10. 願い
「ぅ…」
目を覚ますと視界に入ってきたのは白い天井。鼻をつく薬品の匂いに気づいて首を少しだけ傾けると、そこは白い壁に囲まれた病室だと分かった。
けれど自分がなぜ病院のベッドに寝かされているのかよく思い出せない。
「いっ…」
ずっと眠っていたせいか頭が痛い。手を動かそうと思っても左手には包帯が巻かれているし、右手は何だか重たくて動かない。
そうだ…俺、確か病院に行こうとして車にぶつかったんだ…。
自分が車にはねられて体が宙に舞った瞬間を思い出して、背筋がゾクリとした。でもそれよりも、大事なことを忘れている。そう、俺が事故に遭う前しようとしていたこと。
「と、時衣は…あ…」
俺は彼女が、自分のベッドに顔をうずめてすーすーと寝息を立てていることに気づき驚く。彼女の左手はしっかりと自分右手のに繋がれていた。
「時衣…」
なぜ彼女が自分の隣で眠っているのか分からない。でも、彼女の頬に涙の筋が見えたことで、彼女が自分を心配してくれていたことが分かった。それに何より繋がれた手が、彼女の気持ちを表していた。
「…ぅ…りょう…」
俺が彼女をじっと見ていると、彼女はゆっくりと目を開けた。
「りょ、凉…!」
彼女は自分を見ていた俺に驚いて、目を丸くして俺の名前を呼んだ。
「おはよう、時衣」
俺のいつもと変わらない挨拶を聞いて、彼女はなぜかポロポロと涙を零す。
「って、なんで泣いてんだよ。まるで俺がいじめてるみたいじゃねーか」
俺がそう言っても彼女は大きな瞳で俺を見つめながらただただ涙を流していた。そうしてようやく気が済んだのか、今度は両手でぎゅっと俺の右手を握って、
「ばか…」
とだけ呟いた。彼女はそれ以上は何も言わず、黙って車椅子の車輪に手をかけて、「先生呼んでくる」と部屋を出ていった。俺は病気の彼女に世話をかけていることが情けなかったが、彼女が1週間前と変わっていないことに安堵していた。
彼女が部屋を出てから10分後、看護婦や医者が病室に入ってあれこれ俺に質問する。俺の記憶が確かかどうかを確かめているのだろう。ただそこに、車椅子の彼女がいないことが少しだけ残念に思われた。
事故に遭ってから俺は念のため1週間入院していた。その間担任の佐々木先生や尾木が見舞いに来てくれたが、彼女は1度も俺の前に姿を見せなかった。
彼女の身に何かあったのだろうかと心配になったが、入院中はどうすることもできなかった。
そして1週間後、俺は無事に坂上病院を退院した。退院するとすぐに彼女のいるA棟に向かった。
「時衣!」
もう何度見たかわからない、「桜田時衣」と書かれたプレートがまだそこにあることに安心しながらも、勢いよく彼女の病室の扉を開け放った。
「凉?ど、どうしたの、そんなに慌てて」
「どうしたのってお前…この1週間全然顔も見れなかったから」
「ごめんなさい…この前病室を抜け出して先生に叱られて…。だからずっと部屋から出られなかったの」
「そ、そうだったのか…」
病室を抜け出したというのは、俺が事故に遭った日のことか。それならば謝らなきゃいけないのは自分の方だ。いや、それだけじゃない。彼女にはたくさん謝らないといけないことがある。
「時衣…この間はごめんな。俺、お前に別れようって言われて、お前のこと信じられなくなってたんだ…。お前は俺を必要としてないんだって思った。だから何もしなかったんだ。でも、本当は違ったんだな」
「凉…」
「お前は…本当は俺と別れることなんて望んでないんだろう…?だったら別れる必要なんてないじゃないか。確かに最初は1か月だけの約束だったかもしれない。でも、俺はお前と過ごした1か月で、本当に大切なもの見つけたんだ」
「……」
「俺は…この先自分の何を失っても、お前だけは失いたくない。絶対に」
届くだろうか。
俺と出会う前、ずっと遠くの手の届かない場所にいた彼女に。
今なら、届くのか。
「私を…」
彼女は眉根を下げ、潤んだ目でこちらを見つめる。
俺は彼女の次の言葉をじっと待った。
「私を…許してくれるの…」
あぁ、お前も俺と同じだったんだな。
悪いのは自分だって思って、自分を苦しめていたんだな。
「許すとか許さないじゃない。俺がお前と一緒にいたいだけだ。だからお前は黙って頷けばいい。ずっと、俺の側にいてくれ」
「うん…」
彼女に自分の気持ちが届いたことが嬉しくて。俺はゆっくりと彼女のもとに歩み寄り、右手で彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
2週間前、彼女の言葉に耳を疑って彼女を置き去りにした。彼女の本心はその言葉のどこにもなかったのに、それに気づかずに何もできなかった。だけどこれからは絶対に彼女の気持ちを逃さない。
ずっとずっと寄り添って、並んで歩き続けるんだ。
「ねぇ凉…」
「ん?」
彼女は真っ直ぐなまなざしを俺に向けてそれから大きな決意を口にした。
「私、手術受けるわ」
「え…」
手術…成功率5%。
彼女はそれを受けると言った。
そう決意するのに、どれだけの勇気がいっただろう。俺には推し量ることもできない。
「ちょっとでも助かる可能性があるなら、私はその可能性にかけてみたい。お母さんみたいに何もせずに死んだりしない。私は…これからもあなたと生きたい」
生きたい
生きたい
生きたい
彼女の切なる願いが、俺の心にまっすぐと突き刺さる。
「生きよう…俺と、一緒に」
俺はたまらなくなって、右手だけで彼女を抱きしめた。伝わってくる彼女の体温が、彼女がちゃんと生きていることを教えてくれる。
それから彼女は俺の腕の中でこう言った。
「言い忘れてた。凉、退院おめでとう」
つづく




