光明
本の記述を確かめながら、三人は机についた。
ユリウスが右手を机の上に置くと、隣に座ったレオンが銀の星を取り出す。
ミナはリュミエラを開いたまま、その手元を見つめていた。
「まずは近づけるだけにしましょう。何か変わったら、すぐに言います」
「無理するなよ」
「分かってる」
「痛かったら言え」
「分かってるって」
レオンの手の中で、星が銀に光った。
少しずつ、それが近づいてくる。
まだ触れてもいないのに、ユリウスの指先がぴりぴりと痛み始めた。
「……どうですか」
「ちょっと痛い。でも、まだ平気」
ミナが身を乗り出す。
「指の先から、黒い力が動いてます。星を避けるみたいに」
レオンの手が止まった。
「これ以上、近づけていいのか」
「少しだけ。そのまま、ゆっくり」
ユリウスは息を吐いた。
手を引きたくなるのをこらえ、もう一方の手で机の縁を掴む。
「っ……」
「ユリウス」
「大丈夫、まだ」
レオンはそれ以上星を近づけず、ミナを見た。
「待って。今、離れてます」
ミナの視線が、ユリウスの指先を追う。
「黒い力だけが、浮いて……あ」
ユリウスにも見えた。
皮膚の表面から、細かな黒い粒が浮かび上がっている。
魔物が生まれる時と同じだ。
咄嗟に手を引きかけると、レオンが星を遠ざけた。
痛みが弱まり、浮いていた粒は指先へ吸い込まれるように消えていく。
「今の……」
「戻りました。でも、ここ」
ミナが、ユリウスの手を指さした。
人差し指の先。
爪のすぐ下に、ほんの小さな、黒くないところがあった。
ユリウスは目を近づけた。
擦っても、削ろうとしても、ずっと変わらなかった皮膚。
その一部に、元の肌の色が見えていた。
「……レオン」
隣から伸びた手が、ユリウスの手を支えた。
「ああ。見えてる」
ユリウスは何度も指を曲げ、伸ばした。
痛みはまだ残っている。
それでも、その小さな肌の色から、目を離せなかった。
**
「……とりあえず、一旦騎士団長にも報告しよう」
「俺が斬られないように慎重に報告してくれ」
レオンはユリウスを少し睨み、息をついた。
こういう冗談は好きじゃないみたいだ。
返事の代わりに紙とペンを探し始めると、ミナが鞄から差し出した。
魔王城でユリウスと聖者の聖具を見つけたこと。
ユリウスは魔王の魔力に侵食されているが、本人の意識は保たれていること。
聖具を近づけると黒い力が剥がれ、肌の色が戻ったこと。
レオンは順に紙へ書いていく。
「リュミエラって言うみたいです」
「リュミエラ?」
「この本の名前」
ミナが表紙を撫でた。
「聖剣アステリア、聖盾ヴァルガ、聖書リュミエラか」
「何かすごそうだな! 戦ったらどれが強いんだろうな!」
「お前……」
「私は戦いたくないですよ……ユリウスさん……」
ミナは少し身を引き、本を抱きしめた。
それでも、ユリウスが当たり前のように話しかけてくれることに、ほっとしていた。
聖者として何ができるかだけでなく、自分が何と答えるかを面白がっている。
知らない世界で、こんなふうに冗談を言い合えるとは思わなかった。
「本でどうやって戦うんですか。角で殴るとか?」
「いや、聖具なんだから何かあるだろ!」
思わず笑うと、レオンがむっとした顔でこちらを見た。
「俺も戦う」
「ええ~、レオンさんまで……」
「でも、俺とユリウスが先」
ミナは笑いをこらえながら、抱えていた本をそっと机へ戻した。
話しているうちに、窓から朝の光が差し込んできた。
ユリウスは席を立ち、外へ目を向ける。
崩れた壁の向こうに、青い空が広がっていた。
「やっぱり、お前たちと話せてよかったわ。青い空が目に染みる」
「……何だよ急に」
「ん? そのままの意味だよ」
レオンも立ち上がり、隣に並ぶ。
「戻すからな」
「ああ、期待してる」
二人は報告のため、一度拠点へ戻ることになった。
一晩魔物が生まれなかったこともあり、レオンは一緒に来るよう勧めたが、ユリウスは首を振った。
「もう少し、ここで様子見とく。皆のところへ行くのは、それからだ」
レオンは何か言いかけたものの、ユリウスの手へ目を落として口を閉じた。
「星は置いていってくれ。今度はちゃんと返すから」
手の中の星を、レオンが机へ置く。
「明日も来る」
「分かってる。もう逃げねえよ」
ユリウスが笑う。
レオンはその顔を確かめてから、ミナと共に部屋を出た。
**
ユリウスは、二人の姿が小さくなるまで外を眺めていた。
見えなくなる直前、レオンが振り返る。
それが見えた瞬間、また口元が緩んだ。
「好きとか、恥ずかしくて言えねえ」
久しぶりに聞いた声が、まだ耳に残っている。
初めて知った、レオンの腕の中の温かさも。
勝手に上がる口角を、両手でもにもにとほぐす。
それから、気合を入れるために頬を叩いた。
「よし!」
机へ戻り、積まれた本を見渡す。
自分がこの世界に転生したこと。
魔王の力を受けても、魂が残っている理由。
そして、リュミエラが魔王城にあったわけ。
まだ、分からないことが多い。
自分を戻すために、ミナまで危険にさらすわけにはいかない。
何か記録が残っているなら、確かめておきたかった。
ユリウスは、まだ読んでいない本を一冊引き抜いた。
開いた本には、魔力を身体に留めるための術式が並んでいた。
以前、似たものを読んだことがある。
その時は、自分の中にある力を消す方法ばかり探していたから、途中で閉じてしまった。
「もしかして、器にした身体に魔力を留めるための術か?」
椅子に座り、頁をめくる。
「いや、でも今の俺は、何の魔術も使ってないな……」
魂。魔力。定着。
昨日までなら読み飛ばしていた言葉が、次々と目に留まる。
――お前は、器に向いている。
魔王の言葉が蘇った。
あいつは、自分が異界の魂を持っていると分かっていた。
だから、あんなことを言ったのか。
走り書きのような文字の上で、指が止まった。
『魔力より生まれた身体は脆い。完全な器を得るには、人の肉体から魂を退け、その身へ移るべし』
ユリウスは眉を寄せた。
その先を読み、関連しそうな本も棚から下ろす。
やがて、別の本にも気になる記述を見つけた。
『異界より招かれし魂は、器との結びつきが浅い』
続いていたのは、魂を身体から引き離すための記述だった。
読んでいるうちに、背筋が冷たくなる。
「ユリウス」
背後から声をかけられ、ユリウスは飛び上がった。
振り向くと、レオンまで驚いた顔をしている。
「び、びっくりした」
「悪い。難しい顔してたから、何かと思って」
外を見ると、日はまだ高い。
読み始めてから、三時間ほどだろうか。
「明日って言わなかった?」
「書状を出し終わったから、戻ってきた」
「寝ろよ」
「ミナは休ませてる。俺は後でいい」
レオンは机に広げられた本へ目を向けた。
「何か見つかったのか」
「魂についての記述。こっちも見てくれ」
ユリウスが本を寄せると、レオンも隣へ座った。
『器には、聖具の加護に耐えうる肉体が望ましい。その身に蓄えられた魔力を得れば、ウァラプラの外へも力を及ぼせるだろう』
レオンの目が、ゆっくりと文字を追った。
「だから、俺を見た時、魔王は喜んだのかも」
「加護を持っていて、異界の魂だって?」
「……お前、俺がそうだって、よくそんなすぐ信じたな」
「まあ、お前はお前だし。色々ありすぎて、いちいち疑ってらんねえよ」
そう言って、レオンはユリウスの角を撫でた。
指が根元まで下り、頭との境をくすぐる。
「やめろ! お前、会ってから簡単に俺に触りすぎ!」
「はあ?」
触れられたところが熱い。
自覚したばかりの気持ちに、心臓が忙しく跳ねていた。
ユリウスはその手を押し戻し、本へ顔を向ける。
「それより、続き」
「お前が話を変えたんだろ」
レオンも本へ目を戻した。
しばらく頁をめくってから、ユリウスが呟く。
「でも、それなら何で、俺の魂は残ってるんだ?」
レオンの手が止まった。
「異界の魂は、身体から離れやすいんだろ」
「そう書いてある。でも、俺は……こっちで生まれたんだよ。前世を思い出したのも、七歳になってからだ」
「ミナとは違うのか」
「ああ。身体ごと呼ばれたわけじゃない」
ユリウスは、自分の手を見下ろした。
小さい頃は、剣を持つだけでも大変だった。
何度も転んで、手に豆を作って、そのたびに少しずつ強くなった。
前世を思い出すより前から、この身体で生きている。
「……それが、何か関係あるのかも」
レオンは最初の記述へ戻り、指で文字をなぞった。
「招かれた魂と、ここで生まれた魂の違いか」
「その辺、もう少し調べたい」
ユリウスが手を伸ばすより先に、レオンが次の本を引き寄せた。
**
それから何日も、二人は本を読み続けた。
食料も何もない城で過ごすために、レオンは拠点と魔王城を行ったり来たりしていた。
ミナも休息を取りながら通い、リュミエラの記述と二人が見つけたものを照らし合わせる。
手には、飴玉を持って。
ユリウスは受け取るたびに、一つずつ大事に口へ入れた。
ある朝、レオンが古い本の間から、一枚の紙を見つけた。
『見通す者を先に退けるべし』
その下に続く文字を見て、二人は顔を見合わせた。
昼前に来たミナは、差し出された紙へ顔を近づけた。
『器と力を分かつ眼。その書を失わせれば、継承を妨げる者はない』
ミナが、抱えていたリュミエラへ目を落とす。
「聖者から、書を奪った……」
「多分な。少なくとも、力を使わせたくなかったのは確かだと思う」
ユリウスは、机に並べた本を見た。
似た術式に、何度も書き直された記述。
魔王は人の身体を得るために、長い間、方法を探していたようだった。
魂を身体から追い出し、器に残った力ごと引き継ぐ。
その企みを見抜き、魔王の力を引き離そうとする聖者は、邪魔だったのだろう。
「だから、リュミエラがここに……」
ミナが表紙を撫でる。
レオンは紙を机へ置き、ユリウスを見た。
「お前の魂が残った理由は?」
「まだ、はっきりとは。でも、やっぱり転生だったからかもしれない。呼ばれたんじゃなくて、ここで生まれたから」
関連する記述を、ミナもリュミエラで確かめていた。
異界から招かれた魂についての記録はあっても、ユリウスのような例は見つかっていない。
「魔王は、お前がそうだとは知らなかったのか」
「そこまでは話してないからな。俺も、こんな違いがあるなんて思わなかったし」
ユリウスは指先を軽く曲げた。
ずっと、知っている物語に近づいていると思っていた。
けれど、最初から違うところもあったのだ。
「……だから、今もお前なんだな」
「ああ。多分」
レオンは少し黙った後、新しい紙を引き寄せた。
「その違いも書いておこう。大神官に調べてもらえることがあるかもしれない」
「俺の前世まで報告すんの?」
「異界から来た方法が違う、とだけ書く」
「……頼むわ」
ミナもリュミエラを開き、空いた場所へ椅子を寄せた。
**
調査の合間には、黒い力を剥がすための検証も続けた。
ミナが力の動きを見て、レオンがヴァルガに流す魔力を調整する。
ユリウスも自分の魔力を動かしながら、痛みが変わるところを伝えた。
剥がれた力は、まだ身体へ戻ってしまう。
それでも、何が起きているか分からないまま、痛みに耐えるだけではなくなった。
調べたことは紙に書き、拠点へ持ち帰ってもらう。
神官や治癒師からの問いが返ってくることもあった。
その日も、ユリウスは机に本を並べて、二人を待っていた。
廊下から足音が聞こえる。
「今日は早かったな。昨日のとこ、もう少し読めたんだけど――」
顔を上げて、言葉が止まった。
レオンの後ろに、大きな人影がある。見覚えのある顔が、部屋の中を見回した。
それから、ユリウスに目を留める。
「……ずいぶん探させたな」
ユリウスは椅子から立ち上がった。
「グレイン団長……!?」




