第81話 内気令嬢と潮風の街――宿命の予言と波間の恋心
黒リス小次郎は拗ねていた。
尻尾をぶんぶん振りながら床に転がり、頬を膨らませている。
なぜ拗ねていたかというと、置いてきぼりをくらったからだ。
いや、小次郎は彼女の使い魔ではなく、主様の使い魔なのだから、彼女が遠出する時に置いていかれるのは致し方ないことだった。
だけど、小次郎はどうしても許せなかった。
『おい、小次郎は何であんなにも不機嫌なんだ?』
使い魔仲間の牧羊犬型の黒犬が、小次郎の兄、小太郎に尋ねた。
『置いていかれた、んだそうだ』
小太郎は呆れ顔で答えた。
『誰に置いていかれた?
俺たちの本当の主様は本日のお昼頃には一時帰国されるのに?』
黒犬は不思議そうに首を傾げる。
『そのとおりだ。
だが、弟は最近任務をご一緒しているエレナ嬢をいたく気に入っていてな。
主様、皇太子殿下より彼女とお出掛けしたかったそうだ』
先日の王城テロ未遂事件を解決して以来、小次郎はエレナにべったりだった。
皇太子殿下が不在時は、その妹君ミシェーラ皇女が使い魔の主様である。
それにもかかわらず、小次郎はエレナと今後も任務にあたりたいとわがままを言い出したのだ。
ミシェーラ皇女は、テロ未遂事件解決の功労者、新人実力者のエレナには目をかけていることもあり、また、小太郎小次郎兄弟リスに甘かったので、特別にお許しを出した。
とはいえ……。
小太郎はため息をつく。
『仕方ないだろ、小次郎』
小太郎は小次郎に歩み寄る。
『兄ちゃん……』
小次郎は不貞腐れたような表情で兄を見た。
『今日、エレナ嬢にとって初めての遠方へのご出張。
そして、クロフォード殿とのお出かけ、つまり、デートなんだ』
『ちがーう! あれは仕事だぞ、兄ちゃん。
仕事なら俺もついて行くべきなんだ!
それがエレナ付きの使い魔の役目』
小次郎は鼻を膨らませた。
『いやいや、お前は主様の使い魔であるぞ。
そこを勘違いしてはならぬ』
『勘違いしてないやい!』
ぷんすか小次郎は怒る。
『この俺様抜きで海鮮料理を食べ、異国のフルーツののったケーキを食べ、ついでに怪しげな石の分析しに行くなんて……俺も行きたかったぞー!』
お前の狙いは、やはり食べ物か。
小太郎は弟の真の狙いにとっくに気づいていた。
まったくすっかり餌付けされてるというか……。
けれど、それを言ったところで、この弟は聞く耳を持たないだろう。
深いため息をつき、小次郎の小さななで肩をぽんと叩いた。
『本日、殿下が久々に帰国されるという貴重な日だ。
お前も挨拶すべきなのだ。
それゆえにエレナ嬢と共にお出掛け出来るわけなかろう』
『でもでも……俺様、エレナと一緒に行きたかったぁ』
小次郎は目に涙を溜める。
小太郎はため息をつき、よしよしと小次郎の頭を撫でた。
小次郎の気持ちは分からなくもない。
使い魔というのは、人によっては、ぞんざいに扱われることが多々ある。
ただ、皇族にお仕えしている使い魔だから、無下にされないだけ。
けれど、エレナ・ヴァービナスは、使い魔の、しかも一番生意気だと言われる小次郎にも、謙虚で優しく接する。
手柄を立てれば褒めてくれるし、ご褒美には大好きなおやつを与えてくれるという。
食べ物を使い魔に与える者は多くない。
その上、エレナ嬢は最近小次郎用に自分の研究室に最高級品のクッションを用意してくれたというではないか。居心地も良く、かつ、眠り心地も最高なんだと自慢された覚えがある。
そういった経緯もあって、ますますエレナに懐く小次郎なのである。
***
海は初めてだった。
それに、クロフォードとふたりきりのお出かけも初めて。
エレナは昨日の夜、緊張して、胸が高鳴って、それはもう目が冴えてしまい、全然眠れなかった。
けど、その一方で一抹の不安があったことは否めない。
ガタゴトと、規則正しい馬車の振動だけが室内に響いている。
今回西南地方最大の港街リオナーレにやってきた理由。
それは、マインラートからの指示があったからだ。
本来なら美しい海岸線を眺める楽しい旅になるはずだったが、座席の対角線上に座る二人の間には、冬の海よりも冷え切った沈黙が横たわっていた。
昼までの移動はマインラートの使い魔のカシアを案内役に、飛行魔法を使って馬車で通常三日かかるところを半日に短縮した。
昼食に立ち寄った王都の次に大きな都市のエルディア。
そこで名物のお菓子を頬ばって、カシアと別れてから、ずっとクロフォードとふたりきりの馬車移動。
かれこれ二時間近く、馬車に揺られている。
地平線へと続く広大な海へと変わっていく。
海をこの目で見た瞬間は、あまりの大きさに感動し、興奮した。
だが、すでにその興奮は醒めきり、今はもう、目の前のクロフォードの無言の圧に耐えられずにいた。
(……気まずい。
気まずすぎて、息の仕方を忘れそう)
エレナは膝の上で指を組み、ちらちらクロフォードを見る。
クロフォードはずっと窓の外へ視線を固定していた。
エレナの頭の中では、いつの間にか先日の夜を反芻する。
ランスからの真剣な求婚。
手渡された銀の櫛の重み。
そして、その話を聞いたクロフォードの、あの無機質な横顔。
(クロフォードにとっては、私が誰と婚約しようと、本当にどうでもいいことなんだろうけど……)
わたしたちは、単なるマインラートの兄妹弟子の関係、それ以上でもそれ以下でもない。
分かってはいたけど、胸の奥が、冷たい楔を打ち込まれたように痛む。
クロフォードが、何かアクションを起こしてくれる、そういう期待していたわけじゃない。
なのに、すごく気落ちしている自分がいる。
たぶん、思った以上にわたしはクロフォードに期待をしていた。
先日の舞踏会のバルコニーで踊ってから、ひょっとしたら……。
なんて淡く思っていた自分が恥ずかしい。
あれは、本当に甘い夢だった。
薄らと抱く恋心。
封印、とまでいかないけど、この気持ちを気取られないようにしないと。
そうしないと、この関係性は、脆く壊れそうな気がする。
ふと、対面の視線を感じて顔を上げた。
クロフォードは、感情の読めない瞳でエレナをじっと見つめていた。
その若草色の双眸は、静謐に満ち、何を考えているのか露ほども読み取れない。
「……何か、私の顔に付いてる?」
耐えきれなくなったエレナが、おどおどと尋ねた。
クロフォードは視線を逸らさず、低く、低体温な声で答える。
「いや。酷い顔をしているな、と思っただけ。疲れた?」
「うん、まあね」
かなり弾丸スケジュールでここまでやってきたのもあって、疲労は確かに蓄積している。
移動というのは、何気に体力を使う。
「休憩するか?」
「ううん、そこまでじゃない。
……実はね、初めての海だったから、その……緊張して昨日の夜、あまり眠れなかったんだ……」
その眠れなかった原因の一端が自分にあると思っていないクロフォードは、思いっきり吹き出す。
「ふっ、ガキかよ」
その笑顔に、エレナは心は急にぐんと軽くなって、エレナの口元が綻ぶ。
それから、そっと身を乗り出す。
「だって……初めてだよ?
湖よりも大きいんだよ?」
果てが見えない水平線。
空と溶け合うようにどこまでも続いている海。
「うん、見てのとおりだ、大きいよな」
クロフォードは、いつもと同じ爽やかな笑顔を窓の外に向け、そして窓を開けた。
潮風が馬車のキャビンの中に広がった。
「海の匂いがするな。この香りも初めて?」
潮風が頬を撫で、塩の匂いが馬車の中にまで届く。
エレナは目をぱちくりさせながら、クンクン匂いを嗅いだ。
「うん。なんだか不思議な匂いだね」
カモメの鳴き声が響き、鼻孔に広がるのは塩気を帯びた湿った匂いだ。
陽光を受けて煌めく波が、まるで銀の鱗を持つ竜がうねるようにきらめく。
白い帆を掲げた船がゆったりと揺れていた。
「そうだよな。
初めてだと、この匂いが不思議でたまらないよなぁ」
クロフォードがふと、しみじみと呟いた。
「クロフォードは海に何度も来たことあるの?」
「まあね。
任務で来ることもあるし、その前に俺がアカデミーに入学するまで……。
ほら、あの街で育ったんだよ」
クロフォードが指差す方向に視線を投げると、遠くに港町の輪郭が見え始めていた。
赤茶色の屋根が連なる街並みだ。
馬車の窓から見える景色は、次第に広がりを増していった。
陽光を受けて屋根瓦は金色に輝き、まるで波打つ海のように起伏を描いていた。
まるで、潮風が街全体を包み込んでいるみたいだ。
「素敵な街だね」
「ああ。
海鮮がうまいんだぜ」
「そうなんだ」
そう返事をするものの、エレナはふと思う。
ノーエランド侯爵の領地は東の山岳地帯なはずだけど……。
ここで育ったというのは、何かわけがあったのだろうか。
クロフォードは窓を閉めた。
「潮風はずっと当たっていると、結構体力を奪われるんだよ。
それに太陽の日差しもやけに強いし。
もし気分が悪くなって任務に支障が出るようなら、屋敷に着いたら休んでていいからな。
今回の分析、あれ、結構神経使う作業だから」
「うん。大丈夫。仕事はちゃんとやるよ。
クロフォードに迷惑はかけないから」
エレナは気合を入れて言い返した。
クロフォードが口角を上げて二ッと笑う。
その笑顔に胸が踊る。
「ふうん、言うじゃん。
存分に俺の手伝いもしてもらわないといけないな」
「えー! ……もちろん、いいよ」
エレナもクロフォードの真似をして口角を上げて笑った。
「なんだよ、その『えー』って」
「あはは、あっ、でも、初めての出張だからお手柔らかにね」
「さあ、それはどうかな?
マインラート様並みにスパルタになるかも」
「それは困るって」
エレナが眉間にしわを寄せていると、クロフォードは声を出して笑った。
「冗談だって。
ま、気楽に行こうぜ」
「ふふ、そうだね」
ほっと胸をなでおろす。
よかったぁ、ふつうに会話ができた。
やがて街に入ると、馬車の車輪が石畳を刻む音に混じって、港から響く人々の声や鐘の音が微かに届いた。煙突から立ちのぼる薄い煙が空に溶け、魚市場のざわめきが遠くから微かに届く。
活気ある町の息吹が、海と空の広がりに溶け込み、エレナの胸を膨らませる。
*
クロフォードはほっとする。
けれど、腕を組む指先が、微かに、剥離した氷のように震えている。
外を眺めるのに必死なエレナはそのことに気づかない。
(――俺はいつか新生の星に殺される)
それはおそらく、ここ十年以内、いや、もしかするとさらに短いかもしれない。
そこまで細かな予言はもらっていない。
けど、自分の中で確信めいた予言があった。
だからこそ、エレナの婚姻話を聞いた瞬間、脳裏を過ったのはその予言だった。
予言者は、この国で最高峰の魔法使い――エリオラ・ステラリス。
〈ホロスコープの魔女〉の二つ名を持ち、占星術に長け、この国の行く末を占う巫女として知られる。
現王宮魔術師筆頭であり、国家存続に関わる予言を数年に一度、ふとした瞬間に口にする。
しかし、彼女が表舞台に姿を現すことはない。
自らの予言に誤りがないかを確かめるため、日々部屋に籠り、天井や床に広げた巨大な星図を前に夜ごと星の動きを記録する。
星座盤と複雑な数表を並べ、星の位置と魔力の流れを数式へと落とし込む。
だが、実際のところ、エリオラ・ステラリスという魔法使いは存在しない。
その正体は第1皇女、アストレイア皇女である。
〈星辰の巫女〉と呼ばれるほど占星術の的中率に優れ、国中にその名を知られているが、世間では「病弱ゆえに他国へ嫁ぐこともできず、離宮の奥で静かに暮らす皇女」とされている。
実はそれは、国の安定を守るために設けられた虚構だ。
アストレイア皇女は病弱どころか、皇太子ユリウス殿下と並び立つほどの強大な魔力を秘めている稀代の魔女。
その力を公にすれば、後継者争いを招き、国を二分しかねない。
そのため、不要な混乱を避けるため、彼女は「病弱な皇女」として振舞う。
その一方で冷徹に星が定めた役割をまっとうしている。
この真実を知る者は、国内でもごく僅かだ。
皇帝陛下と正妃、
ユリウス殿下とミシェーラ皇女、
宰相レードリック・デメトリオ公爵、
マインラート・ソシュール、
魔法省ピーテル・リックランス大臣、
そしてクロフォードを含む王宮魔術師二十四名のみである。
「あなた、殺されるわよ」
まだクロフォードが、ノーエランド侯爵家の嫡男として生活していたときだ。
年齢の近い皇子の話し相手として、父と共に王城に出仕するようになったクロフォードは、ある日、王城の廊下で少女だったアストレイア皇女にそう宣告された。
真っすぐで硬質的な美を持つ少女。
その唐突な予言にクロフォードは驚いた。
(はあ? この子、何言ってるんだ?)
最初、それが皇女だなんて思って見なかった。
けれど、見るからに高貴な身分のご令嬢だ。
一蹴するにしても、これが自分よりも高貴な身分だったら大問題になる。
クロフォードは、父親の姿を探す。
だが、父は他の官僚と話し込み出し、こっちに気づいていない。
「誰に殺されるというんですか?」
クロフォードは苛立つ心をぐっと抑え、不躾な予言をする彼女に尋ねた。
「新生の星の女性よ。
よかったわね、彼女、とてもキレイな女性だわ」
あっけらかんと言うアストレイアに、ますますクロフォードは怪訝そうに顔が曇る。
(殺されるのがキレイな女性でよかった?
意味分かんねぇって。
コイツ、頭おかしいんじゃないの?)
そう思う一方、なぜだろう、どこかほっとする自分がいた。
――いつか殺される。
羨望に似た甘美な言葉。
それはつまり、自ら命を絶たなくても死ねる、ということだ。
この頃から、有り余る自分の魔力をどう制御していいか分からず、毎日苛立っていた。
かといって、力の限り発散する場もないし、喧嘩なんてすれば父親に叱られる。
そして、あの事件――。
怒りの感情が爆発し、自分の中の苛立ちと冷静に向き合えなかった。
やがて、追い出されるように、つまらないアカデミーでの寮生活を送るようになった。
平穏で何もない退屈な日々。
十六歳の少年だった自分には、あまりにも刺激のなさすぎた。
そんな時、初めて三つ年下のエレナを入学式で見かけた。
すぐ予言の彼女だと分かった。
思い出すだけで、頬が熱くなり、気持ちが高揚する。
彼女の魔力は大勢いる生徒の中でもかなり目立っていたからだ。
みんな気づかない。
当たり前だ、これほど魔力を彩り豊かに感じることができるのは俺だけなんだから。
クロフォードにとって、それは密かに感じていた優越感だった。
すごいなぁ、綺麗だなぁ。
うっとり見惚れた。
俺みたいにピリピリした電流のような危なっかしい魔力じゃなくて、例えるなら彼女は満開の桜だった。
――桜。
それはこの国では最も珍しい年に一度しか咲かない花である。
東洋の地の樹木らしいが宮殿に一本だけ植えられていて、花を咲かせない時は何の変哲もない地味な木だ。
なのに、ピンク色の小さな花を纏い、一気に満開に咲き誇った途端、とんでもない存在感を現す。
生まれて初めて満開の桜を見た時、その圧倒的な美と華やかすぎる禍々しさが表裏一体で、子ども心にも、とても衝撃的だったのを覚えている。
そう、彼女の魔力はまさにあの花のようだと思った。
ピンク色の花びらが優しく舞うような魔力。
彼女の魔法を見てみたい――。
それからだ。
一度気になり始めると、不思議と、なんとなく彼女の姿を校内で無意識のうちに探すようになっていた。
(はぁ。俺も大概だよなぁ)
クロフォードは内心大きくため息をついた。
そして、今、目の前にいる彼女を見据えた。
彼女は――頬を薔薇色に染めて、珍しそうに海を眺めるエレナ。
同じ馬車に乗って、今まさに手を伸ばせば、すぐ届くところにいる。
触れられるのに、触れられない。
歯がゆいもどかしさ。
(あのときも、そうだった)
胸に鈍い痛みが走る。
エレナがランス・マクィーンの手を取って踊った先日の舞踏会。
まるで歌劇に登場するような主人公たち。
見目麗しい組み合わせだった。
俺は歌劇なんて嫌いだ。
けど任務で王妃や皇女殿下の警備に付き添い、何度かつまらない恋愛の歌劇を見てきた。
甘ったるい台詞に嘘臭い大袈裟な演技、それに合わせてこしらえたハリボテの舞台。
何が面白いのか全然分からない。
けど、女性はああいうのが好きなようで、王妃も皇女たちもこぞって新作が出ると観に行きたがる。
エレナとランス。
まさにふたりは、そのヒロインとヒーローのように美しかった。
これがいざ、他人のものになるかもしれないと気づいた途端に、嫉妬の感情が湧き上がって来た。
負の感情は真っ黒い塊となり、どんどん胸の中で重量を増す。
自分だけが気づくことができた灰暗い優越感が、大きく歪む。
身を焼かれる思いがした。
嫉妬と憎悪。
これにはいささか狼狽した。
今更どうして……。
彼女がいつか自分でない誰かの妻になり、幸せに笑い合える家族を作って、愛され愛する人生を終える。それでいいと思っていた。
なのに、この焦燥感は何だ。
俺にとって、彼女は呪われた運命からの解放であるはずだった。
それが、俺以外の男の手を取る姿を見るだけで、心臓を素手で掴み出されるように苦しい。
潮の香りが濃くなった。
俺はどうしたいんだろう。




