第五十六話 適応
ー前回のあらすじ
犬飼 魔虎は涙を流しながら振り切り、父親ごと病罹の討伐に成功する。
残すは禍輪のみ……
魔虎の内側で、低く、しかし確かな声が響いた。
――よく乗り越えた、魔虎……
鬼灯の声だった。
それは労いであり、同時に、まだ終わっていないと告げる合図でもあった。
魔虎は、病み上がりの身体を引きずるようにして歩き出す。
足取りは覚束なく、甲板に落ちた血痕を踏むたび、靴底がわずかに滑った。
「はぁ……はぁ……」
荒く、短い呼吸。
肺がまだ完全に機能していないのが、自分でもわかる。
それでも立ち止まらなかった。
迅は、その背中を不安そうに見つめていた。
声をかけるべきか迷い、結局、何も言えずに拳を握る。
――魔虎……
天井には、先ほど禍輪が穿った穴が空いている。
魔虎は一度だけ見上げ、膝を軽く曲げる。
次の瞬間――重力を置き去りにするような跳躍。
一息に距離を詰め、闇を切り裂くようにして屋上へと躍り出た。
遅れて、才牙が赫翼を展開し、風を叩いて屋上へ上がる。
迅はガスマスクを外し、穴の真下で手を床にかざした。
鉄の床が円形に隆起し、軋む音を立てながら上昇する。
即席の昇降台が屋上に届くと、迅は静かに降り立った。
そこでは、すでに戦闘が続いていた。
アナザーと禍輪。
殺気と愉悦が入り混じった異様な空気が、夜風を歪めている。
「おお、来たんだ!病罹討伐おめでとう」
禍輪は、軽く楽しげに言った。
――おめでとう……?仲間じゃねぇのかよ
迅は腹の奥で、苛立ちが火花を散らす。
――コイツにとって戦いは、ただのゲームでしかない……
才牙は、冷えた視線で禍輪を見据えた。
「どうだった?家族との感動の再会は」
嘲るような声音。
魔虎はその言葉を無視し、一歩前に出る。
「なんで乗客たちを巻き込んだ……関係ねぇだろ」
低く、抑えた声。
禍輪は肩をすくめた。
「なんでって言われてもなぁ……じゃあ君はさ、蚊を潰すのに、いちいち理由とかつける?」
その瞬間、魔虎の目が見開かれる。
「そういうことだよ。"ただ邪魔だから、鬱陶しいから"。それだけだろ?」
魔虎、迅、才牙。
三人の目が、同時に血走った。
「なんでそんなことができる……お前人間だったんだろ!?」
絞り出すような問い。
禍輪は少し考える素振りを見せ、すぐに笑った。
「いくら俺が人間の頃の記憶と自我を持った特異点だからってさ。流石に、そんな昔の話されても覚えてないよ」
魔虎は、疲労困憊の身体を無理やり動かし、前へ出ようとする。
だが、その前に影が立ちはだかった。
「待て。コイツは俺がやる」
アナザーだった。
「いやぁ君、勢いあっていいねぇ。名前は?」
禍輪が楽しげに問う。
「犬飼 魔虎……」
「そっか!」
そして、にやりと笑う。
「続けようか……永瀬 脩……いや、アナザー」
「アナザー……?」
迅が小さく呟く。
「永瀬、どうやら二重人格らしい」
才牙の言葉に、魔虎と迅は息を呑み、再びアナザーを見る。
その背中には、確かな覚悟が宿っていた。
次の瞬間――二人が衝突する。
火花が散り、船体が大きく揺れた。
「輪廻解錠――竜の顎」
禍輪の足元の床が震え、裂ける。
闇の底から、骨だけで形作られた竜が現れ、突き上がった。
だが、禍輪は軽やかに跳ぶ。
「おお〜」
愉快そうな声。
アナザーは間髪入れずに続ける。
「輪廻解錠――咬合」
竜の顔を模した黄色のオーラが顎を閉じ、禍輪を飲み込んだ。
「ぐわあぁぁ!!」
確かに、叫び声が響いた。
だが――
「なんてね?」
笑顔で、そう言った。
「なるほど、こういう技ね。はいインプット」
魔虎たちが息を呑む。
「アイツ……さっきからずっと、まるで攻撃が効いてねぇみたいなんだ」
アナザーがそう言うと、禍輪が言った。
「俺の能力はね……簡単に言えば"適応"だよ。一度受けた技は、一瞬で適応して俺には通用しない」
禍輪は楽しげに両手を広げた。
「だから、俺と病罹は相性がいいんだ。もちろん、基本魔戒に病気は効かないよ?でもダメージはある。俺なら――一瞬で適応して、瘴霧なんて意に介さない」
その言葉に、その場の全員が驚愕する。
夜風が吹き抜け、船が軋む。
戦いは、まだ終わっていない。




