予想外のスカウト
コロシアム全体を絶望的なまでの静寂が包み込んだ。観客たちは、カサイが降参したという事実をにわかに呑み込めずにいた。大半の者が炎の天才の勝利に賭けていたため、衝撃と混乱が空気中に重く漂っていた。
ライデンは倒れ込んだ体制から素早く立ち上がった。怒りに目を燃やさせ、両拳をぎゅっと力いっぱいに握り締める。一方のカサイは両腕を空に掲げたまま、全身で安堵を表現していた。
――バシッ!
ライデンは赤髪の少年の頭に容赦ない拳を叩き込み、瞬く間に大きなタンコブを作り出した。
「な、何すんだよ!? 痛ぇだろ!」カサイは怒気を含ませて頭をさすりながら抗議した。
「そっくりそのまま返してやるよ!」栗色の髪の少年は激怒して叫んだ。「なんで降参なんてしたんだよ!?」
「もう限界だったからだよ。これ以上能力を使い続けてたら、本当に身体が壊れてた」
そう言いながら、カサイは左腕を押さえた。その皮膚には、真新しいやけどの痕が痛々しく残っていた。ライデンはまばたきをし、友の身体の半分が暴走した炎に包まれたあの瞬間を思い出していた。(そうだったのか……)と、彼の表情が和らいだ。
「どんなに強いと言われようが、『天才』なんて持ち上げられようが、俺にだって肉体の限界はあるんだよ」カサイは肩をすくめて続けた。「それにさ、元々この大会で優勝すること自体、俺の目的じゃないしな」
「じゃあ、なんで出場したんだよ?」栗色の髪の少年は純粋な好奇心から尋ねた。
「お前と戦いたかったからだよ。で、その目的はもう果たせた」カサイは穏やかに微笑むと、握り拳をライデンの肩に軽くぶつけた。「それに……お前、あの魔術師と戦いたがってんだろ?」
「え? なんで分かったんだよ?」
「お前のあいつへの視線見りゃ分かるよ」カサイは、あの紫の瞳の男が自分たちに近づいてきた瞬間を思い返していた。「『優勝しろよ、ライデン。お前ならやるって信じてる』」と記憶を辿って語った。
その言葉を聞き、ライデンは目を見開いた。そして、不敵で自信に満ちた笑みを浮かべた。
「フッ。当たり前だろ、絶対に優勝してやるさ」
その時、審判が舞台へと上がり、マイクのスイッチを入れた。
「選手、カサイ・ヒノカミの降参により、この試合の勝者はナカムラ・ライデン! なお、舞台が著しい損傷を受けていること、並びに残すところ最終決戦のみとなったため、これより15分間の休憩に入ります!」
ライデンは観客席の貴賓席――王族たちが座る場所へと視線を向けた。そちらに向かってニカッと笑うと、親指を立てて後ろを指してみせた。
「ライデン、決勝の前に少し休もうぜ。下に行こう」カサイが彼の背中をぽんと叩いた。
「あ……わるいカサイ、俺ちょっとトイレ行ってくる!」ライデンは少し引きつった笑みを浮かべながら答えた。
「あぁ……そうか……」カサイは怪しむように目を細めて呟いた。
「じゃ、また後でな!」ライデンは手を振りながら、疾走していった。
「おいライデン! トイレは反対方向だぞ!」カサイは友が走っていくのとは逆の方向を指差して叫んだ。無視して走り去るライデンの背中を見送りながら、赤髪の少年はため息をつき、どこか羨ましそうな笑みを浮かべた。「へっ……あいつ、案外ロマンチストなんだからな」
地下の薄暗い通路を、ライデンはゆっくりと歩いていた。突如、暗がりから手が伸び、彼の服の襟元を掴んで足を止めさせた。
「ライデン、こっち来て」
優しく可憐な声が囁き、彼を誰もいない空き部屋へと引き込んだ。
ヒマリだった。しかし、その姿を目にしたライデンは息をのんだ。彼女は王女にふさわしい、深い青色の高級な生地で仕立てられた絢爛豪華なドレスを身に纏っていた。胸元で優雅に交差する身頃には、暗がりの中でも光を反射する美しく煌びやかな金色の刺繍と装飾が施され、高貴な血筋を際立たせていた。
ドレスの下には細やかな黒のメッシュ素材が首元まで伸び、両腕を完全に覆うことで、青と金の華やかさと見事な対比をなしていた。腰元は幅広でエレガントな黒の帯で引き締められ、そこから柔らかなプリーツを描く長いスカートが垂れ下がっていた。前腕までぴったりとフィットした上品な黒の手袋をはめ、胸元にはまるで宝物でも抱えるかのように小さなバッグをしっかりと抱きしめていた。
「ヒマリ、体調はどう?」ライデンは顔に少しだらしない笑みを浮かべながら挨拶した。
「あなたのほうこそどうなの!? 怪我はない? 火傷はしてないの!?」彼女は心配に満ちた眼差しで彼を問い詰めた。
「ううん、大丈夫だよ」彼は彼女を落ち着かせようと両手を上げた。
彼の言葉を無視し、ヒマリはあわただしく手元を動かしてバッグの中を探り始めた。
「何探してるの?」
彼女は包帯と消毒用アルコール、そして脱脂綿を取り出した。脱脂綿にたっぷりとアルコールを含ませる。
「ちょっと待って……」ライデンは恐怖で顔を青くし、一歩後退した。「それ、絶対沁みるやつじゃん!」
「傷口を消毒して、顔についてる血を拭き取らないとダメでしょ!」王女はきっぱりと言い放った。
「でもヒマリ、そこまでしなくても……」彼は声を震わせ、目を閉じて命ごいをした。
「前にも似たような相手と戦った時、どうなったか覚えてないの!?」彼女は少し怒ったように言い返した。
「だってあれは3年も前のことだし! それ以来病気なんてしてないよ……」
これ以上の問答は無用とばかりに、ヒマリはライデンの防御の手を毅然と押しのけた。少年は歯を食いしばり、痛みに耐える覚悟を決めるしかなかった。
王女は彼の吐息を感じられるほどの至近距離まで顔を近づけた。彼女が真剣な眼差しで彼の顔の血や擦り傷を丁寧に拭き取っている間、ライデンは間近に見る彼女の美しさにただただ圧倒されていた。彼の顔はトマトのように真っ赤になり、動揺を隠すためにできることと言えば、固く目を閉じて彼女の手当てに身を委ねることだけだった。
数分後、別の通路では、カサイが特に急ぐ様子もなく医務室へと向かって歩いていた。(それにしても、ライデンには本気で殴られたな……短期間でどうやってあんなバカ力を手に入れたんだ?)と思いを巡らせる。
通路の闇から、威圧感のある人影が現れた。
「おい」重々しく威厳のある声が響いた。「お前がカサイ・ヒノカミか?」
「えぇ、そうですが……どなたですか?」
カサイはピタリと足を止めた。近づいてくる男の姿を認識し、驚きで口を開ぐうの音も出ないほど広げた。その制動服に見覚えがあったのだ。彼は観客席から試合を見守っていた男――。「あんた……『中野タケコ』隊長か!? 警備隊の隊長さんだろ!」
「ほう、俺の顔を知っているのか」
「知ってるどころか、実績も全部知ってますよ! 一番危険とされてた男を倒した伝説の人で、次期将軍候補の……」
「へぇ、随分と詳しいな」タケコは素で感心したように呟いた。
「それで、隊長が俺に何の用なんですか?」少年は少し緊張しながら尋ねた。
「お前の戦いを見ていた。実にいい戦いだったぞ」
カサイの瞳が強く輝いた。憧れの存在から直接そんな言葉をかけられるなど、言葉にできないほどの誉れだった。
「マジですか!?」
「あぁ。お前なら最高の警備兵になれるはずだ。……どうだヒノカミ、俺の部下として志願してみないか?」
カサイは息をのんだ。幼い頃からの夢は常に王属警備隊に入ることだったが、目の前に立つ生きる伝説から直々に勧誘されるなど、どんな妄想をも超えていた。
「はいっ!!」一秒の迷いもなく即答した。
タケコはその即答ぶりにニヤリと口元を緩めた。
「くっくっ、少しは揉むかと思ったがな。なら、明日の朝一番でここを発つ。港で待っているぞ」
「了解しました! こんな機会をくださって、本当にありがとうございます! 絶対に期待を裏切りません!」
隊長の背中が通路の奥へと消えていき、カサイの心臓は高鳴り続けていた。(嘘だろ……ついに夢が叶うんだ……!)赤髪の少年は顔から笑みを消すことができなかった。
「やっぱりここにいたか、カサイ」
背後から聞き覚えのある声が響いた。ライデンだった。彼の顔には綺麗な包帯が二つ貼られていた。左頬に小さくて細長いものが一つ、そして右側の顎のラインに沿って大きな十字の包帯が一つ。
「医務室に行くところか?」栗色の髪の少年が尋ねた。
「あぁ、お前が容赦なく殴ってくれたからな。で、お前は……『トイレ』には行けたのか?」カサイは意地悪な視線を向けた。
ライデンは頬をかきながら、ほんのり顔を赤らめた。
「あぁ……うん……」気まずそうに答える.
「野暮なこと聞くもんじゃなかったな」カサイは友の運の良さに少し嫉妬するフリをして呟いた。「で、付き添ってくれるのか?」
「あぁ、決勝までまだ少し時間があるしな」
二人は頑丈な木の扉の前にたどり着き、中に入った。医務室は実用的で静かな空間だった。一目見て、部屋の中央にはプライバシーを保つための長いカーテンに囲まれた白いシーツの診療台が鎮座していた。格子状の窓からは日の光が差し込み、金属製の引き出しがついたカートの上に積み重ねられた薬品の瓶を照らしている。全体的に静寂と臨床的な秩序が漂っていた。
「「こんにちはー」」二人は声を揃えたが、部屋の中は空っぽだった。
「誰もいないみたいだな……」ライデンが言った。
「ちぇっ、参ったな。待つしかなさそうだ」カサイは痛みに声を漏らしながら、重々に診療台へと腰掛けた。
「良かったら手伝うぞ。俺、じいちゃんから応急手当のこと色々叩き込まれたからさ」
「頼むわ」
ライデンが金属製の引き出しを探っている間、二人の会話は再び真剣なトーンを帯び始めた。
「ライデン、次の試合は相当厳しいぞ」カサイが忠告した。「あいつは手札が多すぎる」
「言われるまでもないよ」
「複数のエレメントを扱える魔術師なんて初めて聞いたぜ。ほとんどあり得ねえ……人間が複数の能力を持ってるようなもんだ」
「マジで?」
「あぁ。膨大な魔力を溜め込んでるんだろうが、エネルギーは無限じゃない。何事にも限界はあるはずだ」
「限界、か……」
「あいつのエネルギーを全部使い果たさせるんだ」カサイが提案した。「認めたくはないが、あいつはヤバすぎる。本当の能力がほとんど分かってないんだから、十分に気をつけろよ」
ライデンは頷き、アルコールを含ませた脱脂綿を持って近づき、友の頬の傷口を拭おうとした。
「あぁ、お前の見立て通り、大袈裟じゃなさそうだな」
「ところでさ、ライデン……」カサイは急に話題を変え、邪悪な笑みを浮かべた。「ヴァルドリス様との仲はどこまで進んだんだ?」
ライデンは跳ね上がり、瞬時に身体を硬直させて真っ赤になった。
「た、ただの友達だよっ!」
「友達ぃ? さっき会いに行ってただろ?」
「ち、違うって! トイレに行ったんだよ!」ライデンはぶんぶんと手を振って否定した。
「ふ〜ん。で、トイレでその包帯を貼ったわけだ?」カサイはあからさまな侮蔑の視線を向けた。
その口を封じるため、ライデンは脱脂綿に通常の三倍のアルコールを染み込ませ、カサイの頬の傷口へと容赦なく擦り付けた。
「ギャアアアアアアッ!!」赤髪の少年の悲鳴が医務室全体に響き渡った。
コロシアムの観客席に戻り、タケコの部下は上司の姿を探していたが、ようやく戻ってきた彼を目にした。
「どこ行ってたんですか、隊長?」
「ヒノカミと話してきた」
「なんて言ってました?」
「俺たちに同行すると言っていたぞ」
「マジですか!? まさかその強面で脅かしたんじゃないでしょうね?」
タケコは部下に氷のように冷たい視線を向けた。「お前、階級下げられたいのか?」
「ハハハ、冗談ですよジョーダン!」部下は唾を呑み込んだ。「じゃあ、もう発ちますか?」
「いや。この試合の勝者が誰になるか見届ける。あのナカムラという少年……あいつの戦い方にはどこか見覚えがある。昔知っていた奴に似ているんだ」
「あっ、隊長見てください! 審判が舞台に上がりますよ!」
打ち砕かれたリングの中央で、審判がマイクを持ち上げ、観客席から爆発的な歓声が湧き起こった。
「15分が経過いたしましたので、これより最終決戦を執り行います! ホシノ・タカミツ、ナカムラ・ライデン、前へ!」
両者が対極のトンネルから姿を現し、アリーナの中央に向かってゆっくりと歩を進めた。
ホシノはその鋭い紫の瞳で冷ややかに周囲を見回していた。(ふん、なんて退屈な大会だ……)と魔術師は思考を巡らせる。(ヒノカミが来ないとなると、あくびが出るほどつまらん戦いになるな)
両ファイターが舞台へと上がり、お互いの目を見つめ合いながら戦闘前の一礼を交わした。空気中に漂う緊張感は、まるでナイフで切り裂けそうなほど濃密だった。
審判が腕を高く掲げ、力強く振り下ろすことで、大会の最高潮の幕開けを告げた。
「「始めっ!!」」




