第62話 戦闘令嬢と王城急襲――親友が目撃した怨嗟の靄
ローゼルは迷っていた。
(どうしよう、私、とんでもないものを見てしまったかも)
法務省のある執務塔に戻るまでの回廊で、書類を抱えながらローゼルは、おどおどと歩く。
抱えた書類が震えて落ちそうになって、思わず慌てる。
傍から見れば不審者にしか見えないだろう。
けれど今のローゼルの頭にはそんなことはなかった。
目撃した光景があまりにも衝撃的だったからだ。
どうしよう、誰かに相談した方がいいのかな。
「どうされました?」
「ひゃん!」
不意に背後から声をかけられ、ローゼルの肩は飛び跳ねる。
恐る恐る振り返ると、そこには第2騎士団団長のアラン・リックランスが美しい笑顔を浮かべてローゼルの顔を覗き込む。
怯えるローゼルにアランは柔らかな声色を向けるものの、その挙動不審さからか、瞳の奥は鋭く光っていた。
「あ、あああ、あの……」
「はい?」
噂違わぬ美貌の、令嬢の憧れ、アラン・リックランス。
いつものローゼルなら少し浮かれていただろうが、いまはそれどころじゃない。
(言った方がいいかな。
でも、あんなことを素直に話したら私が不審者扱いされるんじゃないのかしら)
ますます挙動不審になるローゼルに助け船が入る。
「ローゼル?」
レイノルドだ。
熊のように大きな灰色の男。
魔力量が桁外れで、同期でなかったら一生お近づきになりたくないような男。
だが、今は天の助けだ。
「あの、あのね、レイノルド」
縋りつくような眼差しをレイノルドにローゼルが向けるので、レイノルドが前に出た。
「どうした?」
ローゼルの小さな身体はがたがたと震えていた。
「突拍子もないことだけど、すごいものを見てしまったの。
話してもいい?」
「ああ、全然構わない」
突拍子もないことなら、とっくに起きている。
レイノルドは昨夜から起きている出来事を反芻する。
エレナの研究室で起きた泥トカゲ騒動を皮切りに、驚くほどたくさんのことが一晩の間に起きた。
いや、まだ継続中だ。
軍部は朝から殺気だっていた。
まず、ワルト・チェッカレッチと“秘密結社 黒の杖”がエステアーダ領の港街リオナーレの桟橋、倉庫に小規模な爆薬を仕込んで補給路を遮断しようとしていたことが発覚した。
情報源は、カトリーナ・ガンドルフィ。
急ぎ昨夜から第8騎士団を中心に爆発物処理が続いていた。
しかし撤去作業中に黒の杖たちの襲来があり、ひと悶着あったという。
被害は最小限に抑え、先程ようやく撤去作業完了したと報告が入り、皆、ほっと胸をなでおろしたばかりだ。
その間に、キムバートンが証拠を隠していた王都郊外の元黒の杖のアジトだった廃屋は何者かに放火された。
彼の足取りに関する手掛かりをひとつ、失ってしまった。
その一方で、エレナ・ヴァービナスが気づき、ルシアンに依頼した第2騎士団副団長のマッシュ・モラレス主体で行った捜査結果は、驚くべき事実が発覚した。
新たに軍部の総力を挙げて徹底捜査が広げられていた。
そして、ついさっき、突然、武器を商団が納入しに来た。
本日は武器納入日でもない。
そもそも剣の追加注文なんて誰もしていない。
まさに異例のことづくし。
ルシアン・クレインバール総騎士団長不在の現在、代理人はアランだ。
彼は、これを「怪しい」と睨み、レイノルドを伴って直接確認しに向かう途中だった。
ローゼルは青ざめた顔で置き所もないような不安そうな視線を周囲におどおど走らせる。
「おい、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
なかなか話し出さないローゼルにレイノルドが気遣うと、ローゼルが怯えた蜂蜜色の瞳を向けた。
「あのね、人を見たの」
こわごわとローゼルは言葉を紡ぎ出した。
「人?」
「うん、さっき飛行魔法で宮殿の二番目に高い塔」
ローゼルは震える指で、皇帝陛下の家族が住まう宮殿のある方向を指差した。
空気がじっとりして、生暖かい風が吹き始める。
湿度が高く、少し動いただけで肌が汗ばみ、体が重くなる。
ついさっきまで、あんなに晴れ渡っていたのに、いつの間に空はどんよりと曇り始めた。
それもこの王城を中心に雲が湧き出ているようだ。
「一番高い塔にも誰かいたみたいなんだけど、すぐいなくなっちゃって……」
城内最高峰の尖塔とは対照的な位置だ。
城全体を俯瞰するように二つの塔に立つ「影」を想像し、アランの瞳が一気に冷徹なものへと変わった。
「それで、二番目の塔のてっぺんに魔法使いっぽい人が突如現れてね。
その魔法使いが、試験会場で見たことのある男の人だったの、えっと名前が思い出せないんだけどね、キムなんとか・アイヒうんちゃらトだったかな……」
アランとレイノルドは互いに顔を見合わせた。
「見間違いじゃないんだな?
あそこは皇族の方々の居住区だぞ」
「うん、私、視力には自信があるの」
そこは力強くローゼルは頷いた。
「でね、その人からね、黒い靄みたいなものがぶわって広がって……」
黒い靄からは圧倒的な力が溢れ、何もかも飲み込みそうな暴力的な力を感じた。
それが徐々に大きくなっていく。
「ただの煙じゃないよ、生き物のように蠢いていて、それも人の顔が何個も見えて、なんっていうの、怨嗟っていうのかなぁ……すごく気持ち悪くて……」
呻くようなおぞましい声。
まだ耳にこびりついている。
ローゼルはぶるっと身震いした。
喉の奥がヒリついて、心臓が握りつぶされそうなほど息が苦しくなった。
それなのに、このことに不思議と誰も気付いていない。
私が見たものは幻だったのかしら、と不安に思っていた。
「それでね……」
空がどんどん曇っていったの。
そう言おうとした。
その瞬間。
ドォォォォォン!
突然の爆発音がし、その直後地響きがした。
腹に響く衝撃と共に各塔の窓ガラスが悲鳴を上げるように震え、王城全体が揺れ、身体も大きく揺さぶられた。
「え? なに?」
ローゼルの顔がますます強張って蒼ざめた。
レイノルドは揺れる体をぐっと堪え、震動で倒れそうになるローゼルの肩を持って支えた。
揺れが収まって、奇妙な静寂が流れた。
立ち上がる黒煙によって空がさらに一瞬で濁る。
突如、王城の外から怒号や悲鳴、そして騎士たちの剣が擦れ合う金属音が耳に入って来た。
「え、え、え……」
ローゼルは困惑した。
「ああ、いよいよ始まったか。あちらはかなり短気揃いですね」
落ち着き払った声でアランが、苦笑を浮かべてため息をついた。
「軍部の書記官の中で剣の腕に覚えのある者を総動員で巡回にあたらせておいてよかったです」
アランは独り言のように言い、小動物のように怯える女官に視線を落とす。
「ええっと、確か、あなたはレイノルドの同期のローゼル・イースティリア女官でしたよね?」
柔和な物腰でアランがローゼルに尋ねた。
「はっ、はい!」
真っ青な顔でローゼルは返事をした。
「その話、またあとで詳しくお聞かせ願いますか?」
有無を言わせぬ迫力を纏うアランに、コクコクとローゼルは無言で何度も頷いた。
「でもまずは、あなたは素早く執務塔へ避難してください。
通達があったかと思いますが、いまから数時間は軍部の突発実戦演習を行います。
攻撃魔法が飛んでくるかもしれませんからね、おとなしくしていてくださね」
アランが空を覆う黒煙を指差しながら、有無を言わさぬ凄みのかかった美しい笑みを向ける。
「は、はひ……」
ローゼルは、思わず後ろに身を引きながら返事をした。
「これは、ただの『軍事練習』ですよ。
令嬢が目にするようなものではありません」
アランは念押しするように、じぃっとローゼルの蜂蜜色の双眸を覗き込む。
「アラン様、手助けは本当に無用なんですか?」
レイノルドが懐疑的な顔つきで、アランに食いつくように尋ねた。
「くどい。必要ない」
鋭い視線でアランがレイノルドを制した。
「いいか、レイノルド。俺たちは彼らの足枷になる。
魔法も満足に使えない騎士が邪魔をしてどうする?
魔術師は魔術師同士に任せるのが一番」
アランは自分自身に言い聞かせるように吐き捨てた。
「それにあちらはトーマス率いる第3騎士団が総出で構えているから問題ない。
それよりも、俺たちは裏門に行くぞ、そっちが急務だ」
アランは一度だけ、エレナのいる旧離宮の方角へ視線を走らせ、すぐに前を向いた。
「えっ、はい」
迫力に気圧されたレイノルドはおずおずと返事をした。
そのとき、門の方から喧騒が聞こえた。
「あぁ、いよいよ始まった。先に行きますよ」
アランはそう言うと、風の魔法を使って自分は颯爽と王城門へ向かって飛び去った。
「くそっ」
レイノルドは舌打ちした。それから唖然としているローゼルを見た。
「ローゼル、すまない。これで俺も失礼する。
……あっ、さっきのは他言無用で。
アラン様も言っていたが、後ほどもう一度聴取をさせてくれ。
いいか、ローゼルは一刻も早く執務塔に戻ること。分かったか?」
いつもより険のある厳しい表情でレイノルドが釘を刺した。
「う、うん。分かった。
よく分かんないけど、執務塔にすぐ戻るよ。
レイノルドも訓練、頑張って」
「ああ」
レイノルドはふっと微笑んで、次の瞬間には駆け出していた。
周囲に風が起きた。
思った以上のレイノルドの俊足にローゼルはますますぽかんとした。
あの熊のような体で凄まじいスピード。
レイノルドは、あっという間にアランに追いつく。
ローゼルは去って行くアランとレイノルドの後ろ姿を見送って、なんとなく手を振る。
その時、肌で巨大な力の衝突を感じた。
一瞬、息が詰まり、動けなくなった。
魔法じゃない不吉で禍々しい波動も混じって、強く感じる。
そう、さっき感じた不気味な攻撃に酷似している。
じわりと不安が込み上げる。
ローゼルはその力のぶつかり合いから感じる衝撃にぐっと耐える。
全身からどっと冷や汗が噴き出した。
(訓練……。突発過ぎない?
これは、軍部関係で何かあったってことだよね)
ようやく気分的に落ち着いて来たが、その目から恐怖は消えない。
いやだな、すごく。
王城壁の外から湧き出る黒煙が、しきりに何かを訴えてくる。
不意に門扉から漂う臭いが、ローゼルの鼻孔を刺激した。
「えっと、これ、絶対ただの演習訓練じゃないよね?」
ローゼルの声は震えていた。
だって、花火と同じ匂いがする。
花火の独特な匂いは火薬だ。
この国では火薬は軍部にしか保管されていないし、戦争などの有事の時以外は絶対に使わない。
あれは使い方を誤ると、人を殺傷できる道具だ。
それをこんな王城のすぐ外で使うわけがない。
ましてや、他国のお姫様を迎えている最中だ。
こんな剣呑なことをしている場合じゃないはずだ。
ローゼルは蜂蜜色の瞳をさきほど爆発音がした方に向けた。
黄金色に染まる王城の空を切り裂くように、そこだけが煤けた闇に覆われている。
(あっち方面って、キムなんとかが黒い靄を投げていたところだよね……)
不吉な波動はあそこから漂ってきている。
人の恨みとか怨恨、負の感情を寄せ集めたような不気味な靄。
まるで、さっきの男が放つ禍々しい魔力が、天を覆う蓋となってあの場所だけを閉じ込めているように感じる。
ふと、官吏登用試験で目にした赤くてピンクのような靄を思い出す。
あれも体中の血が煮えたぎるほどの強烈な吐き気と物凄く甘く凶暴な香りがした。
とはいえ、あれは間違いなく魔法そのものだった。
言うなれば強い魔法をさらに強力にして、ぎゅっと圧縮した感じ。
でも、さっき見た黒い靄は違う。
言うなれば、邪悪。
嫌なことが起きそうだ。とてつもなく嫌なことが。
それが何なのかは分からなかった。
そう感じているのは自分だけではない気がする。
不意に王都のカフェでコーヒーを飲むホクホクとしたエレナの姿が思い浮かんだ。
「ねえ、エレナ。
あなたもそんなところにいるの?」
ローゼルは気付くと、そう呟いていた。
(変なの、エレナは魔法省で魔法の研究をしているはずなのに)
あんな危なっかしい場所で命懸けで闘っている気がしてならない。
また今度、王都でお買い物、できるよね?
今度はイチゴのタルトを食べたくない?
桃とレモンバーベナのタルトも人気なんだって。
ローゼルは不思議と泣き出してしまいそうなほど不安に襲われた。




