第64話 迫り来る危機
嫌な予感というのは、存外当たる。
平和な世界でぬくぬく生きてきた人間でも、いざと言う時には野性的な勘が働くものだ。
寝起きの空はどんよりとしていて、いつもよりピリピリと、ひんやりと、身体を突き抜けるような空気が、開け放たれた窓から静かに入り込んできた。
温もりが残ったままの布団も、風に当てられて次第に冷めていく。
心做しか街が騒がしい。
がやがやとした、音や熱気が飛び交うそれではなく、別の何か。
不安や焦り。緊張感。
誰かのどくどくと脈打つ鼓動が、私の耳にも届く気がする。
「何かあったのかね」
朝の食事を頬張りながら、何気なく目の前の青年に話しかけた。
私の初めてのパーティー仲間。
彼は、さあとだけ呟いて、少し硬くなった黒パンを口に放り込んだ。
「今日は、依頼でも受けに行く?勉強ばっかりだったから疲れたでしょ」
「そうだな。そろそろ、座り込んでばかりで身体が鈍りそうだ」
「確かにね。まあ、あんまり大した依頼もないんだけどさ」
迷宮の調査は相変わらず手付かずで、さしたる危険は迫っておらずとも、森の中には誰も踏み込めないままだ。
バイトをするかのごとく、店の手伝いやら資材の運搬やら、雑用ばかりが掲示板に並び、数少ない依頼を冒険者達が奪い合うように受注している有様である。
お陰様で、仕事を求めて別の街へと移動する冒険者達もそれなりにいるらしい。
現状を見る限り、サイラース森林を除けば、この街の周辺は良くも悪くも平和な街だということがよく分かった。
ライフラインが絶たれたとか、流通に使われる交通網が塞がれたとか、そういった局面に追い込まれていないだけましということか。
ランクの高い依頼が受けられるという、冒険者にとって一番の目玉であろう特徴が潰れたことは大きいが、そこに住む人々の生活が守られているのならまだ救いはある。
とはいえ、この街を治める領主としては、経済的に厳しいところがあるだろうけれど。
高ランクの魔物の素材は、それはそれは良き値で売れることだろう。
それ以外の素材だって、ギルドや街全体の利益に大きく貢献していたはずだ。
それらの収入が全て途絶えてしまったというのは、些か苦しいものがあるに違いない。
何にせよ、なるべく早くに解決すべき案件であることは確かだ。
(そうは言っても、今の私に出来ることなんてたかが知れてるんだけどね)
当然ながら、勝手に迷宮に入る訳にもいかないし、現在のランクでは調査員としての穴を埋めることすら適わない。
ギルドや『紅蓮の炎』の皆を通して情報を集めてはいるけれど、今現在において打てる手は特に見当たらないままだ。
そんなだから、宿でひたすらに勉強するばかりの日々である。
そりゃあ身体だって鈍る。当たり前の話だ。
こと私においては、鈍るほどの肉体も持ち合わせていない身ではあるが。
少しくらいは運動しておかないと。なんというか、人としての尊厳を保つ為に。
「んー、やっぱりいつもと空気が違うな」
「確かにな。妙にピリピリしてる気がする」
「だよねえ。何か異常事態でも起きたかな」
その可能性は十分にあった。
もしや、ついに森林から魔物でも溢れ出したかと予想をしながら、ギルドへと足を運ぶ。
街全体に影響を及ぼす問題なら、何かしらの情報は得られることだろう。
その読みは当たっていて、扉を開けた瞬間に目に入ったのは、掲示板に群がり、受付に詰め寄る、数多の冒険者の姿だった。
かのモーセが海を割るかの如く、綺麗に真ん中が開けたギルドの光景など、初めて目にする。
端的に言って異常。
その一言に尽きる。
得体の知れぬ何かが、この空間を丸ごと飲み込んでいるようだ。
「ひとまず、掲示板を見てみるか」
「そうだね。とりあえず、依頼どころじゃないことだけは分かるけど」
一向に無くなりそうにない塊の隙間を、上手いことくぐり抜けて先頭に躍り出ると、一枚の紙が目に入った。
『───魔族が現れたとの情報あり。ロラン方面への通行を禁ず───』
紙に書かれたのは、簡素な文だけ。
ロランもまた知らぬ街だが。
問題は勿論、そこではなく。
「魔族……?」
「まさかお前、知らないなんて言わないよな」
「そのまさかなんだな」
「あれだけ魔法に詳しいくせに、知識が偏りすぎてないか?」
仕方の無い話だ。
それはそれ。これはこれ。
来たばかりの世界の常識など、今の私にはこれっぽっちも伝わらないことである。
「魔物と何が違うの?」
「根本は一緒だ。他と違うのは、人の姿をしている点だな。姿形もそうだし、何より喋る。その上人と同じように思考するんだ」
「最悪じゃない?それ」
「最悪だよ。実際、相手にするには危険度が高すぎて、Sランクに認定されているからな」
だから、これだけ街全体が緊迫感に包まれているのか。
わざわざ通知がなされるということは、サイラースから比較的近い位置にロランがあるのだろう。
おまけに、ロラン方面とだけしか書かれていないわけだから、正確に位置が把握できるわけでもない。
人と同じように思考するということは、不意をついてくることだって十分に有り得る。
いつ危険に晒されるかも分からない状況で、落ち着いていられるわけがない。
「その内、避難勧告が出るかもしれないな」
「受付に人が殺到してるのも、その手の質問をしてるからだろうね。私も、もう少し詳しく情報が知りたいところなんだけど」
「一旦出るか。もう少ししたら落ち着くかもしれないし、他のことをして待ってた方がいい」
「それもそうだね」
結局、依頼を受けることは無く、その場を後にする。
ふと、来た道と逆の方向に、つい今しがた見かけたような人だかりがあるのが見えて、街のあちこちに張り紙がされているのだろうと予測ができた。
街の空気は、相変わらず沈んだままだ。




