8. 君に会いに
「私と別れましょう」
彼女から当然そう言われた俺は唖然としてしばらく言葉が出てこなかった。彼女は先程まで俺の左手に添えていた右手を胸に当てて深刻な表情をしていた。
「別れって、なんで…」
ようやく口を開くことができたものの、そんな陳腐な言葉しか出てこない。それほど彼女の言葉が衝撃的で、理解できなかった。
「凉、最初に言ったよね。1か月だけ私と付き合わないかって。今日でもう1か月でしょ。約束は守らないと」
彼女は淡々とそう言った。まるで最初からそのつもりだったかのように。
「それは、そうだけどっ…。でも、そんなのお前が俺を引き止めるために言った口実だろう…?1か月だけなら付き合ってくれるって思って言っただけだろう?」
「口実なんかじゃ、ないわ」
「じゃあどうして」
「忘れたの?私、1か月しか生きられないって言われてたのよ。だから凉にも1か月だけって言ったの」
「で、でもそれなら尚更じゃないか!1か月しか生きられないって言われたけどお前は今生きてるんだ。だったらこのままずっとそばにいて悪いのか!?それにお前は」
私、凉と結婚する。
って言ったじゃないか。あの言葉は嘘だったのか…?
「それは…その時の私が思いつきで言っちゃったんだわ。凉に背負わせる気なんてないの…ごめんなさい」
「そんな…」
それから俺がどんなに必死に訴えても、時衣は首を縦に振らなかった。
やっと…やっと彼女と心を通わせることができたのに。
やっと彼女がたくさん笑ってくれるようになったのに。
必死になって机にかじりついて放課後は部活に明け暮れるだけじゃない日常を知ることができたのに。
その全てがなかったかのようにガタガタと音を立てて崩れ落ちてゆくようで。
俺はなす術もなくその場を去ることしかできなかった。
扉を閉めた時、
「…ごめんね」
と呟く彼女の声が聞こえたような気がした。
「失礼します」
時衣の主治医である山本は凉が去った後時衣の病室を訪れた。
「山本先生…」
時衣は山本が入ってきたのに気づいてごしごしと一生懸命目を擦った。時衣の目は充血して赤くなっており、瞼がすこし腫れていた。
「時衣ちゃん、大丈夫かい」
「え、えぇ。大丈夫です…」
「彼と何かあったのか?」
長年面倒を見てきた山本には時衣が嘘をついていることくらいお見通しだった。
「ちょっと喧嘩しちゃって…」
「別れたのか」
「ふふっ。先生にはバレバレですね。はい、別れちゃいました」
時衣は力なく笑って冗談っぽくそう言った。
「何も別れることもないと思うんだが…。やはり私がこの間あんなことを言ったからか…?」
山本は数日前に時衣に告げたことを思い出して責任を感じた。
先月倒れてから時衣の余命はもともと残り一か月だった。しかし何事もなく1か月が経とうとしていた矢先の検査で病状がさらに悪化していることが分かったのだ。そのことを時衣に告げたのが数日前で、案の定今日の昼に時衣は発作を起こしてしまった。
「いや、先生は真実を言っただけじゃないですか。なんにも言われずに早死にする方が嫌です」
それに、と時衣が続ける。
「彼とは…もともとこうなる運命だったんです」
そう言う時衣はどこか寂し気で、見ている方が辛いぐらいだった。
「それは…諦めかい?」
「いえ、けじめです」
真っ直ぐな声でそう言う彼女の手は布団の上でぎゅっと握られていて、きっとそのまま握っていたら血が出るんじゃないかってぐらい必死にグーをつくっていた。
「そうかい。時衣ちゃん、先生は諦めないから君も諦めないで。…て、何度も言ったから聞き飽きたよね。でも、それぐらい」
「分かってますよ」
時衣は握っていた手を緩めて寂しそうに笑った。
「私はいつだって、先生を信じていますから」
時衣を助けたい。何としてでも普通の日常にかえしたい。検査結果が例え無理だと言っても。彼女がもし諦めてしまったとしても。
「また明日、様子見に来るよ」
あの日、時衣が発作で集中治療室に入れられた日、俺は時衣と別れた。別れてから今日で1週間が経つのに、頭の中は彼女のことばかりで授業は何も頭に入ってこない。
たった1か月、一緒にいただけなのに。
1か月なんて俺が努力し続けてきた数年に比べたらちっぽけな時間なのに。
それなのに…そのたった1か月が、自分にとっては大切な時間だったのだと、この時ようやく気づいた。
「遅いっつーの…」
彼女と出会うのも、彼女を好きになるのも、どれだけ大切だったか気づくのも、全てが遅すぎた。誰かを大切に思うことがこんなに痛くて幸せだということを俺は知らなかったんだ―…。
「神崎」
放課後、見るからに落ち込んでいる俺に佐々木先生が声をかけてきた。
「佐々木…先生」
先生は俺の真正面に立ち、心配そうに俺を見下ろしていた。
「神崎、お前大丈夫か?ここ1週間ずっと心ここにあらずだぞ。何かあったか?」
佐々木先生は俺と時衣の間に起こったことを知らない。時衣が発作を起こした次の日少し話しはしたが時衣の身体のことだけだったと思う。
「先生…俺、どうしたら…」
俺が突然我を忘れたように震え出したので佐々木先生も何かあったのだと察してくれたようで、「教室出るか」と言って人気のない空き教室まで連れて行ってくれた。
「で、どうした。何があったんだ」
真面目な声でそう訊いてくる佐々木先生に、俺はすべてを話した。
時衣との出会いから別れまで、嘘偽りなく話す。本来なら教師に話すようなことでもないことまで吐き出した。けれど、自然と恥ずかしいという気持ちは湧いてこなかった。ただ親身になって話を聞いてくれる先生の様子を見て安心していた。
「というわけで…何にも集中できないんです。俺、こんな気持ちになったの初めてで…どうしたらいいか分からないんです…」
「なるほどな…。色々大変だったな。でもな、神崎。分からないのはお前だけじゃないと思うぞ」
「俺だけじゃない…?」
「そうだ。桜田だって、お前と同じようにどうしたらいいのか分からないのかもしれない」
「どうしてそんなこと言えるんですか。付き合おうってい言ったのも時衣で、別れようって言ったのも時衣で…。あいつはいっつも俺のずっと前を歩いてて、俺は全然追いつけないんですっ!あいつが何を思って何を決めてるのか、俺には全然分からないんです!!」
感情的になった俺は佐々木先生に向かってつい大声を出してしまう。でも、それほど彼女を分かりたくて、分からなくて溺れそうになっているんだ…。
「神崎、一つ言ってなかったことがある」
感情をぶちまける自分とは対照的に、先生は冷静な面持ちでそう言った。
「何ですか」
「この間…桜田が発作を起こしたとき、先生は桜田の主治医に話を聞いてきた」
そういえば俺を一人病室に残して医者のところに行くと言っていたな。
「そこで山本という医師が言っていたんだが…桜田の病状が、発作の数日前から悪化していたそうだ。そして、次また発作が起こったら桜田は……」
「そんな…」
先生はその先を言わなかったが、俺には分かった。
つまり、次に発作が起これば彼女は死んでしまう。
それほどまでに彼女の命の灯は小さくなっていたんだ。
彼女は1か月の壁を乗り越えて元気になってゆくと思っていたのに。そんなのは俺の思い込みで、彼女はきついのを必死に隠していたんだ…。
「だから…だから神崎、桜田がどれほど辛いか分かるか?お前だって辛いだろう。でも、本当に進む道を迷って、苦しんで、選んで、もがいているのは桜田自身じゃないのか…?それなのにお前がこんなふうに挫けてばかりでいいのか。お前が手を引いてやらなくていいのか。彼女だって、きっとお前の前を歩きたいなんて思ってない。お前と並んで歩きたいんじゃないのか!!」
先生の、喝をいれるような言葉に、俺はなにかがはじけたように突き動かされる。
時衣は…本当は俺と…並んで…。
私、凉と結婚する
あの言葉は嘘じゃない。
きっと彼女は今でもそう思ってくれている。
俺はそう信じなければいけなかったんじゃないのか…!!
「俺、病院に行きます。彼女に会いに行きます」
「そうしろ、神崎」
俺はまだ、大切なものを失くしてはいない。同じ時、同じ時間の中でその人はちゃんと息をしている。生きているんだ。
だから俺が手を引かなければならない。先生がそう教えてくれた。
俺は先生に礼をすると一目散に校舎から出て自転車にまたがった。病院までは坂が多くて自転車で行くのは少し大変だが、今はもうそれどころではなかった。
長い上り坂を必死にこいで、下り坂にさしかかる。上り坂で時間をくった分、下り坂に入ると俺は一気にペダルをこぐ足に力を入れた。
と、その時だった。
ブブーッ!!
すさまじいクラクションと共に、俺は自分の体が宙を舞っているのが分かった。はねられた自転車がぺしゃんこにつぶれて、俺は目の前が真っ暗になった。
つづく




