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ざいあくひげき  作者: Balance
天上楽園編
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55話 月が綺麗ですね

彼の口から言葉が発せられた瞬間、船室を覆っていた重く息苦しい緊張感は木っ端微塵に打ち砕かれた。


「それでも、君は僕のお姉ちゃんなんだろ?」ラッキーの言葉が、彼女の螺旋状に深まる恥辱を何なく、絶対的な明確さで切り裂いた。彼の声に恐れはなかった。躊躇いもなかった。ただ純粋で、否定しようのない事実の提示だった。


ジャンヌの動きが止まった。喉で息が詰まり、涙に濡れた見開かれた目が彼の目と噛み合った。


長い間、部屋に響く唯一の音は船体を叩く重い波の音だけだった。ラッキーはただ彼女を見つめ返した。その灰色の瞳は穏やかで揺るぎなかった。彼にとって研究所の実験も、動物の特質も、世界が何と定義しようと関係なかった。目の前に座る女性――自分を地獄から背負い出してくれた女性のことだけを、彼は想っていた。


ゆっくりと、ジャンヌの顔から恐怖が引き、震えるほどの圧倒的な畏怖と歓喜に取って代わられた。呼気混じりの息を吐く笑いが彼女の胸から飛び出した。彼女は口元に手を当て、涙がまつ毛から溢れ出るなか肩を揺らした――今度は悲しみではなく、深い痛切な安堵の涙だった。


「あなたって人は……」絶望を突き破る晴れやかな涙混じりの笑みを浮かべ、ジャンヌは言葉を絞り出した。彼女は前傾姿勢になり、気兼ねなく泣きながら彼の胸に額を預けた。「本当に変わらないのね。何ひとつ変わっていないわ」


ラッキーは彼女の後頭部に優しく手を置き、指先で彼女の柔らかい銀髪をなぞった。


「あの森の日……」彼のシャツに声を埋もれさせながら、ジャンヌは続けた。「私は木の影で震えながら、あなたが悲鳴を上げて逃げ出すのを待っていたの。鱗、耳、爪……あなたから隠していた全てのものをあなたに見せるために、私はついに光の中へ踏み出すことを自分に強いた。泣きながら、嘘をついていたことを謝りながらね」


彼女は彼を見上げられる程度に身を引き、そのピンク色の瞳を心からの愛おしさで輝かせた。


「それなのに、あなたは微塵も怯まなかった」彼女は囁き、自分の頭の上に置かれた彼の手を優しく包み込んだ。「あなたは傷だらけで血を流しながら、私を見つめて……ただ微笑んでくれたの。『ジャンヌは今でも僕のお姉ちゃんだよ。それに、今でも綺麗だ』って言ってくれたのよ」


ラッキーは胸の奥に深く静かな温もりが広がるのを感じた。廃墟の森の記憶にアクセスすることはできなかったが、彼女の顔から放射される純粋で無条件の愛を目にして、なぜ自分がそう言ったのかを正確に理解した。それ以外に論理的な真実など存在しなかったのだ。


「僕の言った通りだね」ラッキーは静かに言い、親指で彼女の頬から涙を拭った。「君は綺麗だ。昔も、今も」


ジャンヌの顔が深い朱色に染まり、強固な指揮官の面影は完全に消え去り、深く愛される一人の妻へと溶けていった。彼女は目を閉じ、彼の手に完全に身を預けた。その心は数年ぶりに軽やかだった。


「あの瞬間に悟ったの」静かな船室の中で、彼女の声は静かで激しい献身の誓いとなった。「どこまでもあなたについて行くと心に誓ったのよ。世界全体が悪夢に変わろうとも関係ない……あなたさえ傍にいてくれるならって」


あの夜の記憶が彼女を完全に包み込むにつれ、ジャンヌの親指が彼の手の甲を優しくなぞった。酷烈な終末の輪郭が薄れ、かつての生活の廃墟の中に二人が築いた静かで親密な聖域だけが残された。


「真夜中だったわ」ジャンヌの声は優しく恭しい響きを帯びた。「空からは首都の煙が綺麗に消えていて、森はこの上なく明るい銀色の月光に包まれていたの。私の本当の姿を見ても、あなたは決して身を引こうとしなかった。何も変わっていないこと、私が今でもあなたのお姉ちゃんであることを私に分からせようと、ただ抱きしめ続けてくれたわ」


彼女は目を閉じ、彼に体重を預けながら穏やかで満足気な溜息を漏らした。


「二人で林の縁に並んで座ったの」彼女は言葉でその光景を描き出した。「私があなたを抱きしめて、二人で肩を寄せ合って……疲れ果ててボロボロのままね。遠くで崩れ去り、燃え続けるセーヌ帝国の首都の地平線を、静かに見つめていたわ。家はなくなった。仲間たちは行方不明。私達が知っていた全てが破壊されたの」


ジャンヌは目を開け、ラッキーの顔を見上げた。そのピンク色の瞳には、時を超えた深い愛情が映し出されていた。


「明日が何をもたらすのか、恐ろしくてたまらなかった。けれどその時、あなたは炎から目を逸らしたの。夜空を見上げて、言ったわ……『月が綺麗だね』って」


ラッキーの呼吸が緩やかになった。彼の想像力は壊れた世界の上に懸かる銀色の月、混乱の中にある平和の唯一の灯火のイメージを難なく補い描いた。


「あなたを見つめたことを覚えているわ」数年前と同じように胸を膨らませながら、ジャンヌは囁いた。「アンド、私はただ『この瞬間を永遠に留めておきたい』と切望したの。だから私は『ずっと見ていたいな』って言ったわ」


彼女は手を伸ばし、指先で彼の髪を優しく梳かした。


「するとあなたは、疲れた小さな笑みを浮かべて」込み上げる感情で声を詰まらせながら、彼女は振り返った。「私に寄りかかって言ったの。『本当に綺麗だ。こんな悲劇の後でも、心が落ち着くよ』って」


《安宅船 II》の重厚な振動も背景へと溶け去り、二人が共有する空間の温もりだけが残された。


「あの夜が、私の中の全てを変えたのよ、ラッキー」ジャンヌの声は破られることのない感謝の誓いだった。「何年も自分自身を恐れ、世界が私達に何をするかを恐れ、あなたを失望させることを恐れて過ごしてきた。けれどあなたと一緒に月を見上げて……そんな恐怖は全て消え去ったの。あなたが私の傍にいて、同じ空を見上げている限り、私は何にでも立ち向かえるのだと気づいたわ。私はもう何も恐れなくなった。それは全て、あなたのおかげだったのよ」


彼女はさらに歩み寄り、彼の胸にしっかりと頭を預け、彼の心臓の真上に耳を当てた。


「あなたは記憶を失ってしまったけれど、ラッキー」静かな船室で、ジャンヌは優しく囁いた。「でもあの日、あの森で私の魂を救ってくれた男の人は、今もここにいる。私には分かるわ」


ラッキーの腕は本能的にジャンヌを強く抱き締め、激しく保護的な抱擁で彼女を包み込んだ。頭の中の霧の向こうにあの銀色の月と燃える街の具体的な映像は閉ざされたままだったが、彼女が語った感情は疑いようもなかった。深い信頼、温もり、彼女を安心させたいという本能――それらは忘却された少年の遠い残響などではなかった。今、彼の中で生きて脈打ち、彼女が身を預ける心臓と重なり合って打っていた。


「あの夜の月光のことは覚えていないかもしれない」胸を振動させ、彼女の耳に届く低く心地よい声でラッキーは言った。「でも、今僕が何を感じているかは分かるよ」


彼は優しく体勢を変え、彼女の顎に手を添えて視線を上げさせ、自分を見つめさせた。彼女のピンク色の瞳は潤み、世界に見せる強固な指揮官の面影は削ぎ落とされ、傷つきやすく無防備だった。


「僕の世界で一番大切な人が君だということを知るのに、記憶なんていらないよ、ジャンヌ」彼の灰色の瞳は静かで揺るぎなかった。「あの日、廃墟の中で僕が君のすべてを受け入れたのだとしたら……今だってすべてを受け入れるよ。鱗も、耳も、爪も、指揮官も、お姉ちゃんも、僕の妻も。君のすべての欠片を」


彼は身をかがめ、彼女の額に愛おしく残る口づけを落とした。


「もう僕に何も隠す必要はないし、僕たちの過去の重みを一人で背負う必要もないんだ」親指で彼女の耳にかかった銀色の後れ毛を優しく払いながら、彼は誓った。「僕の記憶が砕けていても、僕の魂は君が誰であるかを正確に知っている。また全部積み直そう。一緒に」


ジャンヌは震える吐息を漏らし、新たな安堵の波が押し寄せるにつれ、まぶたを閉じ閉ざした。残されていた罪悪感と恐怖の最後の破片すら完全に溶け去り、圧倒的な平和の感覚だけが残された。彼女は彼の腰に腕を固く回し、彼のシャツに顔を埋め、嵐の中の錨であるかのように彼にすがりついた。


自分が誰であるかの記憶もなく目を覚まして以来初めて、二人の間の亀裂は深淵のようには感じられなかった。それは確固たる『土台』のように感じられた。


外では、《安宅船 II》の船体に波が打ち付け続けていたが、静かな船長室の内側では、終末も、荒野も、明日の危険すらも、何百万マイルも遠く離れた出来事のように感じられたのだった。

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