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切り離す力


魔法陣が発動して、最初は指先で試したのと同じくらいの感覚だった。


黒い紋様が皮膚から浮き、細い糸のように光る魔法陣へ引かれていく。

ヴァルガの光が、その糸が戻ろうとする力をゆっくりと押し返していた。


「ユリウス、大丈夫か」

「ああ、全身がチクチクするくらい」


レオンの表情は真剣だ。弱すぎず、強すぎずの力で、ユリウスへかかる負荷を減らそうとしているようだった。


「……どんどん黒い力が、ユリウスさんから離れてます」


ミナの声に、レオンが頷いた。

グレインたちも広間の隅で、その様子を見守っていた。


腕に、元の肌の色が戻っていく。

少しずつ。けれど、今までよりずっと広く。


――本当に、戻れる。


そう思った瞬間。胸の奥が強く引かれた。


「がはっ!」


皮膚を切り裂かれているようだった。

それなのに、痛むのはもっと深い。骨の隙間へ入り込んだものを、無理に引き抜かれている感覚。


剣を握る指が離れそうだった。

身体が勝手にアステリアも、ヴァルガの光も、魔法陣も拒否している。


ユリウスは両手でアステリアを握り直し、息を吐く。

吸おうとすると、胸が引きつった。


「ユリウス、息をしろ!」


すぐ隣で声がする。


「だ、いじょぶ……。止めるなっ」


揺れた銀の光。ユリウスの声に、輝きが戻る。

光が肩から腕へと広がった。身体を覆う黒い力の下へ、少しずつ差し込まれていく。


レオンの額にも汗が浮いていた。


「……待って!」


突然のミナの声に、皆がそちらを向く。

ミナは窓の向こうを見ていた。その顔から、みるみる血の気が退いていく。


「外からも、黒い力が……!」


床に描かれた線が一層強く光り、照らされた黒い影が、その場にいる皆にも見えた。


ユリウスの背が大きく反る。


「が、あっ……!」


抜けていくはずの力が、身体の奥へ流れ込んでいた。


冷たいのか熱いのかわからない。

胸を満たしていく何かが、全身を駆けずり回った。


「うぐっ……」


膝が折れた。

アステリアの切っ先が床を打ち、金の光が点滅する。


「ユリウス!」


レオンの光が、倒れかけた身体を支えた。


「何が起きてる!」

「魔力が、城の外から……!」


リュミエラの頁が激しくめくれた。

ミナは両手で本を押さえ、外へ目を向ける。


城壁の向こう。

荒野から、森から、地面の下から。


幾筋もの黒い流れが、城へ向かって伸びていた。

その全てが、ユリウスを通り、魔法陣へつながっている。


ミナの声がかすれた。


「魔大陸中の力を、引き寄せてる!」



**



広間に残っていた窓が、一斉に砕けた。


吹き込んだ風に砂埃が舞い、壁際にいた神官たちが身を伏せる。

床の上を、黒い霧が這い始めていた。


「ああああっ!」


ユリウスの身体に、消え始めていた紋様が戻る。

角は一層長く伸びていた。


「全員、廊下へ下がれ!」


グレインの声が飛ぶ。


「ユリウス!」


レオンは必死にその名前を呼んだ。


騎士たちが神官を支え、入口へ向かう。

その足元から、細い獣の脚が飛び出した。

グレインの大剣が、這い出しかけた魔物を斬り伏せる。


ユリウスの目が赤く光った。


「ここは俺が押さえる! 儀式に集中しろ!」


レオンには返事をする余裕がなかった。


ヴァルガの光が、内側から押し広げられていく。

外から流れ込む力と、身体から剥がした力。その両方が、ユリウス一人に戻ろうとしていた。



「っ、く……!」


盾を握る腕が軋む。

ユリウスが苦しんでいる。でも、今やめたら――。


「がっ、げほ!」


咳き込んだユリウスの口から、血が落ちる。


「……ユリウス! 返事をしろ!」

「ぅう、がはっ」


ユリウスの手には、まだ聖剣が握られている。

でも、身体は、銀の光を避けるようにもがいていた。


ミナは青白い光を伸ばし、外からくる黒い流れへ触れた。

ユリウスの身体へ入る直前で、黒い糸がたわむ。


「少し、逸らします……!」


流れの一部が、窓の外へ押し戻された。


「ユリウス、約束しただろ……? 一緒に、帰るぞ……!」


ユリウスの肩が落ち、喉から浅い息が漏れる。

ミナは震える手で、リュミエラを握った。


「全部は止められません!でも、これ以上入らないように……」


「レオン……」

「っユリウス!」


ユリウスは、アステリアを握り、必死に立ち上がった。


「全部、やろう……」

「は……?」

「ミナ、外には、あとどれくらい……」


ミナがこちらを見る。


「見えるところ、全部です。まだ、遠くからも集まってきてます」

「それ、引き付けなかったら……また、溜まるんだろ」


ミナは答えられなかった。


魔法陣を見れば、剥がれた力が円の中で渦を巻いている。


ここへ集め、つながりを断ち、消し去る。

そのために、三つの聖具が揃っている。


「全部、消せたら」


三人、顔を見合わせる。


「ユリウス」

「もう、次は、なくなるかもしれない」


レオンが唇を噛んだ。ミナは小さく首を振る。


「分かりません。それに、いまでもこんなに苦しんでいるのに、これ以上入れたら――」


息を吸うだけで、胸が裂けそうだった。

さっきから、身体が勝手に震えている。


怖い。


それでも、外に力を残したら――。


いつかまた聖剣に選ばれる誰かがいる。

国を守りながら、その帰りを待つ誰かがいる。

急に知らない世界へ呼ばれる誰かがいる。


ユリウスは、レオンを見た。


「……俺たちで、最後にしよう」


レオンが息を呑んだ。ミナの目に涙が滲む。

ユリウスはアステリアを強く握り直した。


「ミナ!全部、入れろ!」


声を張った途端、喉から血が上がった。

咳き込み、身体が前へ折れる。

それを、レオンの腕が支えてくれた。ユリウスはその腕を掴み、顔を上げる。



「耐えられるか、分かんないんですよ……!」


ミナの手の中で、リュミエラが震えている。


「大丈夫。全部だ……俺が、切り離す」


レオンの腕に、力がこもった。


「……一人で決めるな」


レオンの手の中で、ヴァルガが強く光った。

銀の光がユリウスの身体に沿って広がり、黒い力を魔法陣へ押し出していく。


「俺が守る。お前は、斬るところまでやれ」


ユリウスはそれを見て、にやりと笑って頷いた。

ミナはそんな二人を見た。それから一度、強く目を閉じる。

本を開きなおす手は、まだ震えていた。


「……一度に入れないように、私の方で流れを絞ります。レオンさん、入った分を順に魔法陣へ。ユリウスさんの中に留めないように!」

「分かった」

「ユリウスさんは、苦しい時は言って!倒れるまで、我慢しないでください!」

「ああ!」


青白い光が、窓の向こうへ伸びる。

押し戻していた黒い流れを、一筋だけ内側へ通した。


次の瞬間、ユリウスの胸へ、冷たいものが突き刺さった。


「――が、ああっ!」


レオンの銀の光が、ユリウスの反り返った身体を支える。

ミナは目を逸らさない。黒い流れの一本も、見失わないように。



**



ユリウスは歯を食いしばった。


「あっ、ぐ……!」


終わりが見えない。息を整えるより先に、次の痛みが来る。

レオンも、ミナも、傍で戦うグレインも、皆疲労の色が見え始めた。


ユリウスの身体が今度は後ろに傾く。

レオンはそれを、ヴァルガの光で支えた。


「ごめ、」

「いい。お前は剣を離すな」


黒い塊から、何本もの腕のようなものが伸びる。

銀の光へ叩きつけられ、衝撃が肩を抜けた。


ガルシオンでは、光を広範囲に広げることを意識していた。

でも今は、針に糸を通すように慎重に。


「……絶対、魔王にはやらねえ」


ヴァルガの光が、強く輝いた。


広がろうとしていた黒い塊が、円の内側へ押し戻される。

その端を青白い光がすくい、中心へと導いていく。


ユリウスの腕から、黒い紋様が浮き始めた。

魔物も、もう生まれなくなっている。


「あと、少しです!」


ミナの額から、汗が落ちた。

頁に並ぶ文字と、目の前を流れる魔力が、何度も重なって見えた。


「ふっ……」


ユリウスは自分の呼吸の音を聞いていた。

喉がひゅうひゅうと鳴る。


身体のどこが痛いのか、もう分からない。


黒い力が入ってきては、剥がされる。

その間も、銀と青の光が自分を包み込むのを必死に見た。


「……これで最後です!」


ミナの声がした。

ユリウスは顔を上げようとしたが、首に力が入らず、少し遅れて目線だけ動く。


窓の向こうから、最後の黒い流れが伸びていた。


「もう、外からは来ていません!」


「っ、あ――!」


全身が強張った。

全身を覆っていた黒い紋様は、ほとんど浮き上がっている。

なのに、胸から伸びる一本だけが、まだ太く、魔法陣の中へとつながっていた。


「ここを、切り離します!」


青白い光が二つの流れの間へ入るが、黒いものだけを引こうとすると、金色の光まで引きつった。


ユリウスの口から、声が漏れる。

ミナはすぐに力を緩めた。


「駄目……引いたら、一緒に――」

「ミナ」


かすれた声が呼んだ。


「引かなくて、いい。場所……教えて」


ミナは瞬きをした。

滲んだ視界を戻し、絡んだ流れを見つめる。


触れている。

けれど、同じものではない。


金色の光をたどり、身体の奥から続く流れを避け、そのすぐ外側へ青白い光を灯した。


「ここです」


レオンの銀の光が、その両側へ入る。


黒いものが暴れた。

ユリウスの胸が引かれ、身体ごと前へ持っていかれそうになる。


「ユリウス」


剣を握り直し、身体を起こす。

ふらつく身体を、ヴァルガの光が支えた。


最後の力を込めて顔を上げる。


レオンの顔が、近くにあった。唇を噛み切ったのか、口元に血が滲んでいる。

ミナも、本を離していない。その手は、ずっと震えていた。


二人が、ここまでつないでくれた。

ユリウスはアステリアを上げた。



「……返せよ」



眠らずに動けた身体。

いくら使っても満ちてくる魔力。

生み出した魔物が、自分を襲わなかった理由。


これを手放せば、その全てがなくなる。


ユリウスは、金色に光る刀身を見た。


なくなっていい。


眠くなったら寝て、腹が減ったら飯を食う。

馬の上で尻が痛いと文句を言って、レオンとくだらないことで競い合う。


帰って、まだ聞いていない言葉を聞く。


――それがいい。


アステリアに魔力を流す。

刃のどこへ、どれだけ流すか、何度も繰り返してきたことだ。


今、必要なのは、一か所だけ。アステリアの光が、刃へ集まった。


「俺が、最後の、勇者だ……!」


剣を振り下ろした。

刃が、黒いものへ食い込む。


全身の内側を引かれ、息が止まった。

剣が跳ね返されそうになる。


「っ、ああああ!」


両手で押し込む。


ミナの青白い光が、斬るべき場所を照らしていた。

レオンの銀の光が、その両側を離さずにいる。


ユリウスは、一歩踏み込んだ。


金の光が走る。

胸から伸びた黒いつながりが、断ち切れた。



**



床に走った金の光が、中心へ集まっていく。


黒い塊から腕が伸びた。

獣の頭が浮かび、口を開く。


その形が崩れるより早く、三つの光が包み込んだ。


広間が大きく震え、壁の亀裂から細かな石が落ちる。

魔法陣の中心から光が噴き上がった。


視界が白く染まる。


「ユリウス!」


聞こえた声に、返事をしようとした。

けれど、息が漏れただけだった。


身体が傾く。

床へ倒れる前に、誰かの腕が背中へ回った。


やがて、広間を揺らしていた音が途切れ、床を満たしていた魔法陣の光が、消えた。



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