼らがね、食事を他人に提供できるということは、それなりに余裕がある証拠。
身なりもそれなりに整えられる。
だから市場でも買ってもらえる」
歩き進めている最中も、壊れかけの小屋の隙間から視線を感じた。
肌の色の違う小さな子どもたちや子守りをしている若い女の子。
怯えと好奇心が入り混じった視線。
ラダースはため息をついた。
「だが、海面近くに住む者はそうもいかない。
服はぼろ雑巾のようで、体をこまめに拭いていないため体臭も強い。
市場に現れた時点で追い払われてしまう。
そして、ますます生活は困窮し、彼らは犯罪に走る」
「悪循環ってことか」
クロフォードが眉をひそめて呟いた。
「そう。そして、どんどん困窮していく」
ぎらつく日差しは容赦なかった。
きらきらと輝く海面と、纏わりつく潮風。
うっすら汗が滲む。
喉がカラカラだ。
引き潮の橋の下をくぐると、日陰は涼しかった。
エレナは少し安堵して表情が和らぐが、足元がぬかるんで歩きにくい。
この日陰は、ここに住む人々の憩いの場所なのか、何人かが寝そべって涼を取っていた。
それでも重苦しい空気と腐敗臭は変わらない。
その時、エレナの全身を熱くて嫌なものが駆け巡った。
お腹が少しギュルギュル鳴り始める。
「最近では自分の血を売れば金になると知った最下層の者たちが、儂のところにも血を売りに来てね。
儂のところでは、そんな物騒なもんを買い取らん。
だが、彼らは執拗に売りつけようとするんですよ、困ったもんでしょ?」
彼の問いかけに、エレナとクロフォードは、僅かに動揺しながら顔を見合わせて、黙り込む。
自分の血を売りに来る――それは、身を切らないと生活が成り立たない。
それだけ追い込まれている人々がいる、ということだ。
橋をくぐり抜けると、太陽に照らされる白い世界が、不意に雲に隠れ、一瞬にして世界が色を失う。
エレナは反射的に顔を上げ、空を見上げた。
「なあ、先生」
クロフォードが声を掛けた。
ラダースが振り返る。
「血を売りに来た連中、先生のところを追い払われたら、次はどこに行くんだ?」
「さあな。そもそもどのように血を抜いているのかも分からん。
そんな高価な器具が一体どこにあるというのか。彼らの目は飢えと絶望に濁っている。
正直、儂は血を抜くという行為そのものが恐ろしくて仕方がないよ」
ラダースは首をゆるゆると振った。
――ギュルギュル。
エレナは冷や汗を拭いながら、ラダースの背中を追った。
潮風に混じる匂いが、まるで街全体を覆う幕のようにまとわりついた。
その幕の奥には、まだ見ぬ闇が潜んでいる、そんな気がしてならなかった。




