第64話 戦闘令嬢の糾明開始 ――暗緑の空の下、潜ませた鉄の弾丸
「間に合った」
エレナは手の甲で額の汗を拭った。
あのとき、禍々しい怨嗟の声が、耳の奥を裂くように響いた。
突如、黒い塊が襲いかかってくる。
スローモーションでエレナには塊が向かってくるのが見えた。
濃密な靄の中から浮かび上がるのは、人の顔。
苦悶に歪んだ目、口、鼻が次々と現れ、呻き声を重ねて波のように押し寄せる。
その声は呪詛の鎖となり、空気を重く縛りつけ、 冷気が肌を刺し、吐き気を伴う悪臭が漂う。
ただ見るだけで心臓を握り潰されるような圧が迫り、 背筋を氷の刃でなぞられたような恐怖が全身を支配した。
だが、間一髪、エレナの防御魔法で建物や人、周囲を覆い、黒い靄を霧散させた。
呪術を知らないエレナでも薄々分かった。
圧倒的な質量で、ここらの建物や馬車、門扉、庭園などありとあらゆるものを巻き込み、呑み込もうとした。
あれは人の恨みを凝固し、一見、霞のように見えるが、有機物が触れたら爆発死する爆弾そのもの。
形を持ち、命を奪うために這い寄る怨嗟の靄。
エレナが防御壁を張らなければ、この場にいる者は跡形もなく吹き飛び、この世から完全に消滅していた。
なんと恐ろしい攻撃だ。
エレナの背筋が凍った。
(これが影魔法なのかしら)
エレナにとって未知なる魔法。
ルシアンは同じ属性の闇か対照的な光でないと太刀打ちできないと言っていた。
僅かな魔力しか感じない禍々しい気配。
泥トカゲのように影魔法と呪術の融合物なのだろう。
不気味な色の影が落ちる。
本来なら美しいはずの夕映えは、頭上を埋め尽くす暗緑色の雲で拒絶される。
エレナは周囲を見回す。
霧散して立ち消えたはずの靄は地面に滞り、ふわふわ浮遊している。
やがて、それが石畳に黒く押し固まったかと思ったら、怨嗟の声が、地の底から這い上がるように響いた。
黒い靄が意思を持って蠢き、赤黒い液体の塊が人の形を模し始めた。
腕のような影が伸び、指が蠢き、 どろりと崩れ落ちていく顔は幾重にも重なり合う。
苦悶に歪んだ目と口が浮かび上がって、呻き声は絶叫へと変わる。
おぞましい生き物たちだ。
足を引きずるように前へ進み、 赤黒い液体が滴り落ちる。
彼らが歩くたびに湿った音が響き、石畳には腐臭漂う粘液が灼けただれ、こびりつき、エレナたちの足場を徐々に奪う。
目のような穴からは何も映さぬ虚ろな闇が覗き、歩むたびにぬめり音を響かせた。
石畳に腐臭漂う跡を残し、呻き声が波のように押し寄せる。
腐臭漂う魔物たちが一体、二体、三体……ぞろぞろ生まれ出る。
数える間に十を超え、さらに増え続けた。
冷気が肌を切り裂き、腐臭が鼻を突く。
壁には影が染み付き、庭園の花々は瞬く間に枯れ落ちる。
空気は重く淀み、吐き気を催すほどの悪臭が辺りを満たす。
まるで旧離宮の庭園そのものが腐敗し、屍鬼の群れに呑み込まれていくかのようだった。
(これはなに? 魔物なの?)
ううん、違う。
魔法とは全然違う術から生まれた人ならざるモノたちだ。
そのとき、すっとエレナの隣の一人の騎士が立った。
「ヴァービナス女官、助かったぜ。
あれを食らったらひとたまりもなかったよ」
場違いなほど朗らかで爽やかな声。
第3魔法騎士団団長のトーマス・ケリークロノムだ。
剣を構え、目の前の魔物を睨みつける。笑みを消してすっと真顔になった。
「まったくです。
魔法騎士団にあるまじき行為、油断しておりました。
申し訳ございません」
第3騎士団副団長のテラリス・フォージクも、神経質そうに声を震わせてトーマスとともに最前線に立つ。
眼鏡を押し上げる彼からは知的さが漂う。
「皆さんご無事で?」
エレナは目の前の怪物から目を逸らさないまま、尋ねた。
「ええ。お陰様で。
衝撃波で倒れている軟弱者は全員侯国の者たちです。
そのうち目を覚ますでしょう」
テラリスは微笑みながらも微妙な表情を浮かべた。
「ルシアン様から聞いたよ。
あれは影魔法の一種なんだってね」
トーマスが低く言い、剣に光を灯した。
一瞬、その光に怪物たちが身を縮こませ、恐怖を込めた叫び声をあげた。
「ケリークロノム団長の光魔法に反応したということは、きっとそうです。
申し訳ないのですが、わたしは生憎あれに対抗する術はありません」
「いいって、人には適材適所ってもんがあるからね。
俺は光属性だから、さっ!」
トーマスがバッと前に出て、先頭にいる人ならざるモノの一つに斬りかかった。
斬られた魔物は鈍い声を上げ、空気中に溶けて消えた。
「やっぱ、影魔法だったか」
手ごたえを感じたのか、トーマスはにやりと笑った。
「そうです、物事には適材適所がありますからね」
テラリスが剣を構えたかと思うと、地面に半円を描き、魔法陣を描き、光の炎で焼き払う。
「影魔法というより、これは呪術のひとつ、屍鬼ですね」
「シキ?」
「ええ、屍鬼は魔物ではありません。
呪術の痕跡から生まれる、人ならざる呪いの人形です。
術者を倒さぬ限り、空気中に浮遊している靄は何度でも形を取り、屍鬼を無限に増やし続けます。
光と闇属性魔法で斬れば消えますが、それは一時のこと。
根を断たねば、いくらでも湧き出すのです」
「はっ、マジか。
厄介だなぁ。ますますこれを旧離宮の外に出すわけにはいかないな。
いっちょ、頑張りますか!」
トーマスが腕まくりをした。
「詳しいんですね、呪術のこと」
エレナが慎重な目つきでテラリスを見ると、テラリスは苦笑して声を潜める。
「実は、私の母はマリュード皇国の元貴族であり、呪術師なんですよ」
「え?」
「訳あってこの国に亡命したんです。
ですから、母と私は皇帝陛下の許可の元、密かに呪術の研究をしております」
エレナは息を呑んだ。
禁術である呪術。
敵国のお家芸でもある術式。
研究しないのは敵国に遅れをとるのでは、という意見が貴族の間にあるのは耳にしていた。
(なるほどね、陛下は呪術を野放しにしていたわけじゃなかったんだ)
陛下の許可の元で研究を管理し、対策を練って爪を研ぎ澄ましていたのだ。
テラリスが所属している第3騎士団がこの任に就いたのは、単に妻子持ちが多いという俗な理由ではなく、侯国や皇国の呪術に対抗する軍事的理由もあった。
(まったく、クレインバール卿はどこまで先を見ていたのかしら……)
トーマスとテラリスが交互に、蠢いて襲ってくる屍鬼を防御魔法で次々に跳ね返す。
「いいですか、屍鬼は魔法の理から外れた存在で、術者の怨念そのものです。
歩むたびに腐臭を撒き散らし、地を穢す。これが呪術の恐ろしさです。
魔物よりも厄介で、戦場を腐らせる災厄なのです」
テラリスが他の騎士団員たちに屍鬼を倒しながら、説明する。
彼らは光魔法の使い手のようだ。
驚くほどの速さで屍鬼は増殖するが、それ以上に二人が次々となぎ倒す。
(不気味な屍鬼は彼らに任せよう……まさに適材適所)
エレナはさっと妖精姫を探した。
そのとき、視界にリバーラスが入った。
彼女はさっきの衝撃波で気を失った姫を保護しながら、手足を縄で拘束し、建屋の陰へと素早く避難させていた。
さすが手際がいい。
目が合うと、リバーラスは二ッと笑った。
こんな状況でも落ち着き払い、冷静に自分がやるべき仕事を全うしている。
エレナは、リバーラスとの経験値に深く感心しながら、妖精姫の魔力を模索した。
「やっぱり、あれは……」
偽物というには正確には少々違う。
あの妖精姫の体は正真正銘の妖精姫だ。
その中身、魂部分がサブリナ・フィルチ。
だが、すでに姫が躯になり、別の魂が入っている時点で、人ならざるモノに変わっていた。
まるで、この屍鬼と同じ。まさに屍姫。
前線で何体かの屍鬼を討伐したトーマスが後ろに飛びのいて、滑り込むようにエレナの前に立った。
「ったく、キリがないな。
まったく、国全体がこいつらにまんまと騙されていたなんてな」
忌々しく舌打ちをし、妖精姫を一瞥した。
「仕方ありません、意図的に情報を遮断されてたんですから」
テラリスもトーマスの横に立ち並んだ。
「さてさて、光と闇属性の諸君!」
トーマスが剣を構えて控える騎士団員に声を上げた。
「見本は見せたぞ。今こそ俺たちの力を存分に発揮するときだ。存分に暴れ回ってくれ。
光と闇属性以外を持つ者はエセ妖精姫様、侯国御一行様を捕縛並びにちゃんと保護しておけよ!」
「はっ!」
短く返事をした騎士たちが、サッと動く。
光と闇属性の騎士団員は次々と屍鬼へ飛び掛かり、斬り伏せていく。
その最中、残った第3騎士団員たちは黒い靄の爆発の衝撃波で気を失っている侯国御一行を捕縛していく。
突然、銃声が聞こえた。
騎士団たちの間に緊張が走った。
騎士団の拘束を振り切って、一人の侯国の魔術師がエレナに向けて撃ったのだ。
「危なぁ……」
エレナは恐怖に慄きながら呟いた。
咄嗟に感じた殺気。
無意識のうちに幾重にも分厚い防御壁を施していた。
エレナが使える防御魔法の中でも特段強靭な防御壁だ。
特段強靭な五重の壁。そのうち三枚が瞬時に粉砕された。
魔法を無効化するのでなく、拳銃は物理的な暴力で防御壁を破壊する。
火薬の物理攻撃は油断できない。
エレナが無事で騎士団全員がほっとした束の間、男は、剣を向ける騎士たちを強力な業火の炎魔法で追い払い、まっすぐエレナの方へ歩み出て、何発も連射する。
年齢不詳、大柄でガタイがしっかりとしている男。
瞳は漆黒で、口まで布を覆ったローブを着ている。
拳銃を撃てば、通常射手にも衝撃があるはずだが、男はそれを微塵も感じさせない頑強な体躯で、次の一弾を狙い続ける。
エレナは防御壁を何度も作ってすべて攻撃をかわす。
男が慣れた動作で弾を入れ替え、再び拳銃の引き金を引こうとする。
ヤバい、また次が来る。
エレナは瞬間的に詠唱して、雷の蔦でそれを弾き落とす。
「っ痛!」
不意打ちを食らった男は、拳銃を地面に落とし、エレナが風の刃で畳みかけるように攻撃すると素早く後ろに飛び退く。
その間にエレナの魔法の雷の蔦が、その拳銃を拾い上げてエレナのところに運んだ。
「こんな物騒なものを……」
エレナは蔦から拳銃を受け取った。思った以上の重さ。
当然だ。鉄の塊なのだから。
そして、鉄の塊、だが、ただの鉄ではない。
内部から知っている魔力が滲み出ている。
「ああ。そういうことね」
国境での武器の検閲はかなり厳重なはずだ。
ましてや、王城には絶対持ち込めない。何でこんなものが?
そう思っていたけど、なるほど、彼らも考えたものだ。
そそくさとエレナはローブの内ポケットにしまい込んだ。
暴発しないように厳重に作動不能魔法をかけ、結界魔法でこの不穏で陰気な気配も封印する。
「この拳銃でカトリーナ様を殺したんですね?」
拳銃からは、カトリーナが最期に奮い立たせて使った武装魔法の、微かな魔力残滓がした。
男は答えない。
代わりに聞いたことのない言語での詠唱を始めた。
次々と氷の槍が幾つも現れて、真っすぐエレナをめがけて飛翔する。
だが、エレナが避けるまでもなく、無詠唱で施した防御壁にぶつかって霧散する。
彼はそれなりの魔法の使い手のようだが、無詠唱の防御魔法の前では歯が立たない。
そのときエレナは閃いた。
あの黒い靄は目くらましであると同時に、あの男に物理的に攻撃できる「武器」である拳銃を手渡すための仕掛けでもあった。
いくら魔法結界で拳銃を包んでも、国境や王城の武器感知魔道具は誤魔化せない。
けれど、感知対象外である”呪術の靄”で何重にも包み隠せば、一丁の拳銃など、容易に持ち込める。
呪術で作った靄は魔道具の感知対象外。
――まるで影に紛れるように、鉄の塊を隠し通す。
つまり、怨嗟の靄は目くらましであると同時に、拳銃を密かに運び込むための「容器」だったのだ。
「うまく呪術を使って持ち込んだんですね」
エレナは呟き、男に向き合った。
「そうですよね?」
わたし、この魔力、知ってる。
古代魔道具から感じた魔力、金木犀、官吏登用試験で見かけた顔と魔力。
それから、サブリナの遺体現場の群衆に紛れていた姿。
男が口元の布を外した。
「ああ、ワルト・チェッカレッチ様。
ようやく会えましたね」
エレナは思わず笑みが零れた。
男、ワルト・チェッカレッチは、一瞬複雑そうな表情をしながらも最後には柔和に微笑む。
そして、エレナは空の上空を見た。
見上げた視線の先には、煤けた暗緑色の雲を割るようにして、一人の男が姿を現した。
沈みゆく夕日を背負い、まるで天から見下ろす神のように空に浮かんでいる。
「それから、キムバートン・アイヒヴァルト様。あなたも、見つけましたよ」




