第120話 変装令嬢たちの安らぎ【前編】――夜の終わりの予感
レイノルドは気が気でなかった。
なにせ、同期のランスまでエレナの実家に婚約の打診をしたから。
先日の舞踏会でもお茶会も、全部ランスにいいところを持って行かれている。
ランスに一歩も二歩も遅れを取っていた。
これについては、同じ刑部省に所属するネイトも呆れ顔で、顔を合わせれば、いろいろとアドバイスをしてくれる。
「レイノルド、お前はいい奴すぎるんだよ。こういうのは、少し狡賢くなくてはいけない。
ほら見ろ、ランスなんて、エレナが転びそうになったらさりげなく手を差し伸べるだろ?
同期会の時も自然にエレナの隣の席をキープしている。
ああいう元々したたかな奴でもエレナの鈍感さに苦戦してるんだぜ。
真っ向勝負もいいが、きめ細やかな気遣いと気配りを忘れちゃいけない」
やけに神妙な顔つきで、毎回ネイトは話す。
そうなのだ、俺という人間は猪突猛進。
どうも変化球に弱い。
人間というのは、この世界で最も付き合いにくい生物だ。
魔物ですら、怒りを収めさせ、美味いものをやれば、徐々に心を打ち解けてくれる。
だが、人間はどうだ?
始めはいい顔してたくせに、陰ではいない人間の悪口のオンパレード。
悪口だけならいい、実害が起きるように意図的に根拠のない噂を広め、その人間の尊厳を平気で貶める。
巧妙かつ悪質だ。
これだから、俺は人間は嫌いだ。
本当は、人目に触れない山奥にこもっていたい。
魔物だろうが動物だろうが、ちゃんと嘘偽りなく心を通わせる生物だけに囲まれていたい。
けれど、公爵家に生まれた自分にそれは決して許されない。
俺を買ってくれているルシアン様は、
「魔法騎士団に入れ、そうすれば堂々と間違いをする奴を倒せるぞ」
なんてこともなさげに言うが、魔法騎士団内にもいろいろ派閥がある。
煩わしい限りだ。
だから、一番気楽で自分にやれそうな文官になることにした。
けれど、まさか試験当日に美しい魔法をこの目で見ることになるとは――。
ひょんなことから受験者が持ち込んだ魅了魔法の古代魔導具。
それを封印することになった小柄なローブを纏った女性、それがエレナ・ヴァービナスだった。
「──静寂の帳よ、降り立ちてこの場を包め」
その細い糸を紡ぐような静かな旋律の一節が響いた瞬間、心臓が不意に跳ねた。
彼女の声は脆くも美しい結界を形作り、世界を静謐へと導いていく。
剣で敵を斬り伏せる力とは正反対の、繊細な均衡の上に立つ覚悟。
それが、レイノルドの胸を強く揺さぶった。
彼女の魔力残滓は、まるで春風に乗る花びらのように柔らかく漂う。
髪に、肩に、指先に――光の粒が降り立ち、静かに揺れる。
あれは美しかった。
この世にこんなにも精緻で計算し尽くされた美の魔法が存在していたなんて知らなかった。
レイノルドの胸に芽吹いた感情。
そして、フードをとった彼女の光り輝くような容貌――。
おいそれと触れてはいけない、そんな神聖化された募る想い。
だからこそ、イラつくのだ。
エレナに近づく男たちに。
街人はみんな身分関係なくエレナの倒したクラーケンを食べ、大物魔物討伐祝いに儲け度外視で酒を飲み明かす。
豪快な海の男たちによく見受けられる特徴だ。
要は飲んで騒いでが大好きな陽キャな人々。
俺が最も苦手とする人種だ。
そんな彼らに少年に扮するエレナは英雄視され、さっきから街人に囲まれている。
それも年若いヴェルという漁師の仲間たち。
「トマはすごいよな」
「本当だぜ、俺たちと年齢違わないのにあれだけカッケー魔法を使うんだ!」
「ほら、トマ。もっと食え! お前、貴族の女みたいに細すぎ!」
気さくで悪い奴らではないようなのだが、距離が近い。
それに、エレナは女性だ。
しかも、この国屈指の名門ヴァービナス侯爵家のご令嬢。
馴れ馴れしいにも程がある!
(毎日肉体労働で明け暮れるお前らと違うんだ!
あー、まったく馴れ馴れしい! ここの領主の娘と格が違うんだ!)
「エレ……大丈夫か?」
「うん、ここのお酒、すご~く強いね」
ふだんからワインを嗜むエレナだが、港街で振る舞われるワインは下町の人々がすぐに酔えるようにアルコール度数の強いものだ。
ザル、なんて言われているレイノルドですら、薄ら酔いそうになるほど、強烈だ。
要は高級ワインと安価なアルコール度数だけが強い酒の性質の違い。
「そっかあ、ここは安くうまいがモットーだもんねぇ」
へらっとエレナは、くしゃけた笑顔を見せる。
男たちがどよめいて頬を赤らめる中、レイノルドはなんとか男どもから引き離すことに成功した。
「トマ、酔いを醒まそう。歩きながら詰所に帰ろう。
ルシアン様たちが待っているはずだ」
レイノルドは近くを散歩することを提案した。エレナは頷いた。
トマ、つまり、少年に扮しているエレナ。彼女が去ろうとすることにヴェルたちは残念そうな落胆した声を出す。
だけど、レイノルドは問答無用で「仕事があるから」と言い切り、エレナを連れ出した。
途中、露店やその辺のお店の女将たちからクラーケンの料理を箱詰めにしたものをたくさん手渡された。布袋に入れてもらい、それを片手にレイノルドはその場を去った。
「ありがとうございます」
トマは酔っ払いながらも謙虚に頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうね。
あんな化物を退治してくれて」
口々に街の人たちからお礼を言われ、トマは恥ずかしそうにしながらもみんなに手を振った。
喧騒から離れると、途端に静かな港街に変貌する。
千鳥足でふらつくエレナは、上機嫌でレイノルドを見上げた。
「レイノルドは、クラーケン、ちゃんと食べた?」
「ああ、串焼きを食べた」
「そっかぁ。美味しかったね。
わたしね、ふふ、同期のみんなでいったモレーノお勧めのお店で食べた以来だったんだよ、イカって」
「ああ、あれか。”和”食料理っていう」
「そうそう」
初めて食べるタコは同期のみんな、おっかなびっくりながら、最後はすっかりその魅力にはまっていた。
「またみんなでご飯食べに行きたいねぇ」
「ああ、そうだな」
エレナはご機嫌でニコニコへらへら笑う。
これはほろ酔いを通り越して、泥酔に近い。
十中八九、次の日、二日酔いするパターンだ。
そう思いつつ、滅多に見れないエレナのその姿がなんともたまらない。
「うわぁ」
エレナが危うく転びそうになるので、レイノルドはその華奢な腕を掴む。
(え……)
レイノルドは、困惑した。
すごく柔らかい。
(女性ってこんなにふにゃふにゃだっけ?)
そう意識し出した途端、カッと顔が火照った。
鼓動が速まり、やけに胸が昂る。
「ごめんごめん」
エレナは態勢を立て直そうとするものの、さらに足元を取られ、前のめりに倒れる。
レイノルドはエレナの肩を支え受け止めた。
思いがけず近づいた距離。
気まずそうにエレナは、レイノルドを上目遣いで見上げた。
その瞬間、二人の視線が絡み合った。
エレナの潤む瞳。
長い睫毛。
ほんのり赤い唇。
口元のホクロ。
いい匂いがする。
ふんわりと漂う甘やかな香りがレイノルドの鼻腔をくすぐった。
石鹸ような清潔さに、ほんのり果実を思わせる柔らかい甘美な匂いだ。
「……っ」
いつも以上にエレナが妖艶で、危ういほど官能的な美しさにレイノルドはくらくらする。
(堪えるんだ、俺)
レイノルドはぐっと空を見上げて、唇を噛みしめる。
これが男の姿をしていなかったら、どうなっていたことか。
理性は崩れ、危うく暴走寸前になっていたかもしれない。
「ありがとうね、本当に」
不意にエレナが呟いた。
「レイノルドが来てくれて。嬉しかったよ」
「え?」
「すごくほっとしたんだよ、マリュードの人たちに囲まれて、逃げ切れるかどうか、ローゼルにお土産を買うことを目標に頑張って脱出したの」
「ローゼルの土産……」
「そう、そうなんだよ。せっかくの遠方出張だよ。
ローゼルにも美味しいもの買ってあげたいじゃない」
「まあ、確かに」
王都に住んでいると、領地の往復はあってもなかなか領地と縁遠い領地に出向くことは少ない。
「そうそう、エヴァン様も力強かったけど、やっぱり同期のレイノルドの存在。
レイノルドがいてくれたのは大きかったなぁ」
その時、エレナのポケットから黒リスが飛び出して、肩に乗る。
「キィキィ!」
何かを訴えるように鳴く。
まるで僕もここにいるよ、とアピールしているようだ。
「そうだよね、小次郎が来てくれたんだもん。
もう小次郎は、わたしの救世主だよ!」
エレナは小次郎を抱きしめた。
小次郎も嬉しそうにエレナに頬ずりをする。
そう、エレナは優しい。
動物というのは正直で優しい人をちゃんと分かっている。
「俺は……ちゃんと小次郎みたいにエレナの救世主になれたのかな」
思わず口に出た子どもじみた自分の台詞に、カッと今度は違う意味で血が昇った。
黒リスに嫉妬するなんて。
そんな狭量な自分が嫌になる。
不貞腐れた表情のレイノルドに、エレナは一瞬きょとんとして、にこっと笑った。
「レイノルドも救世主だよ。さっきも男の人たちの輪から助けてくれたし、ほんと、ありがとうね」
その声は優しく、レイノルドは甘酸っぱい興奮が込み上げた。
ほんのり頬が赤くなる。
「いや、なんとなく困っているように見えたから……」
「鋭い! 正〜解!」
エレナは手を上げて大きく振った。
ふらつくエレナを、レイノルドはそっと引き寄せる。
「まったく……。
すっかり酔っ払ってるな」
ここまで距離が近いのに、嫌がる素振りを見せない。
むしろ寛いだ顔をするのは、同期だからだろうか。
エレナは男性に慣れていない。
仕事仲間として男性とやり取りするとか、兄弟子のクロフォードと長時間移動するとか、そういったことにはだいぶ慣れた様子だが、やはり初対面の男にはいまだ怯えている。
――特に、体格のいいピンク髪の男。
エレナの元婚約者がまさにそれに当てはまるからだろう。
それだけ、あの男はエレナを傷つけた。
いまだ彼の影に追われ、恐れている。
そう考え始めると、ますます血が昇って動悸が速くなる。
「レイノルド」
「ん?」
「わたし、ちゃんとやれてる?」
やけに神妙な声だった。
エレナの口調に冷めたものを感じて、レイノルドは反射的にエレナの顔を見た。
エレナは月を見上げていた。その横顔の輪郭が月光で照らされる。
夜風が吹いて、そこに潮の匂いが含まれていた。
笑っていたはずのエレナの瞳が、今は揺れている。
静かな波の音。
月光に照らされた漣。
「わたし、足手纏いじゃないよね?」
陽気だったのに、その声は波音に紛れるほど小さく、けれど確かに怯えを含んでいた。
「どうした? やっぱり酔っているのか?」
レイノルドは苦笑を浮かべた。
急に感傷に浸るエレナに戸惑い、そして、不思議とその表情が美しいと思えた。
(エレナは疲れているのかな)
人は疲労が蓄積すると、物事を悪い方向ばかり考える。
怪しい連中、マリュード皇国に突然拉致られ、敵意を剥き出しにする令嬢を救出。その上、クラーケン討伐だ。
それが終わったら大勢に囲まれ、空きっ腹にあんな質の悪い酒をたっぷり飲んだんだ。
「帰ろう、エレナ」
こういうときは蜂蜜を入れた温かいミルクを飲んで眠るのが一番いい。
レイノルドはそっと背中に手を添えた。
「……わたし、いつも助けられてばっかり」
「そんなことない。俺はエレナにいつも助けてもらっているよ」
レイノルドは、ゆっくり自衛警察団の詰所に向かう。
あそこに行けば、魔法騎士団たちがいる。
もう少し時間をかけてエレナと歩いていたい気がした。
そう思っていたら、自然と速度が遅くなる。
そういえば、エヴァンはみんながイカを囲んでいる最中、何かに気を取られていた様子だった。
そう、あれはある人物――異国の貿易商に視線を止めていた。
しばらくすると、「ちょっと先に戻ってて」とレオンと共に席を外し、雑踏に紛れ込む。
この街に到着した早々目にした路地裏に集まる異国の貧困層の人々。路地裏にはぐったりとした人々が横たわり、裏道では堂々と違法薬物が売られていた。
そして、眼下に広がるスラム街。あれにはいささか驚いた。
――どうやら、この街の問題はいろいろ闇が深そうだ。
それに巻き込まれてしまったエレナ。
いや、巻き込まれたという言葉は適切じゃない。
彼女に失礼だな。
彼女は仕事でここに来ている。
彼女に課せられたのは、入省して一年も満たない官吏が行うにはかなり酷な仕事だ。
いくら優秀な兄弟子 王宮魔術師クロフォード・ノーエランドと一緒とはいえ、その差はあきらかだ。
経験値も能力も、なによりも場数が違いすぎる。
こんなのおかしい。
なぜ、みんなエレナにここまで過大な期待を寄せ、成果を求め、苦しませるのだろう。
エレナを守りたいのに守れない自分、屈折する気持ち、やり場のない感情。
「わたしね、誰かがいないと……何もできないの」
エレナがぼやくように呟いた。
愁いを帯びるエレナの横顔は妖艶で、月光に照らされることで、さらにその美しさを際立たせる。
「そんなことないよ、俺だってそうだ」
「ううん。レイノルドは何でもできているよ」
思わずレイノルドは吹き出す。
「ふっ、何でもは、さすがに無理だな。
俺、人間嫌いだし、誰かのご機嫌を窺って情報を引き出すとか絶対にできない」
「そう? そんなことないよ。
だって、あんな個性的な面々を毎日相手にしてるんだよ、わたしにはできないって」
「まあ、あれは完全に慣れだろうな。
ほら、父上が強烈だからさ。
それに免疫がついたというか……」
幼い頃から父は部下たちをよく屋敷に招いて、労いの食事会を開催していた。
時には屋敷内に入りきれないほどの武官を招待して、庭でパーティーをして連日大騒ぎだ。
「キィキィ!」
レイノルドに続き、小次郎が慰めるように声を上げる。
「そうだね、小次郎はそばにいてくれるね」
「キィっキィ」
エレナに寄り添う小次郎に、レイノルドは不思議な面持ちになる。
本当に会話をしているようだ。
「俺は……エレナみたいに巧みな魔術は使えない。
あんな精緻な魔術式、そうそう容易く操れない。
ちゃんとエレナは出来ているよ」
レイノルドはエレナの頭をぽんとした。
「まだまだ俺たちは発展途上だ。
そこまで思い詰める必要はないんじゃないのか?
いまは先輩たちを見て真似をしていればいいんだ」
「でも……」
涙で潤むエレナの瞳をそっと覗き込んだ。
「大丈夫、エレナの不安はエレナだけじゃない。
俺もだし、ネイトも、ローゼルもホキアンもモレーノも、それにランスだって、みんなそれぞれあるよ」
エレナの目が見開く。
「特にランスは先日の侯国の外交官をやり遂げたことで外務省内外で株が上がったらしい。
で、上官の公爵から直々に指導も受けているようだ」
「すごーい!」
「でも、あのグロウディーナ公爵だぞ?
武官の俺でもあのネチネチ攻撃は勘弁だ」
レイノルドはおどけたように言った。
くすっとエレナは笑った。
「そうだね。……みんな、それぞれ大変だった」
エレナの表情からさっきの暗澹たるものが消え去る。
「ああ、そうだよ。
俺たちはこれからだ。落ち込む暇はないぞ」
ゆっくり前を向いて二人は歩きを進めた。
(あ……)
レイノルドは無意識のうちにエレナの手を繋いでいた。
幼い頃やんちゃな弟が叱られて泣いていたとき、こうやって手を繋いで一緒に歩いたものだ。
(癖だな、これは)
そう言い訳をしつつ、エレナの手をぎゅっと握る。
男のものとは違う、柔らかな指。
力加減を間違えたら、壊れてしまいそう。
「ふふ」
突然エレナが笑った。
「こうして手を繋ぐなんて、なんか懐かしい」
レイノルドはぎくりとした。
「懐かしい?」
それは、元婚約者か?
それとも――ランス?
エレナは無邪気に答える。
「うん、おばあ様に叱られたとき、いつもお兄様がこうやって手を繋いで一緒に謝りにいってくれたの」
「兄……ああ、そうか」
ほっとしたような、拍子抜けしたような、それでいて残念な気持ち。
とはいえ、抵抗されたり、拒否されないだけマシか。
「そうか。
エレナの兄上はきっとエレナに似て優しいんだろうな」
「うん、優しいよ。いつもわたしの心配ばかり。
ほら、わたしって婚約破棄されるどころか、アカデミーも途中退学したでしょ?
碌でもない妹だから目が離せないんだよ」
自嘲するエレナにレイノルドは、眉をひそめる。
「碌でもなくないよ。
碌でもない奴が王宮内務官が務まるわけはない。
エレナはちゃんとした令嬢で、ちゃんとした王宮内務官だ」
「キィキィ!」
小次郎が同意したかのように鳴く。
「ほら、リスの小次郎の方がよく分かっているぞ」
「ふふ、本当だ」
エレナはくしゃっとした笑顔を向けた。
「エレナ! じゃない、トマ!!」
向かう先で声がした。
顔を上げると、王宮魔術師のクロフォード・ノーエランドと、吟遊詩人風情の男がいた。
「クロフォード!」
エレナの表情が、今までにないくらいに華やいだ笑顔を浮かべた。
甘い柔らかさがのぞく。
レイノルドは胸がぎゅっと苦しくなった。
息が詰まる。
「無事だったんだね!」
エレナはレイノルドの手をふりほどき、クロフォードの元に駆け寄る。
自分の顔が凍りつくのが分かった。
次の瞬間、千鳥足のエレナは危うく躓きそうになった。
レイノルドが身を乗り出すより早く、すかさずクロフォードが風魔法で優しく受け止める。
きょとんとして、その場にしゃがみ込むエレナにクロフォードは呆れ返る。
「なにやってるんだよ」
「だって、……酔っぱらってるんだもん」
エレナはあどけなく笑う。
潤んだ熱っぽい瞳、ピンクのガーベラの花びらが揺れたような錯覚を覚えた。
「はあ?
んだよ、脱出祝いを一足先にやってんじゃねえよ」
憎まれ口を叩くクロフォードの表情が一気に弛緩した。
端正な顔立ちに、さらに美しさが増す。
「キィキィ!」
小次郎が、クロフォードにその存在を示すように声を上げた。
「おう、小次郎じゃないか。
今日もいい仕事したらしいな、クレインバール卿から聞いたぜ」
クロフォードは、エレナのすぐそばまでくるとエレナを立ちあがらせる。
「おかえり、エレナ」
「ただいま、クロフォード」
微笑ましい光景なのに、レイノルドは背中に冷や水を浴びせられたような奇妙な心地になった。
視線を感じた。
「レイノルド・ハウルデュース卿もご苦労さん」
クロフォードが言った。
静かでいつもどおりの軽薄な口調。
すべてを見透かしたように艶然と微笑む。
そして、ナイフのように鋭い若草色の瞳。
どこか牽制を含めた眼差しだと思った。
レイノルドは臆面もなくクロフォードを見つめ返した。
魔法騎士団の誰もが一目置く天才異端児クロフォード・ノーエランド王宮魔術師。
初めてエレナと会った時から、それとなくいつもエレナの傍にいる男だ。
「なあ、エヴァンはどうした?」
クロフォードは口角を上げて尋ねた。
「何かお気づきになって、ひとり出歩かれています」
怒りにも似た焦燥感に気取られないよう、如才なくレイノルドは答えた。
「ふうん」
何か考える素振りをするクロフォードに吟遊詩人が言った。
「僕もちょっと顔を出してきますよ。
ひょっとすると、闇オークションに向けてこちらに宿泊している富裕層が顔を出したりしている可能性もありますからね」
「ああ、そうだな。頼む」
吟遊詩人の男は、賑わいの中心に向かって歩き出す。
すれ違う際レイノルドに軽く会釈をした。
レイノルドも小さく会釈し返す。
確かあの男は、宮中から派遣した吟遊詩人に扮した〈影〉、皇族秘密組織の一員。
そうルシアンから聞いた。
今回の応援部隊はそういった機密事項が数多く含まれている。
「クレインバール卿が何があったかいろいろ確認したらしいから戻ろうぜ。こっちもさぁ、いろいろ進展したんだぜ」
そう言って、クロフォードは踵を返す。
それに嬉しそうについていくエレナ。
千鳥足のエレナは、ふらふらしてまた転びそうになる。
レイノルドは慌てて手を出そうとするが、その前にクロフォードが、苦笑しながらエレナを受け止める。
「まったく何やってんだよ」
「ごめん」
「ほら、行くぞ」
自然とクロフォードはエレナの手を繋いだ。
驚いた様子のエレナは僅かに目を開いて、そして嬉しそうにはにかむ。
酒に酔った赤い顔がさらに赤く染まる。
たちまちレイノルドは血が昇るのを感じた。
どくどくとこめかみが波打つ。
喉がカラカラだった。
さっき呑んだ酒の味がやけに熱く絡みつく。
「ハウルデュース卿も、ほら。
クレインバール卿が呼んでいたぜ、書類を早く作れとかなんとか。
まったく人使いが荒いよな」
「……はい」
絞り出すようにしてレイノルドは返事をした。
「リッカはコンラートが迎えに来たんだろ?」
「うん、イカ料理はお好きじゃないみたいだったしね」
「エレナは食った? クラーケン」
「うん、美味しかったよ」
「キィッキィッ」
小次郎も会話に率先して参加しているようだ。
「えっ、小次郎も食ったのか? マジかよ。リスってイカ食っていいわけ?」
「ね、そう思うでしょ? あっ、そうそう、お土産もらったんだよ」
「マジかっ。腹減ってたんだ、ラッキー」
レイノルドは、歩き出すふたりに目が吸い寄せられた。
当たり前のように並んで歩いているふたり。
時折ふたりで交わす悪戯っぽい絡み合う視線。
クロフォードから甘くて優しさが漂う。
すらりとした少年姿のエレナ、クロフォードの男性にしては線の細い、けれど広い背中。
エレナの細い首筋、クロフォードの少し日に焼けた太い首。
二人の背中はバランスが取れていると思った。
ああ、どうしてこんなに苦しいんだろうか。
この痛みは一体なんだろう。
なぜ、こんなにも俺が居心地の悪い思いをしなければならないのだろう。
これまでこんな経験はなかった。
全身の表面がピリピリするようないたたまれない苛立ちがレイノルドの体を駆け巡った――。




