12. 私を―
「よし、大丈夫そうだ」
クラスメイト達が見舞いに来た日の夜、主治医の山本が時衣の部屋を訪れた。明日の手術に備えて時衣の健康の最終チェックを行うためだった。
「時衣ちゃん、明日は不安もあるだろうけど私たちを信じて、一緒に頑張ろう」
「はい」
検査が終わると山本はできるだけ早く病室から出ることにした。手術前なので今日は時衣にゆっくり休ませようと思ったのだ。
しかし、検査終了後時衣が山本を呼び止めた。
「山本先生、ちょっとお願いがあります」
時衣はそう言って山本にあることを頼んだ。
「それぐらいなら、全然構わないよ」
山本も時衣の頼みを快く引き受ける。時衣とは長い付き合いなので、彼女の考えることは大体分かっていた。
「そうそう、時衣ちゃん。その千羽鶴素敵だね」
「えぇ…友達が、作ってくれたんです」
時衣が頬を染めてに微笑んでいる様子を見て、山本は明日の手術を必ず成功させることを心に誓った。
手術当日、俺は一人で時衣の病室を訪れた。昨日はクラスメイトが一緒にお見舞いに来てくれて時衣も嬉しかったと思う。でも今日は、二人でゆっくり話がしたかった。
病室に着いたのは手術の2時間前だった。俺は包帯の巻かれた左手を使わずに右手で扉を開け、右手で椅子をベッドの傍らに置いた。そうすることにもう慣れてしまっていた。
時衣はいつもみたいにベッドから起き上がらずに寝そべったままだった。聞くと注射をした後だから安静にすように言われているそうだ。
「おはよう、凉」
時衣は寝そべったままだけれどいつものように俺に挨拶した。時衣と付き合い始めてから、俺が登校前にここに訪れることが当たり前になったが、彼女が挨拶を忘れたことなんてなかった。
「おう。調子はどうだ?」
「うん、大丈夫。ちょっとボーっとするけど、多分注射のせいだわ」
「そうか、それならいいんだけどな」
俺はベッドの側のブラインドが下りていることに気づいて立ち上がってそれを上げた。
「今日はいい天気だな」
雲一つない青々とした空が、時衣の手術の成功を予感させてくれる。窓を少しだけ開けると、気持ちの良い風が吹いてきて俺や寝ている時衣の前髪をさらっと揺らす。
「本当ね。きっとお天道様も応援してくれてるんだわ」
「そうだな。手術、絶対上手くいくよ」
こういう時――不安な時、時衣は絶対弱音を吐かない。本当は不安でたまらなくても、全然大丈夫というように笑っている。多分今も、心の中では手術が上手くいくかどうか心配している。
だからこそ俺は、彼女の不安が少しでも和らぐように彼女を励まさなければならない。
「凉、ありがとね」
「何だよ、突然」
「ううん。言ってみただけ」
「何だそりゃ」
時衣はもう、出会った頃の時衣じゃない。以前はあんなにぶっきらぼうな話し方をしていたのに、今ではとても素直に話てくれるようになった。彼女との心の距離が日々近づいてゆくのを感じて、俺の心も満たされていった。
「あのね、凉――」
多分自分も、彼女と同じだった。
目の前の順位ばかり気にして毎日勉強していた。クラスメイトは友達だけど、本当は競い合う”敵”としか見ていなかったんだ。こんなふうに、互いに想いあって励まし合って上っていくことができるなんて知らなかった。
「っ…うぅっ…」
だから彼女がベッドの上で胸を押さえて苦しみ始めた時、俺は残酷な現実を呪いたくなった。
「と、時衣…?」
「あ…ぅ…」
発作だった。あの日、時衣と出会って間もない頃、放課後の教室で彼女が急に胸を押さえて苦しみ出した時と全く同じだった。
「だ、大丈夫か!?時衣っ…!」
「…りょ、う…」
俺はパニックになりながらも必死にナースコールのボタンを押した。
医者が来るまで、いつか佐々木先生が言っていたことを思い出していた。
――次また発作が起こったら桜田は……
嫌だ、嫌だ嫌だ。
時衣はもうすぐ手術を受けるんだ。手術は成功して、元気になってまた学校に来る。だから絶対、時衣を連れて行かないでくれ…!!
「と、時衣、大丈夫だ、すぐに医者が来てくれる。そうしたらお前は」
「…りょ、う………………き」
彼女が、力なく笑って何かを口にした。その後彼女の瞼がゆっくりと閉じてゆくのを俺は見ていた。
「桜田さん、どうしましたか!」
ベッドの上に横たわる彼女と、隣で呆然と立ち尽くす俺を見た途端、病室にやって来た看護婦の顔が蒼白になり、
「せ、先生呼んできます……!」
と慌てて出ていった。
ものの1分も経たずにドタドタと数人の医者や看護婦が駆けつけて来て、
「君、どきなさいっ!!」
一人の医者が俺を病室から押し出して扉を閉めた。扉が閉まった後も、俺はその場を離れることができずに放心状態のまま「桜田時衣」と書かれたネームプレートをぼんやりと見つめていた。
時間が過ぎるのはあっという間で、彼女がこの世を去ってから1か月が経とうとしていた。左手の包帯がすっかり取れた俺は彼女が亡くなってから初めて坂上病院を訪れた。
桜田時衣の葬式にはクラスメイト全員が参列した。会場で佐々木先生は俺の肩に黙って手を置いて眉根を寄せて俺を見つめていた。きっと元気を出せと言っているのだろう。
おばあさんが亡くなってから時衣の保護者は伯父夫婦だったようで、喪主はその伯父だった。俺は時衣の遺影の前で手を合わせて伯父夫婦に深く礼をした。彼らはきっと自分のことを知らないだろうが、家で時衣を支えてくれたことを俺は感謝したかった。
病院の受付で名前を告げて彼女のいたA棟に向かう。もう彼女の名前のない病室の前で俺は大きく息を吸ってゆっくりと扉を開けた。
「失礼します」
病室には誰もいなかった。彼女がいなくなった後、まだ新しい患者もここには入ってきていないようだった。
その方がいい。A棟の病室なんて、来ないに越したことはないのだから。
俺は病室の窓を開け、しばらく吹いてくる風を受けて涼んでいた。
確かあの日も今日と同じように心地よい風が吹いていたんだっけ。
あの時と違うのは、ベッドの上に彼女がいないということ。たったそれだけのことが俺の胸を突いてはっきりとした痛みを運んでくる。
「時衣……」
俺はお前に何かしてやれたのだろうか。
お前がくれたものを、俺はちゃんと返せたのだろうか。
分からない。だって答えをくれるはずの彼女はもうここにいないのだから…。
「失礼。君、もしかして神崎君かい?」
俺は突然名前を呼ばれて振り返る。
声の主は病室の扉付近に立っていた。白衣を身にまとった男性で、手には名前もしらない一輪の青い花が握られていた。
「あなたは…あの時の」
そう、彼は時衣が発作を起こしたときに俺を部屋から押し出した医者だった。
「私は山本といって時衣ちゃんの主治医をしておりました」
「時衣の主治医…」
「受付で、君が病院に来たと聞いてね。きっとこの部屋に来るだろうと思って急いでやって来たんだ」
そうか、だから彼はここにいるのか。ん、でも何で俺のこと。
「どうして俺のこと知ってるんです?」
俺がそう訊くと山本さんはその質問には答えずに持っていた青い花を俺の手に握らせて言った。
「それは生前時衣ちゃんが君にって私に頼んだものだよ」
「時衣が!?」
まさか彼女が俺にこんなものを残していたなんて思わなかったので、俺は素直に驚いた。
「この花…何の花ですか?」
「勿忘草だよ」
「わすれなぐさ…」
そうか、この花は彼女からメッセージなのか。俺にわすれなぐさを贈るなんて、しおらしいことするんだな、あいつ。
「それから、これも」
山本さんはポケットから封筒を取り出して俺に渡した。
「あ…これ…」
封筒には『神崎凉様』と丁寧な字で書かれていた。
それは間違いなく、彼女の字だった。
「開けてごらん」
山本さんに促され俺は慎重に封を切り、彼女からの手紙を読み始めた。
つづく




