第56話 アルノエル
およそ19年前のこと。
とある貴族の家に、一人の男児が生まれた。
名前は、アルノエル・レストレス。
魔法師の一族としても有名な、レストレス家に生まれた三男坊。
生まれてすぐの彼を優しく抱きしめたのは、実の母ではなく、世話役として宛てがわれた乳母であった。
───悲しいかな、実の両親にしてみれば、彼の存在はさしたる興味も湧かぬ、言わばどうでもいい子供でしかなかった。
子供が生まれ、性別が男だと分かるや否や、乳母や使用人達に一切合切を押し付け、まともに抱こうとすらしなかったのである。
彼の両親は、貴族としての立場を守ることが何より大事な人達で、彼らにとって子供は政治の道具でしかない。
既に長男がいて、次男もいるこの状況で、彼らが欲しかったのは娘であり、男の子供ではなかったのだ。
そんな状況で、親の愛をまともに受けられる訳もなく、彼は一日のほとんどを乳母と二人きりで過ごし続けた。
それだけで、彼の人生は寂しいものであったと言えよう。
親の期待を一身に受ける五つ上の兄と、兄と常に比べられながら生きる四つ上の兄が、果たして幸せであったかは分からないが、アルノエルもまた幸せな人生を歩んでいたかと聞かれれば、首を縦に振ることは難しい。
───それでもまだ、先に起こる不幸に比べればまともな環境だったのだと、彼は後に気付かされる。
事件が起きたのは、三歳を迎えた翌日のこと。
彼が初めて、魔法の訓練を受けた日。
レストレス家の一員として、二人の兄が受けているように、彼もまた魔法の訓練を受けることになる───はずだった。
しかしながら、そうはならなかった。
初めての訓練で、彼は一度も魔法を発動することが出来なかったからである。
魔法師の一族に生まれた者として、魔法が使えないという事実は、己の死すら意味するほどの憫然たる出来事だ。
ただでさえ親に必要とされなかったアルノエルは、その日を境に誰からもいない者として扱われるようになった。
必要最低限の世話しかされず、唯一家族と共に過ごした食事も一人で取るようになり、貴族としての体裁を守るために、レストレス家の敷地から出ることは一切許されない軟禁生活を送り続けた。
唯一の救いは、彼が人としての心を無くさずに済んだことに他ならない。
結局彼は、15の誕生日を迎えると共に家を飛び出し、家族との縁を切った。
成人して初めて、本当の自由を得ることができた瞬間である。
♢
「何で、魔法師と関係あるって分かったんだ?」
ばれたものはしょうがないと、観念したように事情を話し始めた彼は、大まかに説明し終える頃には、意外にも穏やかな顔付きをしていた。
憑き物が落ちたような、すっきりとした様子で、今までで一番柔和な表情をしている。
悩み事は、誰かに打ち明ける事で気が晴れることもあるというが、彼もまた、凝り固まっていた心がすこしばかり解れたのかもしれない。
「私が、剣士になった理由について尋ねた時の、貴方の怒り方が不自然だと思ったんです。使えないからといって、何もおかしいことは無いはずなのに、どうしてそこまで気にするのかなと。使えないことがコンプレックスで、使える人に恨みを持つような状況を考えた時に、もし魔法師の家に生まれたとしたらって考えが浮かんできて、丁度それが正解だったんです」
「ふうん……なるほどな。誰かにばれたのも、事情を話したのもシオンが初めてだよ」
その言葉に、少しだけ驚いた。
あれだけ忌み嫌われていたのに、誰にも話したことがないほどの過去を話してくれたこともそうだし、何より。
初めて名前を呼ばれた。
これから先も、仲良くなることなどないだろうと思っていたのに。
「私が聞いてもよかったんですか?」
「いいから話してるんだろ。それに……言ってよかったよ。ずっと、辛い記憶だと思って心の内に仕舞ってたけど、話してみたら案外すっきりできたし。シオンが、変に憐れんだりしないで黙って聞いててくれたから、客観的に見つめ直せたっていうか」
彼の態度は、もはや別人のようだった。
今日一日で、まさかここまで変わってしまうとは驚きだが、それだけ彼にとって良いきっかけにはなったようである。
おそらく、今までは、ずっと心の内に仕舞ってきたせいか、辛いという感情に縛られすぎていたのだろう。
だからこそ、辛くて苦しい思いをする羽目になったきっかけが許せなくて、周りにもきつく当たってしまった。
実際問題として、根本的原因が解決したわけではないが、客観的に見つめることで、過去の出来事として割り切ることができたというわけである。
「気分が楽になったなら、良かった」
そういうと、彼は初めて、ふわりと笑った。
とても、優しい笑顔だと思った。




