第五十五話 犬飼魔虎-エボルブ-
ー前回のあらすじ
激闘を繰り広げる犬飼 魔虎たち。
しかし……魔虎は見てしまった。病罹の中に、父親・犬飼 誠司の顔を。
意思の介入など、起こるはずがなかった。
魔戒に取り込まれた人間は、肉体だけではなく精神構造そのものを分解され、核として再構成される。五芒衆などの特異点を除き、そこに「元の人格」が残る余地はない。
それは理論であり、現実であり、これまで一度たりとも覆されたことのない絶対の法則だった。
それでも――
「早く……魔虎……!」
その声は、確かに存在していた。
耳で聞いたものではない。脳に響いたのでもない。
心臓の奥、血液の流れに直接混ざり込んでくるような、逃げ場のない呼び声だった。
「黙れ……お前は喋るな……!!」
病罹は、頭を押さえて叫ぶ。
「なんで……親父が……」
魔虎の喉が、引き攣れた。
言葉を吐き出した瞬間、肺が拒絶するように縮こまり、息が詰まる。吸おうとしても吸えない。吐こうとしても吐けない。胸郭が内側から押し潰され、心臓だけが暴れるように脈打つ。
――そんな……はず……ない……
視界が歪み、世界が上下に揺れる。
酸欠による耳鳴りが、遠雷のように鳴り続ける。
膝が震え、踏ん張ろうとした足先に力が入らない。
無意識に見下ろした両手。
指先が、明らかに黒ずみ始めていた。
皮膚は冷たく、感覚が鈍くなり、爪の根元から色が死んでいく。
ペスト病は、容赦なく進行している。
恐怖よりも先に、その事実が理解できてしまうことが、逆に残酷だった。
「……チッ」
病罹が舌打ちをする。
自分の内部で発生している異常を、苛立ちとして認識したのだ。
「抗うな……!お前はもう取り込んだ!死人が邪魔をするな!!」
怒号と共に、病罹が踏み込む。
床が沈み、金属が悲鳴を上げる。
拳が振り上げられ、純粋な殺意が一直線に魔虎へ向けられる。
その拳は――止まった。
空気を裂く音。
赫翼が展開され、赤い軌跡が視界を横切る。
断罪ノ剣が、病罹の拳を正面から受け止めていた。
「やれ!」
才牙の声は荒い。
病に侵された身体を無理やり動かしているのが、誰の目にもわかる。
「てめぇの親父だろ……!」
一瞬、歯を食いしばり
「てめぇが弔ってやらねぇで、誰がやんだよ……!!」
叫びは叱責であり、覚悟を突きつける刃だった。
病罹は唸り声を上げ、力任せに腕を振り払う。
「邪魔だ!!」
才牙の身体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
だが――追撃に移る直前、衝撃が病罹を襲う。
「がはっ……!」
横の鉄の壁が、瞬時に隆起し、鋭利な突起となって病罹の頸動脈を突き刺した。
「輪廻解錠――鋼域再編」
迅の声は、異様なほど落ち着いていた。
「迷うな!止まるな……!」
一瞬、間を置いてから、低く言う。
「……こういう時こそが、"感じろ"……だぞ」
その言葉で、魔虎の足が前に出た。
恐怖も、混乱も、喪失感も、すべてを押し潰すように。
司令室では、真也がモニターを見つめていた。
指先が震え、無意識に拳を握り締める。
「……いけ……」
それは命令ではなく、祈りだった。
魔虎は涙を流しながら、病罹へと突進する。
一歩踏み出すたびに、視界が狭まり、音が遠のく。
壊死し始めた指先の鈍い痛みだけが、現実を繋ぎ止めていた。
「輪廻解錠……」
声は掠れ、震えていた。
病罹もまた拳を構え、禍々しい力を集束させる。
「輪廻解錠……」
二人の距離は縮まる。
「烈掌……!!」
「忌触……!!」
激突。
爆発音が船内を揺らし、天井の照明が砕け散る。
――親父……ごめん……
魔虎の拳は、正確に病罹の核――心臓部を捉えた。
同時に、病罹の拳も魔虎の頬を撃ち抜く。
一瞬、意識が白く弾ける。
――……問題ない……力はそこまで強くない……
病罹の判断は、途中で崩れ去った。
――ッ……!?何だこれは……!
内側から、別の意志が押し返してくる。
支配していたはずの身体が、言うことを聞かない。
病罹の顔に靄がかかり、その奥に一つの顔が浮かぶ――
誠司。
「ありがとう……」
穏やかな声。
その言葉を最後に、靄は静かに消え、核にヒビが入る。
――ここで負けるくらいなら……使ってやる!
「輪廻施……」
病罹が輪廻施錠を発動しようとした瞬間――
「ッ……!」
間に合わなかった。核が砕け散る。
「……そんなこと……あり得ない……」
病罹の身体は崩壊し、完全に消滅した。
同時に、船内に蔓延していた病は、嘘のように消える。
屋上で戦っていたアナザーが、動きを止める。
「……病気が、消えた……」
戦場に、静寂が降りた。
「負けちゃったかぁ、病罹」
禍輪は相変わらずゲーム感覚で楽しんでいる。
魔虎はその場に立ち尽くし、荒い呼吸を繰り返していた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
拳を握る力は、もう残っていなかった。
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