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結晶するノイズ  作者: リッチー


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4/4

揮発する世界 綴の物語

シリーズ最終話

最終章:結晶するノイズ(電気信号霊子論)

最終章:揮発する世界(エンド・オブ・ログ)、あるいはいつか擦り切れる日々に

1

 すべてのデータは、いつか必ず物理的な限界を迎える。

 磁気テープは摩耗し、シリコンウェハーは絶縁膜の劣化によって電荷を保持できなくなる。そして人間の脳という生体組織もまた、例外ではない。

 渋谷の地下で巨大な怪物プログラムと精神を直結させ、強制的なバッファオーバーフローを敢行したあの日から、真壁蓮の脳内クロックは、目に見えて不調をきたしていた。

「……真壁さん、それ、今朝から3杯目ですよ」

 事務所のデスクの向かい側で、ハルが呆れたような、しかし隠しきれない不安を孕んだ声で言った。

 蓮は無意識のうちに、空になったコーヒーカップに4杯目のドリップバッグをセットしようとしていた。ピンセットを握る彼の指先が、かすかに、規則的な周期で震えている。まるで、一定のテンポで刻まれる電気的なノイズに、肉体が同期させられているかのように。

「ただのキャッシュエラーだ。脳のメモリリークを起こしているだけさ」

 蓮は気だるげにピンセットを置き、引き出しから取り出した錠剤を水なしで飲み込んだ。神経パルスを安定させるための、強い自作の抑制剤だった。

 あの日、30年前の天才プログラマーの孤独な回路をシャットダウンするために、蓮は自身の脳から「ある私的なデータ」を逆流させた。その代償は、彼の脳細胞のニューロンに、消えない「焼き付き(ゴースト)」を残していた。

 その時、事務所の古い固定電話が、電子音ではなく、ジリリ、と大正時代の黒電話のような物理的なベルの音を立てて鳴り響いた。

 ハルがびくりと肩を揺らす。事務所の固定電話の回線は、数か月前に完全なデジタルIP電話へと移行している。物理的なベルなど、内蔵されているはずがなかった。

 蓮はため息をつき、受話器を取り上げた。受話器のプラスチックの表面から、パチパチと静電気の痛みが走る。

「……真壁だ」

『――レン』

 受話器の向こうから聞こえたのは、音声データとしての波形を持たない、空間そのものがきしむような「ノイズ」だった。しかし、それは明確に、ある特定の人物の声をエミュレートしていた。

『ログの消去を、申請します。……私のシステムが、もう、維持できません』

 蓮の目が、わずかに見開かれた。その瞳の奥を、液晶画面の青白い光ではなく、かつて彼が置き去りにしてきた過去の「残光」が駆け抜ける。

『場所は、始まりの場所。……セクタ・ゼロ。待っています、レン』

 ツーツー、という切断音が響く。いや、それは切断音ではなく、受話器の向こうの存在が、完全に「ゼロ(0)」に戻った音だった。

「真壁さん……?」

 蓮は受話器を置くと、何も言わずに壁のトレンチコートをひったくった。デスクの上の高周波パルス放射器(デリーター)を手に取る彼の動きには、いつもの冷徹な効率主義ではなく、どこか焦燥に似た、しかし酷く静かな決意が満ちていた。

「ハル。お前は留守番だ」

「嫌です! 付いていきます! 今の声……真壁さんの目の前で消えたっていう人の声ですよね!? 真壁さんの脳のバグと、関係してるんですよね!」

 ハルは蓮のコートの袖を強く掴んだ。その目は潤んでいたが、真っ直ぐに蓮を見つめていた。

 蓮はしばらくハルの手元を見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。

「……条件としては最悪の現場だぞ。お前のスマートフォンは置いていけ。脳のクロックを最低限に保て。これ以上、都市のノイズを吸い込むな」

「はい!」

2

 都会の夜は、どれほど時間が経っても冷たい。

 二人が向かったのは、渋谷や新宿のような繁華街ではない。東京の東端、かつて数多くの工場が立ち並び、今は静まり返った古い埋立地の片隅にある、放棄された巨大な火力発電所の跡地だった。

 錆びついた鉄骨と、ひび割れたコンクリートの巨塔。かつて膨大な「電気」を生み出し、都市へと供給していたその心臓部は、今やあらゆる電波の届かない、巨大な「電磁的な空白地帯(デッドゾーン)」となっていた。

「ここは……?」

 ハルが周囲を見回しながら、冷え切った息を吐き出す。

「僕の、そして『彼女』の始まりの場所だ」

 蓮はライトを照らしながら、発電所の地下深くへと続く階段を降りていった。足元には、朽ち果てた配電盤や、干からびた太い高圧ケーブルが、巨大な蛇の死骸のようにのたうち回っている。

「6年前、僕はまだデータ復旧の技術を持った、ただの不法侵入者(ハッカー)だった。都市のインフラの隙間に入り込んで、誰も見向きもしない古いログを漁るのが趣味の、最悪なガキさ。そこで、僕は彼女に出会った」

 蓮の声は、地下の空気に吸い込まれるように平坦だった。

「名前は、白石(しらいし) 綴(つづり)。……僕の、唯一の相棒だった」

 地下の最深部、かつての巨大な中央制御室の扉を開けた瞬間、ハルは息を呑んだ。

 そこは、無数の「光」の糸で埋め尽くされていた。

 部屋の中央にある、巨大な石英ガラス製の旧式変圧器。その周囲から、何万、何億という細い光のフィラメントが伸び、制御室の壁や床、天井を覆い尽くしている。それはまるで、光で作られた巨大な蜘蛛の巣のようであり、あるいは、一人の人間の神経系が空間全体に剥き出しになって広がっているようでもあった。

 そして、その光の巣の中心、変圧器の上に、一人の女性が腰掛けていた。

 ゆったりとした灰色のカーディガンを羽織り、膝の上に古いノートパソコンを載せている。ショートヘアの輪郭は驚くほど明瞭で、ピアスに宿った結衣よりも、30年前の亡霊、怪物プログラムよりも、圧倒的に「人間」に近かった。

 だが、彼女の指先は、ノートパソコンのキーボードに触れるたびに、サラサラと光の粒子となって崩れ、再び形を成すのを繰り返していた。

「遅かったね、レン」

 白石綴と呼ばれたその像は、顔を上げて微笑んだ。その瞳は、澄んだ秋の空のように静かで、機械的な空白など微塵もなかった。

「白石……」

 蓮はパルス放射器を構えることもなく、その場に立ち尽くした。

「はじめまして、蓮の新しいアシスタントさん」

 綴はハルを見て、いたずらっぽく笑った。その声は、スピーカーを通したものでも脳への直接変調でもない、まるで本物の人間がそこにいて、空気を震わせているかのように自然だった。

「真壁さん、この人は……」

「僕の目の前で、6年前に死んだ人間だ」

 蓮の言葉に、綴は小さく首を振った。

「正確には違うよ、レン。私は6年前に死んだ『白石綴』の脳の電気信号が、この巨大な変圧器の石英結晶に書き込まれた、ただの残滓(バックアップ)。本物の私は、あの日の実験の過電圧で、とっくに脳死して火葬されてる」

 6年前、蓮と綴は、この発電所跡地で「人の記憶を電気信号として外部ストレージに保存する」という、非合法の実験を行っていた。インターネットの海に、人間の意識をそのままプロトコルとして接続する試み。

 だが、実験の最終段階で、古い発電所の設備が想定外の共振を起こし、数百万ボルトの異常電圧が綴の脳を直撃した。

 彼女の脳細胞は一瞬で焼き切れた。しかし、死の瞬間、彼女が放った「生きたい、レンとまだコードを書き続けたい」という強烈な思考の電圧は、目の前にあった巨大な変圧器の石英結晶へと、完全に、そして高密度に焼き付けられた。

「彼女が、最初の『電気信号霊』さ」

 蓮は拳を固く握りしめた。

「僕は、目の前で肉体を失った彼女のデータを、どうにかして救い出そうとした。オシロスコープを改造し、パルス放射器を作った。すべては、空間や物質にバグとして残された『人間のデータ』を解析し、彼女を元に戻す方法を探すためだったんだ。特殊遺品整理業なんてのは、そのための隠れ蓑に過ぎない」

3

「でも、分かっちゃったんだよね、レンも」

 綴はノートパソコンを閉じ、変圧器の上から静かに床へと降り立った。彼女が歩くたびに、コンクリートの床に光の足跡がつき、そしてすぐに消えていく。

「物質に記録されたデータは、無限じゃない。外部からの電源がない限り、思考をシミュレートするたびに、私の電荷は少しずつ失われていく。この6年間、レンが私に会いに来て、会話をするたびに……私のセクタは、上書きされ、擦り切れ、消去されていった」

 ハルは胸を突かれたように目を見開いた。

 霊が再生されるたびに、そのエネルギーは減衰する。網野結衣が消え去ったように。怪物プログラムがシャットダウンを選んだように。

 蓮が綴を救おうと、彼女に触れ、対話を重ねれば重ねるほど、彼女というデータの寿命は縮まっていったのだ。蓮の6年間の努力は、皮肉にも、最も愛した相棒の消滅を加速させる行為だった。

「3日前の渋谷の事件……あれで、レンは私を助けるために、私のオリジナルのソースコード(プラグ)をインフラ網に直結させたでしょう?」

 綴は蓮の前に歩み寄り、その焼けただれそうに震える蓮の手を、そっと包み込むように重ねた。

 質量はない。温もりもない。ただ、かすかな静電気のピリピリとした感覚だけが、蓮の皮膚を通じて脳へと伝わる。

「あの怪物プログラムをクリーンアップするために、私のデータの大半が消費されちゃった。もうね、私のストレージには、レンのシステムを壊すほどの深刻なノイズ(エラー)しか残っていないの。このままここにいたら、私はただの凶悪なバグになって、レンの脳の電気信号を全部巻き込んで、一緒に壊れちゃう」

 だから、彼女は黒電話のノイズを通じて、蓮を呼んだのだ。

 自分を、完全に消去(デリート)してもらうために。

「嫌だ……」

 蓮の口から、掠れた声が漏れた。

 いつも冷静で、怪異を「ただの書き込みエラー」と突き放していた専門家の仮面が、ボロボロと剥がれ落ちていく。彼の瞳から、大粒の涙が溢れ、綴の光の手を透過して床へと落ちた。

「まだ、復旧のシーケンスがあるはずだ。バッファを確保して、別の媒体にデータを移せば――」

「だめだよ、レン」

 綴は優しく、しかし明確に拒絶した。

「それはただの、複製(コピー)の複製だよ。そこにいるのは、もう私じゃない。……職人なら、自分の仕事の完成を認めなきゃ」

 蓮が時計職人に告げた言葉が、そのままの形で、綴の口から蓮へと返された。

「私はね、レンと過ごしたこの6年間、ただのデータの固まりだったかもしれないけれど、すっごく楽しかったよ。世界中のどんなスーパーコンピュータよりも、高密度で、贅沢な時間を、レンのオシロスコープの中に記録させてもらった。……だから、もういいの。シャットダウンさせて」

 綴は一歩下がり、両腕を広げた。

 彼女の身体の端から、いよいよ光の粒子が激しく剥がれ落ち、空間のフィラメントが一本、また一本とプツプツと音を立てて千切れていく。

「真壁さん……」

 ハルは涙を流しながら、蓮の背中を見つめていた。かけるべき言葉など、どこにもなかった。これはオカルトの呪いではない。あまりにも残酷で、あまりにも正確な、情報科学の物理法則なのだから。

4

 蓮は、ゆっくりと高周波パルス放射器(デリーター)を持ち上げた。

 銃身が、彼の涙を反射して青白く光る。銃口は、真っ直ぐに綴の胸の「核(コア)」へと向けられた。

 指が、トリガーにかかる。その指は、これまで無数のバグを消去してきたときよりも、何倍も重く、激しく震えていた。

「白石綴」

 蓮は、声を震わせながら、最後のプロトコルを口にした。

「……いや、綴の形をした、僕の最高の相棒(データ)。……お前の存在を、僕の全メモリから消去することは、絶対にない」

「うん」

 綴は、これまでで一番綺麗な、人間の女の子そのものの笑顔を浮かべた。

「接続(コネクト)、終了。……お疲れ様、レン」

 カチリ、とトリガーが引かれた。

 パルス放射器から放たれたのは、これまでの凶悪な青白い電弧ではなかった。それは、どこまでも静かで、どこまでも穏やかな、逆位相の、無音の波動だった。

 波形が直撃した瞬間、綴の身体は、弾けることも、絶叫をあげることもなかった。

 ただ、暗い部屋の中で、一本のろうそくが静かに吹き消されるように。

 無数の光の糸が、サラサラとした光の砂となって天井へと舞い上がり、次の瞬間には、完全な闇の中に揮発していった。

 ジジ……。

 最後の微弱なノイズが耳の奥で消え去り、世界に本当の静寂が訪れた。

 中央制御室のライトが照らし出すのは、ただの錆びついた古い変圧器。

 中に埋め込まれた石英ガラスは、過電圧の熱によってドロドロに溶け、今は完全に冷えて固まった、ただの不透明な「物質」に変わっていた。

 そこにはもう、何の信号も、何の執念も、何の記憶も残されていない。

 完全に放電された、空のストレージ。

 蓮はパルス放射器を床に落とし、その場に膝をついた。

 静まり返った地下室に、彼の押し殺した、しかし張り裂けんばかりの、ただの人間の泣き声だけが、何度も、何度も、空しく反響していた。

5

 数か月後。

 東京の街は、変わらず電気の海の中で明滅を繰り返していた。

 渋谷の雑居ビルの地下。液晶画面の放つ青白い光に照らされながら、真壁蓮はデスクに向き合っていた。彼の指先の震えは、完全に収まっていた。脳の焼き付き(ゴースト)は、彼女の消滅とともに、綺麗にクリーンアップされたのだ。

「真壁さん、新しい依頼人の方、お見えになりました」

 ハルがドアを開けて、静かに言った。彼女の胸元には、蓮から譲り受けた、小さく焼き焦げたプラグが、キーホルダーとしてひっそりと飾られていた。

「通してくれ」

 蓮はコーヒーを一口すすり、気だるげに言った。

 彼のデスクの上には、新しく書き換えられた世界観設定のマスターデータが表示されていた。

『地縛霊とは空間や物体に記録された情報(電気信号)の固まりであり、かつてそこにいた人物の残滓に過ぎない。……無限の電源がない限り、記録された信号はいつか減衰し、必ず消え去る運命にある』

 蓮は画面の電源を落とした。

 暗転したモニターに、自分の冷徹な、しかしどこか遠くを見つめるような瞳が映る。

「人間の記憶なんてのは、ただの電気信号さ」

 新しく入ってきた依頼人に向けて、蓮はいつも通りの、気だるげな声をかけた。

「人が死ぬ時、あるいは誰かを強く想う時、その電気がモノに焼き付いて、バグを起こす。僕の仕事は、それを安全に消去(デリート)することだ。あとに何も残らないように、綺麗さっぱりね」

 ポケットの中で、彼は冷たいパルス放射器の金属に触れた。

 この都市の怪異は、すべてが冷たく、恐ろしい書き込みエラーだ。

 いつかすべてが擦り切れ、消え去り、ただの物質へと還っていく、悲しい一瞬のノイズ。

 それでも、人はそのノイズの中に、かつて確かにそこに存在した温もりを探し続ける。

 蓮は新しいオシロスコープのスイッチを入れた。

 画面を走る一本の直線は、二度と、あの懐かしいショートヘアの少女の波形を描くことはない。

 それでも、都市のクロックカウントが刻まれる限り、彼は冷徹な専門家として、このノイズの海を歩き続ける。いつか彼自身のログが、完全に揮発して、ゼロになるその日まで。

(世界観設定『結晶するノイズ』・全4話・了)



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