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勿忘草   作者: 葉方萌生
9/13

9.母親

「さ、桜田いるか!?」

 時衣と凉が別れてから1週間が経った夜、時衣のクラスの担任である佐々木が血相をかえて時衣の病室に飛び込んできた。時衣はこの時いつものように退屈しのぎの読書に耽っていたのだが、佐々木のあまりの慌てっぷりにただ事ではないと察し顔を上げた。

「どうしたんですか先生、こんな面会時間ぎりぎりにいらっしゃるなんて」

「お前、聞いてないのか!」

「聞くって何を…?」

「そ、そうだよな。聞いてないよな。あのな、実はさっき…」

 佐々木が話すことは時衣にとって半ば信じられないことだった。

 凉が、私ともう一度話すために坂上病院に来ようとしていたこと。

 その途中、自転車で坂を下っていた時に車にはねられてしまったこと。

「凉が…事故に…?」

「ああ。幸い左腕を骨折しただけで命に別状はないそうだが…。頭を打っらしく精密検査をしたそうだ。今ちょうど検査が終わったばっかりで病室で眠っている…というより、意識を失っている。もうじき意識が戻ると医者は言っていた。この病院の、B棟にいるそうだ。桜田、早く行ってやれ」

「B棟に…凉が…」

 時衣が入院しているのはA棟。主に重病を患って長期入院している人が多くいる棟だ。凉がいるというB棟は、比較的軽い病気の人が入院している。だから佐々木からB棟と聞いた時、時衣は少しだけほっとしていた。でも、車にはねられたというのならどんなに軽傷で済んだとしても心配だった。

「そうだ。だから早く行くんだ」

「でも、もうすぐ面会時間終わりですし…」

 坂上病院の面会時間は午後8時までとされているが、今すでに午後7時50分。どう見たってタイムオーバーだ。

「時間のことなら大丈夫だ、今からすぐに神崎のところに行って俺だけ先に帰る。お前はこっそり残っておけばいい」

「そんなの許されないです。病室を抜け出すなんて…。9時には先生がここに様子見に来るのに…」

「そんなこと言っている場合じゃないだろう。ほら、早く」

「で、でも…。私はもう凉とは関係ないです…。もう、何もないんです」

 時衣は病室を抜け出して凉のところに行くのにどうしても躊躇ってしまう。自分はもう凉の恋人でもないのに、そこまでして会いに行くべきなのか。まして自分から別れを告げたのに…。

「桜田、神崎はもう一度お前と話したくて病院に行くつもりだったんだぞ。あいつはあいつなりに悩んでそう決心したんだ。お前のために、まだやるべきことがあると思ったんだろう。桜田だって、神崎からたくさんのものを受け取ってきただろう?そんなやつを見捨てるのか」

「凉が…私のために…?」

「ああそうだ。だからお前も、あいつの気持ちを汲み取ってやるべきじゃないか。例え恋人じゃなくても、大事なクラスメイトだろう」

「クラスメイト…」

 時衣にとって、クラスメイトなんてただ競争するためだけにいる赤の他人だった。競争して、順位をつけて、時には自分を恨む人もいて。だからずっとクラスに友達とか、信頼できる人はいなかった。

 だけど…神崎凉は違った。

 凉は自分に興味を持ち、自分に近づいてきてくれた。

 そして、大切な時間をたくさんくれた。忘れたくない思い出も、初めての気持ちも全部くれた。そんな彼を、自分は見捨てるのか?自分のためにここまでしてくれた人の気持ちを、蔑ろにしてしまうのか?

「そんなの…」

 嫌に決まってる。

「分かってるんだろう。あいつはお前にとって大切なクラスメイトだ。そしてお前も神崎も、俺にとっては可愛い生徒だ。それに、病室抜け出すなんて、先生は何度もしたことあるぞ。特に子供の時1週間入院するだけでも退屈でよく病院から抜け出してたなぁ。後でこっぴどく叱られたけどな」

 そう言って佐々木は二カッと歯を見せて笑った。それから「ほら」と言って脇に置いてあった車椅子に手をかけた。

「行くぞ」

「は、はい!」

 時衣は佐々木が押す車椅子に乗り、病室から抜け出した。

 A棟とB棟をつなぐ長い渡り廊下を過ぎると一気に病院内は騒がしくなった。B棟はA棟と比べ重病患者が少なく、人の行き来も激しい。A棟を漂う空気はいつも重くて、多分B棟や外からやってくる人がA棟に来るとやけに静かだと感じるだろう。

「ここだ」

 佐々木は時衣を「神崎凉」という名前の書かれた部屋まで連れてくるとそっと扉を開いて時衣の乗る車椅子を押した。

 病室の中で、1週間前別れ話をして以来顔を合わせていなかった凉がベッドに横たわっていた。いつもなら凉が自分を見舞う側だったのに、反対になってしまう日が来るとは時衣も思ってもいなかった。

 そして、ベッドの横には40代ぐらいの女性が静かに立っていた。その風貌からおそらく凉の母親だと時衣は思った。

「先生…ご無沙汰しております」

 凉の母親は入ってきた佐々木に深く頭を下げた。

「神崎さん、この度は神崎君にこのような怪我をさせてしまい申し訳ございません」

 佐々木が担任として生徒に注意が行き届いていなかったと頭を下げると、凉の母親は慌てて首を横に振った。

「せ、先生、やめてください。今日の事故が先生のせいじゃないことくらい知っています。きっとこの子の不注意で起きた事故なんでしょう。命も助かりましたし、怪我で済んで良かったですよ」

「そういっていただけるとこちらも助かります…」

 それから凉の母親は時衣の存在に気づいた様子で佐々木に訊いた。

「あの…そちらの方は」

「ああ。桜田は私のクラスの生徒でして。神崎君のクラスメイトです」

 時衣は佐々木に紹介されて母親に一礼した。

「はじめまして。桜田時衣といいます。りょ、神崎君にはいつもお世話になっています」

「あら、あなたが時衣ちゃん…?」

「え?あ、はい。そうですけれど…」

「そう。凉が、あなたのこと時々話していたの。桜田さんって子がとっても成績が良くて負けないように勉強するって言うのよ。あなたのことだったのね」

 凉の母親は優しく笑って「凉のことこれからもよろしくね」とだけ言った。時衣の来ている病衣や、乗っている車椅子には一切言及しなかった。

「神崎さん、そろそろ面会時間終わるので出ましょう」

「あら、そうでしたわ。じゃあね、凉。お母さん、また明日来るからちゃんと起きなさいよ」

「桜田、あとは頼んだぞ」

「は、はい」

 佐々木は約束通り時衣を残して母親と病室を出た。

 時衣は自分で車椅子の車輪に手をかけ、凉の眠るベッドの側まで進んだ。凉は、左腕と頭に包帯を巻いた状態で横たわっていた。

「変ね…いつもと逆だなんて」

 1週間前までは時衣が今の凉のようにベッドにいて、凉はいつも側に置いてある椅子に座っていた。それが、今日は全く逆の立場になっているのだ。

「凉…ごめんなさい」

 時衣は誰もいない病室でそっと呟いた。その言葉に返事をする人はおらず、ただただ凉の息をする音だけが部屋中に響いていた。

 それからしばらく眠っている凉の手を握りながらぼんやりと今までのことを思い出して、これからのことも考えていたが、途中で急に眠気に襲われてそのままベッドに顔をうずめて寝てしまった。


つづく

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