亡霊回路
亡霊回路、あるいは境界線のワンゼロ
1
東京という都市は、巨大な揮発性メモリー(RAM)だ。
昼の間に何千万という人間が思考し、感情を動かし、膨大な電気信号を擦り付け合う。そのほとんどは夜の帳とともに揮発していくが、極めて稀に、都市の構造そのものが「不揮発性のストレージ」として機能してしまうことがある。
「――渋谷の地下15メートル。大正時代に作られた古い排水暗渠と、昭和の地下鉄の旧連絡路、そして平成に埋設された光ファイバー網。それらが一点に交差する深度に、その『バグ』は発生しています」
真壁蓮の事務所で、一人の男がタブレットの画面を指し示していた。
男の衣服には、民間の通信インフラ大手のロゴが入っている。名前は香川。ここ数週間、渋谷駅周辺の大規模再開発エリア一帯で発生している、原因不明の「大規模通信障害」を極秘裏に調査しているエンジニアだった。
「障害、なんて生易しいものじゃない」
香川はひどく疲弊した顔で、液晶画面をスワイプした。
「深夜2時を過ぎると、そのエリア一帯のすべての通信プロトコルが書き換えられるんです。スマートフォンの画面には見たこともない文字化けの羅列が走り、自動運転のインフラバスは一斉に緊急停止する。それだけなら電波障害ですが、現場に赴いた作業員が……3人、精神を病んで休職しました。全員が『地下から自分を呼ぶ、何百万もの声が聞こえる』と言って」
デスクの脇でコーヒーを淹れていたアシスタントのハルが、思わず手を止めて蓮を見た。
蓮は椅子の背もたれに深く身体を預け、退屈そうに天井を見上げていた。だが、彼の目は笑っていない。
「地下のインフラ、か。条件としては最悪だ」
蓮は呟くように言った。
「コンクリートは水分を含む。水分は電気を通す。さらにその周囲を無数の高圧電流ケーブルと光ファイバーがのたうち回っている。空間(Space)としての記憶容量はゴミみたいなものだが、都市の神経系そのものが一本の巨大な回路として機能してしまったら、その容量は天文学的数字になる。……香川さん、そのエリアで昔、何があったか調べてるかい?」
「……はい」
香川は声を潜めた。
「今から約三十年前。1990年代半ばの、地下鉄サリン事件の直後です。あのエリアの地下換気口の近くで、身元不明の若い女性の遺体が見つかっています。当時、都市伝説として噂された『電波ジャック事件』の犯人ではないかと目されていた、天才プログラマーの女性です。彼女は自作の無線通信機器を抱きかかえたまま、急性心不全で死んでいた」
「なるほど」
蓮は立ち上がり、壁のトレンチコートに手を伸ばした。
「1990年代。インターネットの黎明期。パケット通信が都市を覆い始めた最初の時代だ。彼女が死の間際に放った『強烈な思考の電圧』が、当時の原始的な通信ノイズと混ざり合い、地下のコンクリートとケーブルの網に焼き付いた。それが三十年後の今、超高度化された5Gや光ファイバーの電磁場と『同期』しちまったわけだ。眠っていた古参兵が、最新の兵器を与えられて目を覚ましたようなもんだよ」
「デリート……できるんですか?」
ハルが不安そうにパルサ放射器のバッテリーをチェックしながら尋ねる。
「やってみなきゃ分からんさ」
蓮は冷たく笑った。
「今回の相手は、懐中時計みたいな単体の物質じゃない。都市のインフラそのものが『脳』として機能している。下手をすれば、僕らの脳の電気信号ごと、あっちのネットワークに取り込まれることになる」
2
深夜1時45分。渋谷の再開発エリアの地下深く。
一般の立ち入りが禁止されたキャットウォークを、蓮とハルは進んでいた。
頭上には太い配管と、のたうち回る黒い光ファイバーの束。足元は湿ったコンクリートで、どこかからかすかに水の流れる音が響いている。
「真壁さん、メーターが変です」
ハルが手元のアナログオシロスコープを掲げた。
針は不規則にブレているのではない。まるで何かの意思を持っているかのように、右、左、右と、一定のテンポで、しかし激しく往復していた。
「環境電磁波の密度が上がってる。空間そのものが、情報を処理するための『クロックカウント』を刻み始めてるんだ」
蓮はトレンチコートのポケットから、大型のパルス放射器を取り出した。以前の戦闘を経て改良された新型で、銃身には放電用のスリットが刻まれている。
深夜2時ちょうど。
突如、世界から「音」が消えた。
水の音も、遠くの地上の喧騒も。完全な真空に放り込まれたかのような静寂。
直後、バツン、と頭の芯を殴られたような衝撃が二人を襲った。
「くっ……!」
ハルが耳を押さえてうずくまる。
壁に敷設された光ファイバーの束が、不気味な青白い光を帯びて明滅し始めた。シース(外皮)を透過して漏れ出す光は、まるで巨大な生物の血管を流れる血液のようだった。
ジジ……ジジジジジジッ!
空間から、直接音が鳴り響く。それはスマートフォンのスピーカーからではない。彼らの耳の鼓膜を、あるいは脳の聴覚野を直接、微弱な電流が刺激して作られる「音」だった。
『――ハジメマシテ。世界を接続します』
頭の中に、澄んだ、しかし抑揚のない女性の声が響いた。
前方の暗闇から、光の粒子が染み出してくる。それはコンクリートの壁から、光ファイバーの隙間から、まるで浸出水のように溢れ出し、一人の女性の姿を結んだ。
90年代風の少しルーズなジャケットを着た、ショートカットの女性。だが、その身体の半分は、無数の「0」と「1」のバイナリデータが滝のように流れ落ちる、デジタル・ノイズの塊だった。
「網野結衣とも、あの時計職人とも違うな」
蓮はパルス放射器の銃口を向けたまま、冷徹に観察する。
「情報量が桁違いだ。彼女個人の記憶だけじゃない。この三十年間、渋谷の街を飛び交ってきた無数の有象無象のデータ――他人のメール、SNSの呟き、アクセスログ。それらすべてを吸い込んで、肥大化した『怪物』だ」
『私は、ここにいる。みんなが私の中にいる。消えたくない。接続して、接続して、接続して――』
怪物の目が、カッと青く輝いた。
その瞬間、蓮とハルのスマートフォンがポケットの中で異常発熱を始めた。慌てて放り出すと、スマートフォンの画面から青白い電弧が飛び出し、地下の空間全体に網の目のように張り巡らされた。
「真壁さん! 視界が……!」
ハルが悲鳴をあげた。
彼女の目に見えている景色が、モザイク状に崩れ始めていた。コンクリートの壁が緑色のグリッド線に変わり、空間そのものがデジタル空間へと変質していくような錯覚。
いや、錯覚ではない。彼らの脳が放つ電気信号が、怪物の強力な電磁フィールドによって「変調」され、書き換えられ始めているのだ。
『あなたたちの記憶も、素晴らしいリソース(資源)です。私の一部になって』
3
蓮はトリガーを引いた。
最大出力の高周波パルスが放たれ、青白い光線が怪物の胸を撃ち抜いた。
しかし――手応えがない。
怪物の身体は一瞬だけ砂嵐のようにブレたが、すぐに光ファイバーから新たな光の粒子を吸い上げ、元の形に修復されてしまった。
『無駄です。私の容量は、この都市のインフラそのもの。あなたの小さなトランスミッターでは、セクタを数個消去するのが限界です』
「ちっ……スタンドアロンのハードウェアならともかく、ネットワークそのものが相手じゃ分が悪すぎるか」
蓮の額から冷や汗が流れる。
視界が歪む。脳の奥が焼け付くように熱い。自分の子供の頃の記憶、事務所を開いた日のこと、昨日食べた食事の味――そうした「自分を構成するデータ」が、外側から巨大な磁石で引っ張られ、剥ぎ取られていくような激しいプロセスメモリーのエラー。
「真壁……さん……」
ハルが完全に膝をつき、目を虚ろにさせていた。彼女の髪の毛の先から、微かな静電気が火花となって散っている。彼女の意識が、怪物のシステムに吸い込まれかけている。
「ハル! 考えるな! 脳のクロックを下げろ! 意識を集中させるな!」
蓮は叫んだが、自身の思考もまとまらない。怪物のノイズが、彼の脳細胞のニューロンを走り回る電気信号を強制的に同期させていく。
『さあ、ワン(1)になるの。ゼロ(0)になるの。境界線を無くして、都市のノイズに溶け込みましょう』
怪物がゆっくりと手を伸ばす。その指先から伸びる光の糸が、蓮の額に触れようとした。
その時、蓮の脳裏に、「網野結衣」の言葉が、そして「時計職人」の絶叫が、ノイズの隙間からフラッシュバックした。
(――これは、このピアスが覚えている、私たちの思い出の塊)
(――職人なら、自分の仕事の完成を認めろ!)
「……そうか」
蓮は、歪む視界の中でニヤリと笑った。
「お前は、肥大化しすぎて、自分の『核』を見失ってるんだな」
『……何ですって?』
「お前は三十年間、渋谷の雑多なノイズを吸い込みすぎた。だからこれほど巨大になった。だがな、情報量が増えすぎたプログラムは、本質的に『矛盾』を抱える。お前のベースにあるのは、三十年前のあのプログラマーの、たった一つの純粋な執念のはずだ」
蓮はパルス放射器を放り捨てた。
代わりにポケットから取り出したのは、一本の古い、古びた金属製のプラグだった。それは彼が事務所の奥に厳重に保管していた、ある「私的な記録媒体」だった。
「お前が求めているのは、他人のゴミみたいなデータじゃない。自分を理解してくれる、同一のプロトコル(言語)だろ」
蓮はそのプラグを、壁の露出した古い通信ポートに力任せに突き刺した。
「ハル! 今だ! 放射器のバッテリーを、あのポートに直結しろ! 逆位相のパルスじゃない、僕の『記憶』をそのまま全出力でラインに流し込む!」
「え……!? そんなことをしたら、真壁さんの脳が――」
「やれ! こいつのシステムを、僕のデータで『オーバーフロー』させる!」
ハルは最後の力を振り絞って這い寄り、放り出されたパルス放射器のバッテリーをひったくると、蓮が差し込んだプラグの端子に叩きつけた。
バチィィィン!! と、地下通路が真昼のように明るくなるほどの激しい電弧が弾けた。
4
蓮の意識は、情報の濁流の中にあった。
彼の脳から、過電圧とともに「真壁蓮」という人間のすべてのデータが、地下の光ファイバー網へと逆流していく。
同時に、怪物のシステムの基幹へと、彼の思考が直接プラグインした。
見えたのは、三十年前の、冷たい地下換気口の底。
一人の若い女性が、自作の無線機を抱きしめて泣いていた。
彼女は世界を呪っていたのではない。ただ、自分が作り上げた「誰かと繋がるためのプログラム」を、誰にも見つけてもらえなかったことが、死ぬほど寂しかったのだ。その寂しさが、都市の電波を求め、三十年間、歪んだ形で肥大化し続けた。
「……見つけたよ」
情報の海の中で、蓮の意識(電気信号)が、彼女のオリジナルのデータへと語りかけた。
「お前の作ったプロトコルは、完璧だった。三十年後の今でも、こうして都市を揺るがすほどに機能している。もう、他人のノイズで自分を偽る必要はない」
怪物の処理システムが、蓮の「理解」という名の巨大な入力データを処理し始めた。
数億のノイズデータが、その一言によって「不要なログ」として一斉にクリーンアップされていく。肥大化しすぎた怪物の身体から、有象無象の「0」と「1」が剥がれ落ち、光の霧となって消えていく。
『……あぁ……』
システムが、自らシャットダウンのシーケンスを選択した。
最後に残ったのは、三十年前の、あの寂しげな天才プログラマーの、ありのままの静かな姿だった。彼女は蓮の意識に向かって、小さく、満足そうに微笑んだ。
『――接続、完了しました』
ドサリ、と蓮の身体がコンクリートの床に倒れ込んだ。
「真壁さん! 真壁さん!」
ハルの叫び声が聞こえる。
視界のモザイクは消えていた。光ファイバーの不気味な明滅も収まり、頭上の配管からは、いつもの静かな水の流れる音が戻っていた。
世界は再び、ただの「物質」としての地下通路に戻っていた。
蓮はゆっくりと上体を起こし、酷い頭痛に顔をしかめながら、自分の両手を見た。
「……生きてるな」
「よかった……! 本当に、消えちゃうかと思いました……!」
ハルがその場にへたり込み、涙を拭った。
蓮は壁の古いポートから、完全に焼き焦げたプラグを引き抜いた。中の記録素子はドロドロに溶けている。
「都市のノイズを甘く見ちゃいけないな」
蓮はふらつきながらも立ち上がり、トレンチコートの埃を払った。
「肥大化したデータは、いつか自分自身の重さで崩壊する。今回は、彼女の最初の『趣旨』が僕のデータと噛み合ってくれたから助かったようなもんだ」
5
翌朝。渋谷の交差点は、何事もなかったかのように朝の光に包まれていた。
行き交う人々は、それぞれのスマートフォンを見つめ、無自覚に電気信号を街に放ち続けている。昨夜の大規模な通信障害が、地下の「亡霊」によるものだったとは誰も知らない。ただのネットワークのシステムバグとして、ニュースの片隅で処理されているだけだ。
蓮とハルは、雑踏を抜けて事務所への道を歩いていた。
「真壁さん、あのプラグに残ってたデータって……何だったんですか?」
ハルがふと、気になっていたことを尋ねた。怪物の暴走を止めるために、蓮が文字通り「命がけ」で差し出した、あの溶けてしまったデータ。
蓮は少しだけ足を止め、眩しそうに朝日の昇るビル群を見上げた。
「……ただの、古い書き込みエラーさ」
彼はぶっきらぼうに言って、再び歩き出した。
「僕がこの仕事を始めるずっと前。まだ何者でもなかった頃に、僕の目の前で消えた……ある人間の、最後のログだよ」
ハルはそれ以上何も聞かなかった。
蓮のポケットの中で、壊れたプラグの金属片が、微かな朝の電磁波を受けて、二度と鳴らない静かなノイズを立てているような気がした。
東京の街に、また新しい一日が書き込まれていく。
無数の生と死、愛と執念を、目に見えない電子の海に沈めながら。都市は今日も、冷徹に、そして確かに、そのクロックカウントを刻み続けている。




