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魔天道  作者: 外野透哉
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第五十九話 託された者

ー前回のあらすじ

 永瀬 脩が、輪廻施錠を習得する。

しかし、それさえも適応されてしまう。

 禍輪は、貫いていた腕を躊躇なく引き抜いた。


 肉が裂ける嫌な音がして、脩の身体が前のめりに崩れる。

 膝が床に叩きつけられ、そのまま上体が揺れた。


――嘘だろ……


 迅は、息をするのを忘れたように座り尽くしていた。


――永瀬が……負けた……?


 才牙の喉が、無意識に鳴る。

 あれほど拮抗していたかに思われた戦いが、こんな形で終わるなど、誰も想像していなかった。


 脩は膝をついたまま、肩で荒く息をしている。

 床に落ちた血が、じわじわと広がっていった。


「お前は強かったよ、永瀬 脩」


 禍輪は感慨深そうにそう言った。

 嘲りでもなく、怒りでもない。ただ事実を述べるような声だった。


 そのまま視線を遠くへやる。


「……お、陸が見えてきた」


 まるで戦いなどなかったかのような軽さで言うと、禍輪は踵を返し、操舵室へと向かう。


 操舵室では、怯え切った船長と乗組員たちが、固まったまま立ち尽くしていた。


「終わったよ」


 禍輪の一言に、船長の顔に安堵が浮かぶ。


「じゃ、じゃあ……」


 解放される。

 誰もがそう思った、その瞬間だった。


「はい、お疲れさん」


 一瞬だった。


 禍輪の姿がぶれたかと思うと、操舵室に血が舞う。

 首が次々と宙を舞い、床に転がる音が重なった。


 悲鳴を上げる暇すらない。

 操舵室は、沈黙と血の匂いだけが残された。


 禍輪は何事もなかったように屋上へ戻ってくる。


「まだ名乗ってなかったね。いや、名乗ったっけ?まあいいや」


 倒れ伏す脩と、動けずにいる魔虎たちを見下ろし、楽しそうに口角を上げる。


「俺は禍輪。犬飼 魔虎……名前、覚えとくよ」


 魔虎の目が、怒りと恐怖で大きく見開かれる。


 禍輪はふと、病罹が消えた場所に目を向ける。


「病罹もお疲れ様。おやすみ」


 それだけ言い残すと、壁を軽く蹴りつける。

 爆音とともに外壁が砕け、夜の風が流れ込んだ。


 次の瞬間、禍輪の姿は闇の向こうへ消えていた。


 屋上には、揺れる船と、倒れた脩、そして座り尽くす者たちだけが残される。


 誰も、すぐには動けなかった。



 司令室では、ホログラムに映る屋上の映像が映されている。


 誰も、言葉を発せずに画面を見つめている。

 脩が膝をつき、禍輪が去っていく光景が、嫌というほど焼き付いていた。


「……そんな……」


 誰かが、かすれた声で呟く。


 端末を操作していた隊員の手が、小刻みに震えている。


「永瀬さんが……負けた……?」


 否定したかった。

 だが、現実は映像として突きつけられている。


 西園寺 千洋は、唇を強く噛みしめていた。

 指先が白くなるほど拳を握り、感情を押し殺している。


 真也は、画面から目を離さないまま、低く息を吐いた。


――まだ……終わってない……


 モニターの中では、魔虎たちが動けずに立ち尽くしている。


「……全体通信、切らないでください」


 真也の声は震えていたが、はっきりしていた。


「今、こっちが取り乱したら……現場はもっと不安になる」


 周囲の隊員たちが、黙って頷く。


 千洋は、静かに口を開いた。


「……禍輪は去った。だが、被害はこれから確認です」


 一瞬、言葉を区切る。


「そして……生存者の救助を最優先に」


 司令室に、再び緊張が戻る。


 画面の向こうで、まだ戦場に立つ者たちがいる。

 諦めるわけにはいかなかった。


 正直、生存者などいるはずもない。だが、誰一人として、椅子に座る者はいなかった。



 脩は、魔虎、才牙、迅の三人を近くに座らせた。

 夜明け前の冷たい風が、フェリーのデッキを静かに撫でている。


「聞いて欲しい……」


 三人は言葉を挟まず、ただ脩を見た。


「君たちはこれから……様々な困難に直面するだろう……」


 脩の声は弱々しいが、どこか穏やかだった。


「でも時には……逃げたっていい……泣いたっていい……」


 魔虎の拳が、無意識に震える。


「君たちには……"未来"がある……僕が言うんだから間違いない……」


 迅は唇を噛みしめ、才牙は目を伏せたまま動かない。


「"生きろ"。どんなに惨めでも、情けなくても……」


 脩は一人ひとりの顔を見る。


「"退(ひ)くな、進め"」


 その瞬間、三人の目から同時に涙が溢れた。


 魔虎は声を殺し、肩を震わせる。

 迅は歯を食いしばる。

 才牙は何も言わず、ただ静かに涙を流していた。


 脩はそれを見て、わずかに微笑んだ。


――昌平……君が死んだのは……僕がいじめに気づいてあげられなかったから……だから自殺してしまったんだろう……


 そのとき、突然声がした。


「それは違うぞ」


 顔を上げると、そこに立っていたのは長谷川 昌平だった。

 現実感のない、淡い輪郭の幻。


「あの時な、猫が飛び出してきたんだ」


 昌平は照れくさそうに笑う。


「助けようとして、俺も反射的に飛び出した。それだけだ。猫は助かったけどな、俺はそのまま轢かれちまった」


 脩の目が揺れる。


「だから……お前のせいじゃない」


 少し間を置いて、脩は小さく息を吐いた。


「そうか……」


 そして、ようやく本当の笑顔を浮かべた。


 フェリーは陸へと到着する。

 朝日が水平線から昇り、デッキを橙色に染めていく。


 その光の中で、永瀬 脩の体は静かに座っていた。


 永瀬 脩――死亡。

 享年――二十六歳。


 彼の顔は、安らかだった。



 犬飼 魔虎の目から――光が消えた。

ノア編終了です

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