第79話 困惑令嬢と思いもよらぬ告白④――雨の帳と消えた遺体
夜の帳の下、雨が静かに降り出した。
しとしとと始まった滴は、やがて激しく窓を叩き、募る不安を映すかのように響き渡る。
マインラートはワイングラスをゆったりと回す。
「いつか耳に入るかもしれないからね。
これはちゃんと伝えておくべきだと思うけど、自殺の原因はランス・マクィーンにあったと遺書にあったらしいよ」
「は? それ、マジかよ?」
エレナよりもクロフォードの方が素早く反応するので、エレナは目をぱちくりさせた。
どうしてクロフォードが、びっくりするのかしら。
「おや、クロフォードも気になる?」
マインラートは、わざとらしくクロフォードに含蓄ある視線を向けた。
「え、そりゃあ……。
侯国のとき、一緒にあの姫さんに引っ掻き回されたメンバーだし……」
徐々にクロフォードの視線が泳ぎ、語尾も弱まっていく。
「ふふ、そういえば、そうだったね」
微笑みながらも探るような目つきのマインラートを尻目に、クロフォードは真摯を秘めた表情でワインを飲み干す。
そこにボトルを持ったカシアがすっとやってきて、ワインを注ぐ。
クロフォードとランス。
確かに二人は、役目こそ違えど、あのとき同じ国の対応に追われていた。
年齢は同じだったと思うけど、そこまで二人が親しくしていた印象は皆無だ。
むしろ、タイプが違ってて、つるむような知人も全然系統も異なる。
ランスは煌びやかなインテリ風の上流階級。
対して、クロフォードは何事も仕事重視で身分度外視。
パワーある選ばれし者たちと一緒にいるイメージが強い。
正反対の二人。
人の好き嫌いが激しいクロフォードがそこまでランスを気にかけるなんて、とても不思議だ。
エレナが首を捻っていると、マインラートは話を進める。
「ランス・マクィーンの婚約者候補の名前は、オフィーリア・ヘインズ。
伯爵令嬢だ。
クロフォード、覚えていない?」
「えっ?
ヘインズ……ああ、皇女のお茶会で倒れた令嬢か」
クロフォードが思い出したように呟く。
「あれだよな、皇族開催のお茶会に招かれた令嬢だけど、突然倒れたっていう」
「そう、その彼女だよ」
「そうそう、あのあと、すごく大変だったんだよな。
ありとあらゆるものに毒物検査をした覚えがある。
鑑定魔法のオンパレードだ。
結局、何もなくて彼女が体調不良なだけだったということが判明したっていう、ちょい迷惑だった騒動」
クロフォードは、辟易した表情を浮かべ、やれやれと首を振った。
ヘインズ伯爵は古き家柄で由緒正しき貴族だ。
エレナは会ったことがない令嬢だが、その家門名だけは知っていた。
皇族のお茶会に招かれるほどの格式高い貴族の娘。
そんなご令嬢がランスと婚約する予定だった。
そう思うとなんだか複雑な気持ちになる。
「実はね、あの時点で彼女は心を病んでいたんだよ」
「へえ、そうだったんだ。
まあ、そんな感じは薄々したね」
クロフォードは肩をすくめた。
「領地からわざわざ出席するまでは良かったんだけどね……」
マインラートはため息をついた。
「倒れて以来、彼女は公然の場に顔を出すことはなくなったよね」
「ああ。でも、あれは仕方ないんじゃないか?
随分と他の令嬢たちにいびられていたもんな。
ありゃあ、参加したくなくなるって」
「いびられていた? なんで?」
エレナは、思わず尋ねた。
クロフォードは少し躊躇ってから口にした。
「エレナも知っていると思うけど、ランス・マクィーンって意外と令嬢たちに人気なんだよ」
「うん、それは知っている」
入省当初、あまり人と関わらずにいたエレナの耳にも、ランスとネイトの噂は届いていた。
それほどまでに、二人は年頃の令嬢たちの間で注目の的だったからだ。
だからこそ、その二人が同期になると知った時は少なからず驚いた。
自分には一生縁のない存在だと思っていた相手と、まさかここで同期として働くなんて思いもよらなかった。
とはいえ、不安だった。
あの頃のエレナは、人と視線を合わせるのが怖かった。
見知らぬ男たちに怯えていた。
それに、初日から、ローブを深く被って顔を隠すエレナを、二人の美男子が不審そうに見つめてくる視線は痛いほどだったから。
けれど、ローゼルの存在もあってか、初日に開催された同期会で、驚くほどあっさりと打ち解けたのは記憶に新しい。
イケメンが苦手なはずのエレナが彼らを受け入れられたのは、理由がある。
そんな二人が、サロンや夜会で令嬢たちに見せるような美辞麗句あふれた台詞を言うことはまったくなく、むしろ、毒舌全開でみんなを笑わせるからだ。
「ランスが人気だと、他の令嬢からいびられるの?」
不安そうにするエレナの質問に、クロフォードは一瞬考え込む。
「う~ん……。
彼が人気だからいびられるっていうより、そのオフィーリア・ヘインズ伯爵令嬢っていうのはさ、おっとりして優しい人で」
クロフォードは言葉を切った。
「……悪く言えば、臆病者で愚鈍なんだ。
何を言われても笑顔で受け流して、陰で泣くタイプっていうの?
しゃべり方も遅いし、どこか幼くて拙い。
それが仇となって、有能なランス・マクィーンと釣り合っていないって、令嬢たちから散々言われてたんだ」
「そんなぁ……」
エレナには、なんとなく彼女の気持ちが分かる気がした。
元婚約者のニコライは、あれでも地元では美丈夫貴公子、ともてはやされていた。
なので、何かと陰口を叩かれた。
『ああ、なんて可哀想なニコライ様』
『あんな不細工令嬢とご婚約だなんて。おいたわしい』
随分とエレナも、地元周辺で開催するお茶会では肩身の狭い思いをしたものだ。
争点となるニコライは、エレナに目もくれず、いろんな令嬢と王都で華やかに遊びほうけていたが。
「まあ、そんな感じだったから、彼女が病んでしまったのは……まあ、なんとなく予想できると思う」
クロフォードは苦虫を嚙み潰したような顔をした。
皇族もご出席される大勢集まる華やかなお茶会。
そこに参加したはいいけど、いわれのない中傷、嫉妬ややっかみを浴び、憔悴して、蒼ざめる。
身の置き所もないような不安そうな視線を周囲に走らせる一人の令嬢。
そんな絵がエレナの頭の中で思い描かれた。
ぐっと胸が詰まる。
「でも、俺が知る限りでも、ランス・マクィーンはちゃんと彼女を大切にしていたように見えたんだ。
で、このまま婚約成立するんだろうって周囲も思っていたし……」
「そうだねぇ。それが結局のところ、いろんなものに彼女自身が耐え切れなくなって、ヘインズ伯爵家からマクィーン伯爵家へ正式に婚約候補辞退の話が持ち込まれたそうだ。
その直後、彼女は療養院に入った。
けれど、その半年後、『ランス・マクィーンが自分に会いに来てくれなかったせいだ』といった遺書を残して自死したらしい」
マインラートは、そう言うとワインを口に含んだ。
「会いに来てくれなかった?」
クロフォードが眉をひそめる。
「変な女だな。
自分から婚約を辞退したくせに……全然意味分かんねぇ」
クロフォードは不快感を募らせ、後頭部をカリカリ掻いた。
「わたしもその遺書の内容は、解せないです」
ランスが彼女にどういう感情を持っていたのか、好きだったのか、それはランスに聞かないと分からない。
けど、彼が好意を向けてくれる相手を無視することはない。
丁寧に誠実に、たとえ好ましくない相手でも礼儀正しく対応する。
それがランスだ。
元婚約者のニコライは、どこか女性に、高尚な聖女のような理想を描いていたので、自分の理想の女性像をエレナに何度も押し付けてきた。
けれど、ランスは女姉妹に囲まれて育ったからか、女性に対して変な幻想を抱いていない。
その辺はちゃんとリアリスト。
エレナの奇抜な言動にだって寛容なランスだ。
それなのに、そんな気弱な婚約者候補を放置して――婚約を正式にしていないからって、彼女を放置するはずがない。
ランスなら、たとえ好きでなかったとしても、きちんと歩み寄ろうとするはずだ。
将来夫婦になるかもしれない女性を大事にして、理解しようとする。
見捨てるわけがない――。
それなのに、どうしてランスに責任転嫁するような遺書を残したんだろう。
ランスが傷つくことが想像できないほど、精神が混沌としていたのかしら。
令嬢たちに人気の婚約者候補、彼女だってきっと誇らしかったに違い。
かつてのわたしも、他の令嬢たちから羨ましがられたとき、居た堪れない気持ちと同時に、優越感がかすかにあった。
身分が釣り合うという理由で婚約することになったとはいえ、将来ニコライの隣に立つのはわたしだ、という意味不明な自信があったのは否めない。
いくら悪口を言われても、生涯寄り添う夫候補が寄り添ってくれているなら、どれだけでも耐えられる、そう思っていた。
ふとエレナの頭に、ある考えが閃いた。
「……ひょっとすると、確認したかったのかもしれないです」
言ったそばから、それがピッタリだとエレナは思った。
「なにを?」
クロフォードが首を捻った。
不可解だと言わんばかりに。
エレナはじっとクロフォードの若草色の瞳を見つめた。
「ランス・マクィーンの愛情を」
クロフォードの整った顔が歪んだ。
エレナは、一人の女性を思い出した。
ナイトレルム侯国のエリザヴェータ・イロヴナ・ミハイル・パヴロヴィチ姫。
優秀な女医だったが、マリュード皇国の工作員の策略によって、無邪気な少女のようになったお姫様。
通称、妖精姫。
最期、理性や精神を崩壊させられたからこそ、周囲にお構いなしで、純粋に死ぬまで彼女は愛を求めることができた。
「自分のことが好きなら、どんな形でも追いかけてくれるはず。
そう信じて、あえて自分から身を引いたんだよ」
エレナが確信めいて言うと、クロフォードはあからさまに顔を歪める。
「はっ、なんだよそれ。
だいたい、正式な婚約前なのに?
素直に白紙にしたから、引き留めなかったから勝手に自滅して死んだってことかよ?」
「うん、たぶん」
「なんだ、そりゃあ。
やってらんねぇ」
露骨に嫌悪感をクロフォードは示した。
クロフォードの戸惑う気持ちは、十分理解できる。
正式な婚約後なら、婚約解消したとしても、お見舞いの手紙一つくらい寄越すだろう。
けれど、二人は正式な婚約者じゃない。
むしろ、素早く手を引いて赤の他人のフリをする。
今後の互いの婚姻に影響が出ないように。
それが社交界の常識だ。
「なんとなくだけどね……ランスが他の女の子たちに人気だからこそ、知らしめたかったんだと思うよ。
どれだけ自分が愛されているか、周囲がなんと言おうとも自分は彼から愛されてるんですよって。
『君じゃないとダメだ』って、ランスに直接選んで欲しかったと思うの」
「はぁ? ……阿保らしい。
恋愛系の劇でも見過ぎなんじゃねぇの、そいつ?」
クロフォードは呆れ返った。
辛辣で手厳しい台詞だ。
そのとおり。
支離滅裂だし、破茶滅茶で、ある意味、迷惑だ。
「でも、きっと、そうだと思う」
それだけ彼女は、精神不安定で、そして、ランスの愛を求めていた。
最近、大衆恋愛小説の影響か、政略結婚が当然の貴族社会でも、やたらと愛の素晴らしさが喧伝されている。
愛がなければ、人生は決して満たされることはないのだと。
愛とは、目に見えない不確かなものであり、けれど、みんなそれを求める。
自分はいつか素晴らしい愛を与えられるはずだと無邪気に信じている。
かつてのエレナもそう思っていたし、信じていた。
ニコライの婚約破棄騒動でそれが幻想であり、虚無であったと知ってしまったけれど。
でも、オフィーリア嬢は、明確な何かが欲しかった。
(とはいえ、正式な婚約者じゃないのに、遺書にランスのせいと書くのはお門違いだよ)
そう思うと、オフィーリア嬢の身勝手さに、なんだか腹が立ってくる。
そのとき、ランスの顔が思い浮かび、胸がどきんとする。
ランスの優しい微笑み。
エレナを見る甘く熱い眼差し。
胸が締め付けられるようなほろ苦い、かすかに沸き立つ甘い感情。
けれど、その温かな微熱を、窓を叩く激しい雨音が冷酷に打ち消していく。
ワインを注ぐトクトクと鳴る音が響く。
カシアがエレナの空いたグラスにワインを注いでいるのだ。
注ぐ赤ワインの揺らめきが、まるで誰かの流した血のように濃く見えた。
「……と、いくら彼女の心理を分析しても、死人に口なしだ」
マインラートはワイングラスに落ちた蝋燭の火を、冷めた目で見つめた。
「それよりも、僕らが注視すべき不可解な点があるんだ。実はオフィーリア・ヘインズ嬢が亡くなったことは、世間には伏せられているんだ」
「え?」
「遺体が行方不明なんだって」
マインラートの声が冷たく響く。
「彼女の主治医が、オフィーリア・ヘインズ嬢の遺体と共に姿を消した。
ものすごい醜聞でしょ?」
「はあ? 遺体が行方不明?」
クロフォードが顔をしかめた。
「その……ヘインズ嬢が亡くなったのは確かなんだよな?
自分から療養所を脱走したとか、その主治医と駆け落ちしたとかじゃなくて……」
「うん、遺書と検視結果票があったから亡くなったことに間違いないよ。
それに彼女が自死した直後の遺体を何人もの従者がその光景を目撃している」
「じゃあ、亡くなったことに間違いはないってことか。
ついでに言えば、その遺書にランス・マクィーンへの恨みつらみが書いてあったんだな」
「そういうこと。
だから、彼女が亡くなったのは、ランス・マクィーンのせいになっているんだ」
マインラートは肩をすくめた。
「はは、それはさすがに、ランス・マクィーンが気の毒だな」
クロフォードは同情したような、乾いた笑みを浮かべた。
「まあね。
一応遺族も彼女の危うい精神状態なのを知っていたから、遺書の内容をそのまま額面通り受け取ってはいないのが幸いだね。
ただ、問題なのが、さっきも話したとおり、遺体が行方不明だということ。
不思議でしょ?
遺体を遺族に引き渡そうとしたら、棺の中の遺体が消えていたんだよ?」
共に彼女の主治医も消えていた――。
「消えた医師の部屋は、見事もぬけの殻だった。
けれど、部屋から彼の魔力残滓と呪術の痕跡が見つかった。
そして、別室で管理されていた彼の数々のカルテからマリュード皇国式の暗号が読み解けた」
つまり、主治医はマリュード皇国の工作員だった。
愕然とした。
思い出すのは、先日のワルト・チェッカレッチとキムバートン・アイヒヴァルトによる王城テロ行為だ。彼らは敵国マリュード皇国の工作員だった。
この国には、まだまだ彼らのような反政府行為をもたらす人間が暗躍している。今更ながら恐ろしくなって、エレナは急に落ち着かなくなった。
「よくよく調べるとね、彼女の死には疑問点が多くてね」
「疑問点?」
「そう、精神を安定させると言いながらも、治療の一環で強制的に活性化させる薬剤を打たれ、日常的に血を抜き取られていた。――そこから魔力を抽出して結晶化するためにね」
エレナはゾッとした。
思わず自分の青白い手首を見つめた。
どくんどくんと脈打つ血管。
「二人も知ってのとおり、魔力を持つ女性にとって、血を抜かれることは死の宣告に等しい」
――魔力赤芽球症。
血を抜かれるということは、その病に一歩近づくことに等しい。
重症化すれば、妊娠や出産はもちろんのこと、毎月の生理の出血ですら命を奪いかねない。
ことに、魔力を持つ女性はこの病にかかる確率が異様に高いため、出血するようなことは悉く避けなければなない。
初潮を迎えた数年間は予防薬を欠かすことができず、薬を怠れば、体内で血を作る力そのものが極端に失われてしまう。
「そもそも治癒魔法が主体となるこの国で、生きた人間から直接注射針などで物理的に体液を抽出して魔力を得る行為は、あまりにも危険すぎる。
身体への負担は計り知れない」
マインラートはゆるゆると首を振った。
注射針で刺されて採血する。
細い腕からみるみるうちに血が吸い込まれるように採られていく。
鮮血。あふれ出る。
突然、エレナの頭の中に赤い霧が噴き出したような幻覚に襲われる。
魔力持ちのエレナからしてみたら、治療と偽られて血を抜かれるなんて、おぞましい以外何物でもない。
でも、医師という人物から「これも治療の一環だから」「必ず良くなるから」そう言われたら、何も疑わずに差し出してしまうかもしれない。
エレナはぶるっと身震いした。
「亡国ナバロー王国のいわゆる魔女狩りのつもりか?
狙ったように女性から血を奪うって」
クロフォードは嫌悪感を示した。
「それはまだ分からない。
ただ、こんな非人道的治療は一刻も早く廃止しないといけない。
極秘で全地区の療養所の抜き打ち捜査をし始めたところ、何箇所か同じような治療をしている療養院があった。
そして、その治療をしていたのは、全員マリュード皇国の工作員が扮した医師。
しかも、彼らの出身はナイトレルム侯国」
「え?」
エレナとクロフォードはまじまじとマインラートを見た。
「驚いたでしょ?
ナイトレルム侯国――。こんなところで僕もまた耳にするとは、思いもよらなかったよ」
「それって……。マリュード皇国は、侯国の姫が遊学する前から侯国医師会を支配下においていた。そして、この国で医師として活躍させるように命じていたってことになるのか?」
クロフォードから驚愕した声が漏れ出た。
「十中八九ね」
マインラートはゆったりと頬杖をついて、ワインに視線を注ぐ。
雨脚が急に強まった。
激しい雨音は不安のざわめきそのものとなり、エレナの心臓の鼓動を乱打する。
「マリュード皇国工作員医師によると、その治療で使っていた医療用器具は、ナイトレルム侯国とマリュード皇国の合作なんだそうだ。現在、この国内で模造品を生産しているらしい」
公にされていないが、医療大国のナイトレルム侯国は、マリュード皇国の属国になったも同然の国だ。信用が置けない仮想敵国である。
そんな国が作った医療用器具で治療と称した採血をされている女性たちがいる……。
しかも、そんな不吉な道具をこの国のどこかで着々と増産されている。
背中を冷たいものが走り抜け、指先が冷たくなっていく。
「僕の推測ではね、その治療法は効率的に魔力を抜き取る実験をしていたんじゃないかと思っている」
異様な言葉に、エレナとクロフォードは互いに目配せし合った。
「血を抜いて、魔力を結晶化って……なんか不気味だな。
目的は何なんだよ」
クロフォードの声が、一段と低くなった。
エレナも同感だと思い、頷いた。
「目的はまだはっきりしていない。ただ、貧困層の魔力持ちの女性たちがこぞって、日銭を稼ぐために血を売っている、という話は噂程度だけど耳にしたよ」
思わず、エレナとクロフォードは顔を見合わせた。
エレナは、ザワザワと胸騒ぎをする自分の胸元に手をあてた。
なんとなく、それが何かを成し遂げる新たな謀略の足掛かりな気がしてならない。
まるで、透明だった思考の海に、一滴の黒いインクが落ちて広がるような気味悪さがある。
それは瞬く間に意識を浸食し、拭い去ることのできない不穏な影を落とした。
「あの……ヘインズ嬢も、何か目的のために魔力を抜き取られたということですしょうか?」
質問するエレナの声は震えていた。
全身から冷たい汗が吹き出した。
「たぶんね。
推測の域からは出ないが、遺体もさらに魔力を抽出するためなのか、もしくは別の実験で使われてるのか……。
何にせよ、療養所の薬剤発注書にも不穏なものが混じっていたからねぇ」
もったいぶった口調のマインラートに、思わずエレナは不気味に感じて声を上げる。
「なんですか、不穏って?」
「特殊保存剤だよ」
マインラートは醒めた声で呟いた。
「保存……」
遺体を保存してどうする気? ますます不気味さが募る。
「被害者は女性限定。
男には被害ないのか?」
クロフォードが腕を組みながら尋ねた。
思ったよりもクロフォードは冷静だった。
「いまのところ、被害者は女性だけみたいだけど、実際僕らが知らないだけで男性も奪われている可能性はあり得るよ」
「なるほどね。
今後マリュード皇国の敵兵や工作員たちとどういうふうに衝突していくか分からない。
そう考えると、その情報は有益だな。
ただ、女性の遺体をどうするのかが不明なのが気持ち悪いところだけど……」
「そうだね。
今後の任務中にそういった胡乱な出来事に遭遇することがあるかもしれない。
心しておいて欲しいかな」
「なんか怖いですね……」
粟立つ腕をエレナはさすった。
遺族はさぞかし衝撃的だろう。
亡くなったはずの娘の遺体が行方不明だなんて。
捜索願を出そうにも、どこをどう探せばいいのか……。
雨脚はさらに強まり、窓を叩く音がまるで警鐘のように響き渡った。
その激しい雨音は、これから訪れるかもしれない惨劇を予告するかのように、エレナの胸を締め付ける。
――何かが、確実に動いている。
その気配だけが、冷たい影となってエレナの心を覆い尽くしていた。




