第4話 天才の罠と、猫はまた微笑む
午後の研修は、正直まったく頭に入ってこなかった。
スライドの内容は、海外部門でのM&A成功事例。
講師は熱弁を振るっていたが、俺の頭の中ではずっと、昼休みの“長峰ランチ事件”が再生されていた。
(……夢じゃないよな? 本当に、長峰さんとあんな普通に話した?)
もしかしたら、何かのドッキリ番組に出演していて、俺だけ知らないままカメラが回ってるんじゃないかと疑いたくなるくらい、現実感がなかった。
しかも、あの後——
「お前、まじで付き合ってんの?」
とんでもない誤解を、長谷川が全力で社内に広めてくれていた。
おかげで、午後には同期の何人かから妙な目で見られる始末。
いや、頼むからやめてくれ。
俺はただの一般ピーポー、モブ中のモブなんだから。
研修が終わると、枦谷が駆け寄ってきた。
「おい、青島! マジなのか!? 幸さんと一緒にランチしたって……!」
「落ち着け、枦谷……そもそも『さん』付けやめろ。お前まで距離感あるのやめてくれ……」
「で、でも、あの氷の女王とランチ……え、何の儀式? 前世で世界救った?」
「ちがう。ただ偶然、席が空いてただけだし……」
「偶然で隣に座れるレベルの神、いたんだな……」
やかましい。
そんな会話をしていたら、背後から軽い咳払いが聞こえた。
「……青島くん、ちょっといい?」
(うわっ……き、来た!?)
振り向くと、長峰が、なぜか少し照れたような顔で立っていた。
周囲の空気が一瞬、止まる。
「な、なんでしょうか……?」
俺の声が上ずる。
「今日、帰り……ちょっと相談したいことがあって。時間、ある?」
(……え? それ、デートの導入句じゃなかったっけ!?)
「ありますありますあります!」
三回も答えてしまった。自分がキモい。
「よかった。じゃあ、屋上のテラスで、五時過ぎに」
そう言って、長峰は軽く微笑み、スタスタと歩いていった。
枦谷は俺の肩を掴んで震えていた。
「……今の、告白前夜イベントだよな? 主人公のやつ……!」
「いや、違う。これは……ただの仕事の話だから……多分」
でも内心、心臓は爆発寸前だった。
テラスに着くと、長峰は風に髪をなびかせながら、スマホを片手に立っていた。
「お疲れさま、青島くん。……ごめんね、急に呼び出して」
「い、いえ。なんでも相談してください」
「実はね……あるグループワークで、君を推薦したの。メンバーに」
「……へ?」
「今度、社内ピッチの簡易版をやるんだけど、若手の発想力を見るっていう企画で……。私、資料作成と構成係なの。でも、堅い人ばかりで、柔らかい発想を入れたくて」
「俺に……柔らかい発想?」
「うん。猫っぽい感性、大事だと思ったから」
……また猫かよ。
「それに……」と長峰は少しだけ頬を染めて言った。
「青島くんと、また話してみたいなって思ったから」
心臓、完全にアウト。俺は何も言えず、ただ「頑張ります」とだけ答えた。
翌日、社内は再びザワついていた。
というのも、「長峰が“無名の男”を指名してプロジェクトに入れた」という事実が、あの長谷川の手によって、まるでゴシップ記事のように拡散されたからだ。
「おう、愛され青島くん! 本日はどんなラブロマンスを繰り広げるんですか?」
「やめろって長谷川……マジで誤解されるから……」
「いやいや、ここまで来たら誤解じゃなくて既成事実だよ?」
ふざけんな。俺は普通にパワポ開いてるだけだ。
それでも、プロジェクトメンバーとの初会合は新鮮だった。
周囲のエリートたちは相変わらず頭がキレキレだったが、長峰が絶妙に俺の意見を拾ってくれるおかげで、場の空気が殺伐としすぎない。
「青島くん、その“地元の高齢者向けアプリ”の案、意外といいかも」
「でしょ? 地元スーパーとのコラボでクーポン出せば、意外と反響あると思うんですよ」
「それ、参考になる。……ありがとう」
また、あの優しい目で微笑んでくれた。
俺の中の何かが、毎回ちょっとずつ溶けていく。
……ところが。
「ちょっとお聞きしてもいいですか?」
突如、現れた見慣れぬ女性社員が、俺に声をかけてきた。
「あなた、長峰さんと付き合ってるって噂、ほんとですか?」
「……へ?」
(何その直球インタビュー!?)
「い、いや、そんなの全然……!」
「え~? でも長谷川さんが、昨日の帰り、ふたりがテラスで手をつないでたって言ってましたけど?」
長谷川、貴様ァアアア!!!
その後、俺と長峰の距離は、噂とは裏腹に、ほどよく一定のままだった。
ただ、時々すれ違うと、彼女が微笑んでくれる。
それだけで、俺の中で何かが動き続けていた。
「……ねえ、青島くん。来週の金曜、ちょっと時間ある?」
長峰が、ふいにそう聞いてきたのは、プロジェクトの中間報告が終わった帰り道だった。
「た、たぶん……空いてる、けど?」
「よかった。ちょっと、お礼がしたいの。ランチ、ごちそうするよ」
俺は思わず、にんまりしてしまった。
——あの日の猫の話が、本当に伏線だったなんて。




