第80話 内気令嬢と困惑令嬢と思いもよらぬ告白⑤――雨音に溶ける砂時計
雨音は、さらに激しさを増していた。
食堂を満たす沈黙を破るように、マインラートが再びワイングラスを手に取る。
「とりあえず」
不意にマインラートはエレナを射抜くように見た。
エレナは、ぎくりとした。
「だいぶ脱線してしまったけど、僕の調査では、ランス・マクィーン伯爵令息と、レイノルド・ハウルデュース公爵令息どちらでも問題ないよ」
マインラートは、さっきまでの深刻な表情とは一転、屈託ない笑みを浮かべながら言った。
「へ?」
「将来的なことを考えると、ハウルデュース公爵が義理の父親になると少々面倒なことはあるかもしれないから、個人的にはランス・マクィーン伯爵令息がいいと思うなぁ」
マインラートは、テーブルに肘をつき、顎を乗せて呟く。
あまりの変わり身の早さに、エレナは言葉を失う。
その隣でクロフォードは、くっくっと肩を揺らして笑う。
「っていうか、それ、明らかに個人的な好み入ってるよね」
クロフォードが揶揄うように声を上げた。
「あっ、わかった?」
あっけらかんとマインラートもいつもと同じように笑った。
「そりゃあ分かるでしょ」
「そうなんだよね。僕、あの人のデリカシーのなさがどうも苦手なんだよね。クロフォードだって、これ以上距離が近くなったら困るだろ?」
「まあね。ただでさえ、魔法騎士団って団長全員曲者揃いだっていうのに、あのオッサンはさらに癖が強い。深入りするとなると超絶面倒臭い」
クロフォードは、ナイフとフォークに再び手を伸ばし、何事もなかったかのように食事を開始した。
「悪い人ではないんだけどね。まあ、エレナの婚約について、主様にも意見を求めたよ」
「主様に?」
エレナはますます当惑した顔つきになった。
やけに段取りがよくないか?
すごく嫌な予感がする。
何かが動いている。わたしの知らないところで。
マインラートは背もたれに寄りかかった。
「主様はそういうのは個人の自由だし、君のことは信頼しているから、婚約をしたかったらしても全然構わないって。
もちろん、追々の結婚も含めて、こういった極秘話は決して恋人にも将来の旦那さんにも話してはいけないから、その辺はちゃんと弁えて行動してくれればいいよ」
マインラートの顔は微笑んでいるが、目は笑っていない。
「はい、それは肝に銘じてます……」
エレナは視線を落とした。
「僕はね、エレナが幸せになるなら誰を選ぼうと応援するよ」
マインラートの持つグラスの中で赤ワインがゆらりと揺れる。
深紅の液面はテーブルの蝋火を映し、エレナにはそれがまるで血潮のように妖しく煌めくように見える。
「俺はハウルデュース公爵が義理とはいえ父親になったら、問答無用で軍部の任務に連れ回されそうだから、レイノルド・ハウルデュースは避けた方がいい気がするなあ」
冗談めかしてクロフォードは愉快そうに笑いながら、美しく切り分けた肉を口に運んだ。
「まあ、公爵的には、その目論見でエレナをお嫁さんに迎え入れたいんだろうけどね」
「ああ、やっぱりそんな感じなんだ」
もぐもぐ口を動かして、取り留めのない会話を続けるクロフォード。
何の変哲もない明るいいつもと同じ声。
気兼ねなく笑い合う食事。
戸惑いと同時に怒りを覚えた。
知らぬ間に進められているかもしれない自分の結婚話に、新たなマリュード皇国の動き。知りたくもなかったランスの元婚約者候補。
当惑と屈辱が沸き起こる。
心がざわめく中、ちらっとクロフォードを盗み見た。
クロフォードは、その細身の体のどこに吸い込まれていくのかと疑いたくなるほど、普段と変わらない様子で美味しそうに食事を口に運ぶ。
そう、いつもと変わらない横顔。
(やっぱり、クロフォードはわたしが誰と婚約しようと興味ないんだね……)
胸を締め付ける痛みが走った。
「あの」
エレナは口を挟んだ。
一瞬、沈黙が降りた。
「ん? どうした?」
マインラートがきょとんとして、エレナの顔を覗き込むようにして見た。
「父には……こうお伝えください。まだ傷は癒えていません。なので、まだ結婚は考えられませんって」
はっきりエレナが言うと、マインラートは僅かに目を見開き、次には鷹揚に頷いた。
「わかったよ。まあ、このご時世結婚がすべてじゃないからね」
にっこり微笑むマインラートに、エレナは目を伏せた。
「ご馳走様でした。わたし、先に部屋に戻ります」
エレナは席を立って、振り返らずそのまま自室に戻った。
*
ぱたんと食堂の扉が閉まって、なんとなく気まずい沈黙が流れた。
マインラートがうずうずし始めた。
「いいのかい? クロフォード」
ついには我慢できなくなって詰め寄るようにクロフォードに尋ねた。
「あのままだと本当にランス・マクィーン伯爵令息あたりが、エレナをかっさらちゃうよ?」
「別に……」
クロフォードは無表情になってワインを口に運ぶ。
「エレナの人生です。俺はいつか消えるから、俺がどうこう言える立場じゃない」
はっきりと、よく通る声が雨音と共に響いた。
けれど、その指先は僅かに震え、グラスの中のワインに小さな波紋を作っていた。
――俺には時間がない。
赤い液体を抗うように飲み下す。
喉が、熱い塊を飲み込むようにして、苦しげに波打った。
クロフォードは溢れだしそうになる感情を胃の奥底へ流し込んだ。
喉の奥からせりあがってくる焼けつくような身勝手な怒り。己の無力さに向けた猛烈な苛立ち。無性に腹が立つ。
(あの男にエレナを託したのは俺自身なのに)
雨音に溶けてさらに激しく脈打つ。
クロフォードは、まるで自分の内側で荒れ狂う感情が滲み出しているようだと感じた。
(ざまぁねぇよな)
「このワイン、うまいですね。でも、俺、酔ったかもしれないんで、これで帰ります」
そう退廃的に微笑むクロフォードの横顔は、雨に濡れた石像のように冷え切っていた。




