第四十七話 ノア
ー前回のあらすじ
突然峨門 秀明に呼び出された永瀬 脩。
新たな魔戒の出現によって、大型フェリー・ノアへ出動を命じられる。
しかし、聞き耳を立てていた犬飼 魔虎に自分も連れて行くように言われ、同行することにーー
―約二週間後 夜の港
潮風が重くまとわりつく桟橋に、巨大な船体が静かに停泊している。白い外壁を持つ大型フェリー・ノアは、すでにエンジンの低い振動を響かせ、出航の瞬間を待っていた。甲板では乗組員たちが慌ただしく行き交い、船内からは乗客たちのざわめきが漏れている。
その喧騒の端に、異質な二つの影が立っていた。
禍輪は両手を後ろで組み、楽しげに船を見上げる。隣に立つ病罹は、感情の揺れを見せない瞳で静かに周囲を観察している。
「さぁ、やろうか、病罹」
声は軽い。だがその目は、獲物を前にした捕食者の色を帯びていた。
「分かりました」
病罹が一歩踏み出す。
近くで作業していた乗組員が二人に気づき、顔をしかめる。
「な、なんだお前ら……!! 部外者立入禁止だぞ!」
禍輪はにこりと笑う。
「病罹、やっちゃって」
軽く手を振る。
「輪廻解錠――瘴霧」
病罹の足元から青白い霧が滲み出す。それは瞬く間に広がり、甲板を覆い尽くした。
「ゲホッ……ゲホッ!! なんだ、これは……ッ!」
喉を焼くような咳と共に、乗組員の膝が崩れ落ちる。
病罹がゆっくりと近づき、倒れた男を見下ろす。
「君は……とりあえず結核でいいや」
「……!? ゲホッ、ゲホッ!!」
禍輪はその様子を一瞥すると、興味を失ったように船内へ歩き出した。
―操舵室
船長と操舵手、航海士が計器を確認している最中、重い扉が内側へ吹き飛ぶ。
「やあやあ、お疲れ様〜」
三人が振り向く。
「なんだ君は……!」
禍輪は室内を見回し、指を立てて数える。
「一、二、三人……良かったぁ、全員いるね」
背後から青白い霧が流れ込む。
「な、なんだこれは……」
操舵手が後ずさる。
禍輪は素早く三つのガスマスクを取り出し、三人の顔に装着する。
「君らには死なれちゃ困るからね」
至近距離で笑う。
「いい? そのまま出航しろ。さもなくば……ね?」
操舵手の手が震える。
――クソ……
レバーが引かれ、船体がゆっくりと岸を離れていく。
その頃、桟橋を全力で駆ける三人の姿があった。
「おいおいやべぇぞ! もう出ようとしてねぇか!?」
迅が焦った声を上げる。
「お前が準備遅ぇからだろ」
才牙が舌打ち混じりに返す。
「仕方ねぇだろ! このガスマスク、意外とつけづらいんだ!」
敵の能力はある程度予測がついていたため、念のため援護部隊からガスマスクが支給されていた。
「こんな時に喧嘩すんな! もう陸から離れちまったぞ!」
魔虎が二人を制し、海上を睨む。
ノアの周囲に広がる青白い霧を見て、脩の表情が引き締まる。
――あの霧……もう始まっている……
「みんな、僕の手首に掴まって!」
三人が即座に脩の手首を掴む。
脩が指を鳴らす。
「輪廻解錠――クロノスタシス」
世界が引き延ばされる。波が止まり、霧が空中で静止し、音が遠ざかる。
四人の身体だけが異様な速度で加速する。
脩は触れた対象にも同じ効果を付与できる。指を鳴らす必要があるため、三人には手首を掴ませていた。
次の瞬間、四人はノアの甲板へと着地する。
時間が戻り、風と音が一気に押し寄せる。
「はあ……ビビった……」
魔虎が息を吐く。
「永瀬先生が能力使ってる時の景色、あんななのか……」
―援護部隊 司令室
巨大なホログラムディスプレイに、船内の映像が映し出されている。
「ようやく着きましたか」
千洋が静かに言う。
真也は操舵室の映像を凝視する。
――前回のフェリーでは最上戒一体だったはず……なのに……なんでもう一体いる……!!
視線が禍輪の右手に止まる。
甲に刻まれた数字。
――弐ノ楽……!?
「聞こえますか?」
真也の声が通信に乗る。
「まずは生存者の確認を。そして気をつけてください……その船には最上戒の魔戒の他に、特戒……それも五芒衆の弐ノ楽がいます」
通信の向こうで、息を呑む気配が重なる。
陸に着くまで――約一時間。
逃げ場のない海上での戦いが、静かに幕を開けていた。




