第55話 トラウマ
この世で最も恐ろしいことは、己の無知である。
だからこそ、理解することが何よりも大事で。
知らずにいるより、知って後悔する方が、遥かに傷は浅い。
───そして、その事実を知る頃には、私の心は錆び切っていた。
「お前も、苦労してきたのか」
「そうですねえ。たぶん、貴方が考えているよりは遥かに苦労してると思います。今更、それをどうこう言うつもりはないですけど」
「……恨みたくはならないのか?」
「無力な自分のことなら、何度も恨みましたね。でもそれも、昔のことです」
誰かを恨んで、気を紛らわすような虚しさは、とうの昔に捨てた。
己の一部が枯れ果てようと、復讐のためだけに生きるより、割り切って考える方がよっぽど人間らしく生きられるからだ。
勿論、誰もが皆そうとは限らないし、簡単に気持ちを切り替えられるものでもない。
それは、自分でもよく分かっている。
だから私は、彼を責めたりはしない。
これから先、あからさまな態度を再び取られたとしても、今日よりは寛容に受け止められるだろう。
「人としては、貴方の反応の方が普通なんでしょうけど、少しばかり素直すぎですよね。世渡りめちゃくちゃ下手そうです」
「余計なお世話だ。いつもこんな態度でいるわけじゃない」
それはそうだろう。
そんなことをしていたら、真っ先に冒険者の資格を剥奪されると思う。
「そういえば、関係ない話ですけど、貴方の職業は剣士ですよね?今日会った時に、剣を持っていましたし」
「そうだが。それがどうした?」
「やっぱり、魔法が嫌いだから、その職業にしたんですか?」
「───何故そんなことを聞く」
空気がひやりとした。
彼の表情は険しい。
苛立った、などという生易しいものではなく、何度も向けられたことのある、殺意にも近いようなあの恨みがましい目付き。
その時、私ははっとする。
今、私、偏見でものを聞いていなかったか?
前世、私が生きていた時代には、魔法は完全に普及して、使えて当たり前の代物だった。
しかしながら、この世界では誰もが魔法を扱えるわけではない。
使えることを前提としたような物言いは、使えない人からすれば鼻につく言動だろう。
安易に考えすぎた。
今のは、完全に私が悪い。
「ごめんなさい。生理的に受け付けないという話を聞いたから、つい安直な考えで聞いてしまったんです」
「……なら、構わない」
そう言って、彼は怒りを沈めた。
己の浅はかさは反省すべきところだが、今の態度を見て一つ気になることができた。
気に障る言動をしたのは確かだ。
しかしながら、普通、ここまで怒りを露にするものだろうか。
言い訳のためではなく、純粋に、魔法が使えないことそのものが、己の価値を著しく貶める理由になるとは思えないからだ。
ここが地球ならば、話はまだ分かる。
自身も経験した通り、使えることが当たり前の世界において、そうでない人間は“異常である”と判断されるからだ。
しかし、この世界はそうではない。
使えれば御の字というだけの話で、自身に魔法の才能が無くとも普通に生きられる。
人によっては、妬ましい気持ちが芽生えることも勿論あるけれど、ここまで人を恨むことなどそうあるまい。
他人に裕福さを自慢されたところで、大抵の人間はいちいち相手に突っかかったりなどしないだろう。それと同じことなのだ。
───でも、彼はそうしなかった。
そう出来なかった、と言った方が正しいに違いない。
そして、出来なかった理由にこそ、彼が魔法を嫌う理由が隠されていたのだ。
コンプレックス。トラウマ。
この世界において、魔法が使えないという事実が、精神的負担になりうる可能性。
その事実を他人に許してもらえない環境。
「───魔法師」
ふと、一つの可能性に行き着いた。
そしてそれは、見当違いではないのだとすぐに分かる。
私の呟きに、彼はいち早く反応し、目を見開いてこちらを見たからだ。
怒りというよりは───怯えたような。
そんな表情をしていたからだ。




