秒針のノイズ
秒針のノイズ、あるいは凍結された執念
1
都市の地層には、時折、処理しきれなかった巨大な「感情の電圧」が埋もれている。
真壁蓮が今回呼び出されたのは、銀座の裏通りにひっそりと佇む、会員制の高級アンティークショップだった。地下にある蔵の中、冷房の効いた空間で、店主の老人は青ざめた顔で一つの桐箱を指差していた。
「真壁くん、あれだ。手に入れたオークションの翌日から、店の若いスタッフが次々と体調を崩してね。全員が『耳元で激しい金属音が聞こえる』『時間が進まない感覚がする』と訴えているんだ」
蓮がピンセットで箱から取り出したのは、鈍い銀色の輝きを放つ、十九世紀末製の機械式懐中時計だった。特筆すべきは、その文字盤の裏側、内部の歯車を固定する軸受け(ベアリング)のすべてに、人工のルビーではなく、加工された「天然の石英」が使われている点だった。
「石英、か。二酸化ケイ素の結晶構造だね。データの記録媒体としては、これ以上ないほどの大容量だ」
蓮は携帯型のオシロスコープを時計のケースに接触させた。
画面上の波形が、接触させた瞬間に狂ったように激しく明滅し、鋭いスパイク状のノイズを無数に描き出した。ジジジ、ジジ、と、蓮のイヤホンから鼓膜を刺すような高周波の電子音が漏れる。
「……凄まじいな。これは日々蓄積された穏やかな記憶なんかじゃない。高電圧の雷が落ちたみたいに、一瞬でハードディスクの全セクタが焼き切られたようなデータだ。おそらく、壮絶な死の瞬間。それも、強烈な痛みと、何かに対する異常なまでの『執念』が、この石英の結晶に焼き付いている」
「持ち主が誰だったのか、分かるかね?」老人が震える声で尋ねる。
「データの出所を洗ってみます」
蓮は懐中時計を特殊な遮蔽バッグに収めると、足早にショップを後にした。
2
渋谷の事務所に戻った蓮は、懐中時計の電気信号を解析にかけた。
画面に映し出されたのは、約八十年前――第二次世界大戦末期の、戦火に包まれる東京の断片的なデータだった。
当時の持ち主は、ある若き天才時計職人。彼は空襲の最中、防空壕の崩落に巻き込まれ、瓦礫に潰されながら死んだ。その間際、彼は自分が作り上げた最高傑作であるこの「石英の時計」を抱きしめ、凄まじい苦痛の中で一つの思考をループさせていた。
『まだ終わらせない。私の時間は、ここで止まってたまるものか』
その強烈な電気信号のバグが、大容量の石英に焼き付いた。
情報量が膨大すぎたがゆえに、この時計のデータには「周囲の時間を狂わせる」という歪んだ法則性が生まれてしまっていた。
「……真壁さん、それ、今すぐ処分した方がいいんじゃ……」
アシスタントのアルバイト、ハルが画面を見て顔を引きつらせる。
「無理だよ。これほど高密度に結晶化したデータを、ただ燃やしたり壊したりしても、中の電気信号は周囲の空間にばら撒かれるだけだ。そうなれば、この雑居ビル全体が『開かずの間』になる。安全に、放電しなきゃならない」
その時、部屋の蛍光灯が、ブツンと音を立てて消えた。
いや、消えたのではない。部屋の片隅に置いた遮蔽バッグの隙間から、まるでインクを流し込んだような、濃厚な「影」が溢れ出し、部屋の明かりを吸い込んでいるのだ。
チク、タク、チク、タク。
不気味なほど正確な、金属的な駆動音が空間に響き渡った。時計の針は止まっているはずなのに。
影は急速に膨れ上がり、やがて人間の形を形作っていく。それは前回の「網野結衣」のような穏やかな姿ではなかった。全身が黒い煤に汚れ、皮膚が焼けただれ、眼窩からは赤黒い電気の火花が散っている。壮絶な死の瞬間そのものを体現した、怪物の異形。
『ワタシノ、ジカンハ……ココデ……オワラナイ……』
部屋の空気が一瞬で氷結したかのように冷え込む。
ハルが悲鳴をあげようとしたが、声が出ない。彼女のスマートフォンの画面が、高速で数字を逆流させ、やがてフリーズした。時計の生み出す強力な電磁場が、周囲のあらゆる電子機器の時間を狂わせ、停止させていく。
「思考のバグが、自己防衛のシステムを構築してるな」
蓮は冷静に、しかし素早くデスクの引き出しから、特製の「高周波パルス放射器」を取り出した。これは特定の周波数の電磁波を放ち、物質に記録された電気信号を強制的に中和・消去する、彼の手製の武器だった。
『オワラセ……ナイ……!』
職人の残滓である怪物が、蓮に向けて焼けただれた腕を伸ばした。その瞬間、蓮の視界が歪んだ。自分の心臓の鼓動が異常に遅くなり、指先が凍りついたように動かなくなる。脳内の電気信号(思考)すらも、時計の強力なノイズに同期させられ、停止させられようとしていた。
3
「くそっ、これだけの情報量か……!」
蓮は奥歯を噛み締め、思考の焦点を無理やり絞った。
人間の記憶は電気信号。ならば、相手のノイズに飲み込まれれば、こちらの脳細胞の電気も書き換えられ、精神が崩壊する。
蓮はパルス放射器の出力を最大にダイヤルした。
「お前の時間は、もう八十年前に終わってるんだよ!」
トリガーを引いた。
目に見えない超高周波のパルス波が、空間を裂いて怪物の胸元へ直撃した。
バチバチバチッ! と、激しい青白い火花が飛び散る。怪物の身体がテレビの砂嵐のように激しくブレ、絶叫のようなノイズが部屋中に炸裂した。
『アアアアア! ミ、ミ、ミ、未完成、ダ……ワタシノ、時計は……!』
「未完成じゃない」
蓮はノイズの嵐の中、一歩前に踏み出した。オシロスコープの画面に映る、そのデータの「核」を見つめる。
「お前が死の間際に放った執念は、この石英の中で完璧な回路を作った。お前が作った時計は、八十年間、一度も狂わずにその執念を記録し続けたんだ。職人なら、自分の仕事の完成を認めろ」
怪物の動きが、ピタリと止まった。
眼窩の赤黒い火花が、一瞬だけ、静かな職人の瞳の輝きに戻ったように見えた。膨大な情報が、蓮の言葉という「新しい入力データ」を処理し、自らの存在理由を再計算したのだ。
ジジ……。
最後のノイズと共に、怪物の輪郭が、サラサラと崩れる砂のように消えていく。
激しい電磁場の歪みが収まり、部屋の蛍光灯が再びパッと点灯した。ハルのスマートフォンも、何事もなかったかのように現在時刻を刻み始める。
デスクの上には、あのアンティークの懐中時計がぽつんと残されていた。
蓮がピンセットでそれを持ち上げ、もう一度オシロスコープに繋ぐ。画面を走る波形は、先ほどまでの凶悪なスパイクを失い、ただの平坦な、完全に放電された「空のデータ」を示していた。
「……終わった、んですか?」ハルが恐る恐る尋ねる。
「ああ。強制終了完了だ。石英の中のデータは完全に消去された。もうただの古い時計さ」
4
翌日、蓮は元のアンティークショップに時計を返却した。
ただの物質に戻った時計を受け取り、店主の老人は何度も頭を下げた。
帰り道、銀座の洗練された街並みを歩きながら、蓮は周囲のビルや、街路樹を見上げた。
この都市のあらゆる場所に、人間の残滓が潜んでいる。大正、昭和、平成、そして令和。積み重なる時間の層の中で、強烈な意志が、あるいは誰にも知られぬ苦痛が、コンクリートや、古い樹木の幹や、誰かの忘れ物に書き込まれている。
それらはいつか、環境の電磁波と噛み合い、再びバグとして都市の表面に這い出てくるだろう。
「さて、次の現場の準備をするか」
蓮はポケットの中で、微かに静電気を帯びたパルス放射器に触れながら、都会の人混みの中へと溶け込んでいった。




