第82話 内気令嬢と潮騒の伯爵邸 — 窓から消えた影と黒ずんだ帳簿
「うわぁ、みんな元気だね」
馬車に揺られるエレナが、車窓を見つめながら無邪気に声を上げた。
赤茶色の屋根が連なる街並みの間には、白い帆を掲げた船がゆったりと揺れ、荷を積み下ろす人々の声が響いていた。
街全体が海と寄り添うように息づき、魚市場のざわめきが遠くから微かに伝わってくる。
夕日に染まる鐘の音が港から鳴り渡り、商人たちの呼び声や異国の言葉が交じり合い、町全体が活気に満ちている。
車輪が石畳を刻む音に混じって、港から美味しそうな香りが届く。
焼き魚の匂い。
香辛料の香り。
そして果物を売る屋台から漂う甘い香り。
交易で栄える街ならではの多彩な匂いだ。
エレナはますます目をキラキラさせて、窓の景色に釘付けになっている。
知らない街。
初めての魚市場。
わくわくする高揚感。
クロフォードはふと笑みが零れた。
こっちまでそのワクワク感が伝わってくるようだ。
「ねえ、あとであの辺、見に行けるかな?」
エレナが言った。
今にでも馬車から飛び出しそうなくらい楽しそうにしている。
「おいおい、エレナ。
任務で来てるんだぞ?
分かってるか?」
クロフォードは咎めるような台詞を言ってみるものの、つい楽しそうに声を弾ませてしまう。
「わかってるって。
大丈夫、わたし、やるときはやるから」
「はいはい」
「あっ、あそこ、人がたくさん集まってるよ!」
「ああ、多分大道芸人でもいるんじゃないのかな」
「じゃあ、あれは?」
「巨大魚の解体ショーだ」
「本当だ!
すごく大きな魚が出て来た!」
エレナははしゃいだ声を上げた。
「なあ、そんなに楽しい?」
「うん、すごく楽しいよ」
エレナは素直に答えた。
「そうか」
クロフォードはくすっと笑った。
「そうか。それは良かった。
約束してたのに全然エレナを連れて行ってやれなかったからさ、ずっと気になってたんだ」
「ニコライを捕縛したご褒美のこと?」
「そう、それ」
「わたし、すっかり忘れられているかと思ってたよ」
エレナが不機嫌そうに口を尖らすと、クロフォードは慌てる。
「忘れてないって。
ほら、いろいろ侯国の後処理で忙しかったんだよ。
逃亡者の足取りを追ったり、捕縛し損ねた連中の証拠を再度洗い直したりして。
そうしたら、ランス・マクィーンの元婚約者候補だった女性の遺体探しとか、あの後結局任務として舞い込んでさ」
クロフォードは言い訳を並べ立てるも、自分からランスの名を出したことに、気まずくなって思わず言葉を切った。
「そうだね、魔物を人が作り上げようなんて、怖いよね……」
エレナが視線を落とした。
(しまった、墓穴掘った!)
クロフォードはたちまち後悔した。
婚約破棄された傷が癒えてきた頃の同期たちから舞い込んできた結婚話。
年頃の貴族令嬢にしては珍しく、いままでそういう目線でイケメン同期たちを見て来なかっただろう。
それはそれで、きっとエレナには衝撃的だったはずだ。
気まずい沈黙が下りて、クロフォードは何か話題を変えるきっかけはないかと、内心あたふたする。
「あっ、ここ」
ちょうど車窓から見えた大きな通りをクロフォードは指差した。
「この通りの一つ目のブロックを右に曲がると、珍しい魔術書専門店があるんだよ。
帰り、そこ寄って行こうぜ。
エレナの好きな本が絶対あると思う」
エレナの視線がそこに注がれた。
大好きな魔術書専門店と聞いて、たちまち目を輝かす。
「うん、行きたい!
あと、異国のフルーツを食べられるタルトのお店も」
「ああ、そうだった。
約束してたな。
なんだよ、本当にちゃんと覚えてるじゃないか」
くすっとクロフォードが笑った。
「当然!」
エレナは胸を張った。
「あはは、エレナ、だんだん小次郎化してるぞ」
「え、うそぉ。リス化してる?」
「しゃべり方がな」
クロフォードは肩を揺らして笑い続けた。
「小次郎口調って、てやんでぇい、みたいなイキのいい感じのだよね?」
「そう、それ」
「それは淑女にとって危険水域だね。
小次郎フォルムだからあの口調は可愛いって思えるけど、わたしがやったら陽気な変質者じゃない」
「ははは、大丈夫、エレナはすでに魔法変質者だから」
「なにそれ」
エレナはむっとする。
「魔法オタクってこと」
「ああ、それ」
そして、妙に納得した顔をした。
「んだよ、そこは納得するのかよ」
クロフォードがツッコミ、エレナがそれを良いようにじゃれ合うように言葉遊びして受け流す。
互いに目が合って、ふたりは笑った。
気づくとクロフォードは心の底から楽しんでいた。
腹の探り合いのない何気ない会話。
共通の魔法の話題。
(あぁ、楽しい。
エレナって本当見ていて飽きないよなぁ)
クロフォードはさっきまでの鬱蒼としていた気分が嘘のように晴れ渡り、寛いで座り直した。
***
小高い丘を馬車が登り切ると、眼前に壮麗な屋敷が姿を現した。
「わぁ」
エレナは声を上げた。
馬車は、ここエステアーダ領主の屋敷であるバルトロメ・サンティエ伯爵邸に到着する。
石造りの外壁は淡い灰色に輝き、正面玄関へ続く石畳の道の両脇には整然と刈り込まれた庭木が並び、噴水の水音が静かに響いている。
丘の上からは港街と海を一望できる絶景が広がっていた。
(すごい、うちの領地よりひらけていて開放感が桁外れだよ)
エレナの故郷ヴァービナス侯爵領地は、森に囲まれて建っている。
鬱蒼とした森ばかりの中にある屋敷は、いつ何時魔物に襲われても問題ないよう強力な防御結界の中にある。
そのため、飛翔獣などの空からの脅威に備えて、屋敷からここまで広々と空を見上げることはできない。
屋敷の正面玄関に到着し、クロフォードが先に降りて、エレナのエスコートをしようと手を差し伸べる。
クロフォードはこういうとき、ちゃんと紳士的にエスコート役に徹してくれる。
思わずエレナの口角が綻ぶ。
その手を取って降りようとした、その時だった。
「遅いじゃない、クロフォード!
待ちくたびれて干からびるかと思ったわよ!」
熱風のような魔力の気配と共に、鮮やかな真っ赤な赤毛の影が視界に飛び込んできた。
「リッカ……」
クロフォードが僅かに眉をひそめた瞬間、勢いよく駆け寄ってきた美少女がクロフォードに飛びつくように抱きついた。
「もう、手紙を無視するんだから!
私がどれだけ寂しかったか分かってるの?」
クロフォードの胸に顔を埋める彼女。
爛漫で、夕日に照らされる横顔は端正に整っていて、とても美しい。
燃えるような赤髪を高い位置でポニーテールにまとめ、活動的な乗馬服風のドレスを着こなす。
意思の強い黄金色の瞳は印象的だ。
華やかな彼女の雰囲気に呑まれたエレナは、馬車から降りようにも、足がすくんで動けなくなった。
「あ……」
ふと、彼女の黄金色の瞳が真っすぐエレナを射抜いた。
「彼女が魔法省の役人?」
「ああ。エレナ・ヴァービナス嬢だよ」
「ふうん」
彼女は、王城でお馴染みのローブを羽織ってやってきたエレナを訝しげに見つめた。
頭の先から爪先まで、まじまじと、それはまるで商品を見定めるような目つきだ。
「ようこそお越しいただきました。エレナ・ヴァービナス嬢」
そして、すっと姿勢を正した彼女は、カーテシーを披露し、一歩前へ出た。
「ここの領主の娘、フレデリカ・サンティエです。
クロフォードとは従兄妹で婚約者です」
「え?」
「はあ⁉」
クロフォードが凄まじい声を上げた。
「リッカ、意味の分かんねぇこと言ってるんじゃねぇよ」
「あら、あながち間違ってないでしょ?
私たち、本来であれば結婚しているはずだったんだもの」
フレデリカはけろっとした表情で言った。
「だーかーらー、リッカとの婚約は白紙になっただろ?」
クロフォードがすかさず言い返した。
「あら、私はまだ婚約者のつもりよ?」
ぐっとフレデリカはクロフォードに近づく。
「だって、クロフォードはこうして生きているでしょ?
だったら、このまま結婚しちゃいましょうよ」
フレデリカはクロフォードの腕に飛びつくように、自分の腕を絡めた。
「あのなぁ」
クロフォードが面倒臭そうに後頭部を掻きむしった。
「やあ、クロフォード。
そして、ヴァービナス女官、ようこそ」
よく通る声の男性が現れた。
年齢は四十くらいの端正な顔立ちで、フレデリカと同じ色の赤髪は短く刈り込み、普段から鍛えているのか、引き締まった体つき、日焼けをしているのか浅黒い肌をしていた。
「伯父貴。久しぶり!」
クロフォードの表情が明るくなった。
まるで少年のようにあどけない笑顔を浮かべる。
フレデリカを引き離すようにして、クロフォードは彼に駆け寄った。
「おお、クロフォード。
背がすっかり高くなって。立派になったな」
彼は嬉しそうに笑った。
クロフォードの両肩をぽんぽん叩く。
そして、改めてエレナに向き合った。
あまりにもまっすぐ彼はエレナを見つめるので、エレナはびくっと肩を震わせた。
「初めまして、ヴァービナス女官。
私が領主のバルトロメ・サンティエです」
「は、は、初めまして。
エレナ・ヴァービナスと申します」
エレナはぺこりとお辞儀をし、ちらっとバルトロメを見上げた。
(この方が、クロフォードの伯父。
確かに、なんとなくだけど、声とか似ている……)
「お忙しいところ、遠路はるばる調査にお越しいただき、誠にありがとうございます」
バルトロメは自分の胸に手を当て、慇懃丁寧に言う。
「お疲れでしょう?
夕食を用意しましたので、お着替えの後、是非とも一緒に食べましょう。
我が領地ならではの海鮮料理ですよ」
「え、あ、お気遣い痛み入ります」
もぞもぞするエレナだが、バルトロメはそれに一向構うことなく、にっこりと笑う。
「いえいえ。こちらこそ、これぐらいのおもてなしをさせてください。
なにせ、中央の方々には先日の黒の杖による爆発物処理、また狼藉者への討伐、感謝してもしきれませんからね。
我々ではどうしようもなかった。
そのお礼の宴をと思っていたが、一番の功労者であられるルシアン・クレインバール卿は颯爽と王都へお戻りになってしまいましたからね。
今回はちゃんと事前にもてなしをすることにしたんですよ、ははは」
バルトロメは明るい笑い声を上げる。
「今回ご依頼させて頂きました件も、少々こちらでは対応できかねる部分もあります。
せめて、身の回りのお世話は我がサンティエ家にお任せください」
今回エレナがここを訪れた理由は、いくつかある。
「あの、"魔力石”でしたっけ?
あれが今お手元にあるとお伺いしました」
エレナは自分を奮い立たせ、初対面のバルトロメに対し、どもらないように注意して声を出した。
「早速ですが、食事前に見せていただけますでしょうか?」
入省してもうすぐ一年経つ。いい加減、初対面の人と話せるようにならなくては。
「ええ、もちろん。
すぐに用意しましょう」
バルトロメは爽やかに快諾し、近くに控えていた侍従に顎で指示をした。
――魔力石。
先日マインラートが教えてくれた情報。
エレナのランス・マクィーンの元婚約者候補が、自殺した。
彼女が最期を過ごした療養所で、彼女の担当医、そして、彼女自身の遺体が消えていたという。
彼女は存命中、治療ということで、血液を抜かれ、魔力だけを抽出された。
そして、その魔力はとある方法で結晶化されていたらしい。
このことは、療養所に残されたカルテで判明した事実だ。
そして、その結晶化したものと酷似した石が、”魔力石”という名でこの街リオナーレで数多く出回り、高値で取引されているという。
エレナの魔法省女官としての役割は、その"魔力石”の解析だ。
どのような経緯で作られ、どういう性質のものなのか、危険性はないのか。最終的にサンプルとして王城に持ち込むことだ。
*
エレナとクロフォードは、さっそく問題の"魔力石”を見せてもらうことになった。
廊下は磨き上げられた石壁と深い木材の床で構成され、濃紺の絨毯が広がっていた。
壁には領主家の紋章を刻んだ盾や港町の繁栄を描いた絵画が等間隔に飾られ、魔法石のランタンが整然とした光を放っている。
窓辺には陶器の花瓶が置かれ、季節の花が控えめに彩りを添えていた。
窓の向こうには海と港の様子が広がっている。夕日に照らされた海が輝く。
「初めてのおつかいにしては、壮大なもんになっちまったな」
屋敷を案内される廊下で、クロフォードがぽつりと言った。
「そうだね。
魔力石の解析回収を魔法省以外の場所でやるだなんて、びっくりだよ」
表向きは、あくまでも魔法省の女官。
けど、その一方で、<影>の主様からの要望としてリックランス大臣から、魔力石がなぜその地で高値で売買されているのか。
その理由を突き止め、あわよくば、どこで作られているか製造元まで探って来るようにと特命を受けた。
「こんなに綺麗な景色のところだもの、きっと小次郎も知ったら来たがったよね、きっと」
「だろうね。
まあ、アイツの場合は色気より食い気。産地の食い物が食いたいだけのような気もするけどな」
「ふふ、そうかもね」
エレナはくすくす笑った。
本来、この任務も使い魔の小次郎が言い渡す内容だが、小次郎が最近エレナに懐きすぎてしまい、「一緒に行く」と言い出すからかもしれないので、マインラートから直接指示されたのだ。
本来、使い魔は主のみに仕える。
主様の命令がない限り、主様の元から長く離れるのはあり得ないことだという。
「え、コジロウって誰?」
唐突に、フレデリカがエレナとクロフォードの会話に口を挟んだ。
会話が途切れた。
「お前には関係ない」
クロフォードが憮然とした。
「えー、なんでよ?」
「こっちの話だ。
王城のことだから、あまり口を挟むなよ」
「少しぐらいいいじゃないの。
ねえ、コジロウって?
クロフォードの友達?」
フレデリカは食い下がって、クロフォードの袖を掴んだ。
距離が近い。
エレナはぎゅっと心臓が鷲づかみされるように苦しくなった。
心の中でもやもやが込み上げてくるのを自覚する。
エレナはそっと顔を伏せて、二人から目を逸らした。
「フレデリカ、いい加減にしない」
フレデリカの父のバルトロメがぴしゃりと言った。
「クロフォードは遊びに来たんじゃない。
王宮魔術師として調査にいらしたんだ。
客人としてお越しになったことを肝に銘じて接しなさい」
バルトロメの声音は鋭く、厳しいものだった。
「はい……申し訳ございません」
フレデリカは憮然としながらも、クロフォードの腕から手を放して離れた。
バルトロメがエレナに視線を投げ、目下頭を下げた。
「ヴァービナス女官、失礼いたしました」
「え?」
「二人は従兄妹という関係性ゆえ、気軽に王宮の機密事項に口を挟み……」
「いえ、そんな」
エレナはブンブン首を振った。
「こちらこそ、誤解をさせてしまい、申し訳ありません。
小次郎というのは、わたしの研究室に棲みついた黒リスのことです。
思いのほかわたしに懐いたので……そう呼んでます。そんな機密事項ではないです。
けど、厳しい方はその黒リスの小さな存在すら嫌悪するかもしれませんから、内緒にしておいてくれると嬉しいです」
ぼそぼそエレナが言うと、フレデリカの顔が明るくなった。
「黒いリスですか?
珍しいですね」
「はい。食いしん坊だけど可愛いですよ」
「それは心が和みますね!」
「はい、わたしの癒しです。
だから、その、取り上げられたくないので、内緒でお願いしますね」
「ええ、もちろん」
フレデリカは華やぐように微笑んで、クロフォードに勝ち誇った笑みを向けた。
「なんだよ?」
「ヴァービナス女官は優しい方ね。
クロフォードみたいに意地悪しないで教えてくれたわ」
「頭にのるなよ」
クロフォードがむっとした。
フレデリカはぷいっと視線をわざと逸らした。
「ここが私の執務室で、”魔力石”はここに保管してあります」
バルトロメが扉を開けた。
そのとき、突風が吹いた。
執務席の大きな窓が開き、書類が舞い散る。
「誰だ⁉」
バルトロメが声を張り上げた。
窓枠に掴まった小柄な影がハッと振り返り、外へ飛び降りた。
みんな、走って窓へ駆け寄る。
「まさか!
ここは四階だぞ!!」
バルトロメが目を見開く中、クロフォードは迷わず窓へと身を躍らせた。
「え、クロフォード⁉」
フレデリカは驚く。
クロフォードなら問題ない。
なにせ、この国に選ばれし、二十四人しかいない精鋭王宮魔術師だ。
残されたエレナは、散乱した書類を目にし、息を呑んだ。
これは……。
拾い上げた一枚は、港町で取引された“魔力石”の帳簿だった。
だが、取引相手の名は符号化され、解読が必要な暗号で覆われている。
別の一枚には、療養所で患者から血液を抜き取り、魔力を結晶化する手順が図柄付きで細かく記されていた。インクは黒ずんでいる。
「えっ、え……っ」
絶句した。
これは、指南書だ。
道具さえあれば、誰でも簡単に採血できる。
エレナは別の書類に手を伸ばす。
そこには、魔力石の使い方が記載されている。
もしこんなものが出回っているのであれば、誰もが欲しがるはずだ。
エレナは必死で隈なく書類に目を通し続けた。
(だから、高額で取引されるのね……。
でも……代償が大きすぎる)
肌がひんやりしているのは、夕方の窓から吹き込む潮風のせいだけではない。
窓の外からは、クロフォードを追う怒声と風の音が響いていた。




