第3話 偶然のランチと、天才の冷やかし
昼休みの『長嶋公開処刑事件』以降、社内では『長峰幸に告白未遂、撃沈の長嶋』という噂が瞬く間に拡散していった。
社内SNSの陰のハッシュタグ『#撃沈将軍』まで誕生する始末だ。
とはいえ、俺のようなモブ社員には関係のない話……のはずだった。
研修後のある日、俺は社内カフェの前で、財布を落としたらしい女性とぶつかった。
「あ、ご、ごめんなさいっ!」
「いえ、大丈夫です……あ」
拾い上げた財布から、IDカードがひらりと落ちた。
そこに書かれていた名前――『長峰 幸』。
「え……あ、青島くん?」
顔を上げた俺に向けて、長峰が小さく微笑んだ。
その一言で、俺の心臓は跳ね上がった。
「え、俺のこと……」
「うん。あなた、いつも枦谷くんと一緒に食堂の隅っこにいるでしょ? なんか……安心して見てられるというか」
「えっ、いや、それは嬉しいような恥ずかしいような……」
「ふふ、別に変な意味じゃないよ。なんだか、リズムが違ってて面白いなって。ほら、ここの人たちって、みんな最初から“戦闘モード”じゃない?」
長峰の言葉は、氷の女王というあだ名とは裏腹に、どこか柔らかく温かかった。
「青島くんって、なんというか……空気がゆるいよね。ちょっと猫っぽい」
「猫っぽい……?」
「うん。気まぐれで、でも、時々こっちをじっと見てる感じ」
――ちょ、待って待って待って。それって、褒められてるのか?
いじられてるのか?
「えっと、つまり……気になっては、いた……ってことですか?」
勇気を出して聞いてみると、心臓が爆発しそうになった。
「うん、そうだね」
さらっと肯定された。
え? ええ!? この世界、俺にだけパラレルワールドが適用されてるんじゃないのか?
その時、後ろから咳払いが聞こえた。
「……おい、長峰。なんでそいつと仲良くしてんだよ」
来たよ、長嶋。
「仲良く、って。青島くんとちょっと話してただけだけど?」
長嶋の顔が引きつる。
だが長峰は意に介せず、すっと俺の肩に手を置いた。
「また、話そうね、青島くん。あ、でもカフェで変なメニュー頼んじゃダメだよ? この前の“納豆マンゴースムージー”は伝説になってるから」
「うわ、バレてたのか……!」
肩を震わせて笑う彼女の横顔が、妙に眩しかった。
その日から、俺と長峰の距離はほんの少しだけ、近くなった気がした。
たまにすれ違うと、目が合って微笑んでくれる。
そんな「予感」のようなものが、灰色だった俺の毎日に、ほんの少しだけ色をくれた。
——そして、その翌週の昼休み。
新人研修が始まって一ヶ月半。
安宅興商の空気にも少しだけ慣れてきた。
とはいえ、慣れるのは“苦しみに耐える力”だけで、能力も人脈も、まるで成長していない気がする。
そんなある日、昼休みの食堂での出来事が、俺の灰色だった毎日に、一滴の色を落とした。
その日は、午前のグループワークが少しだけ上手くいって、俺の気分もほんのわずかに浮上していた。
たった三行のデータ要約を褒められただけだったけど、それでも十分すぎるご褒美だった。
「よし、今日は……ちょっと豪華に親子丼にしよう」
ちょっとした自分への労いとして、俺は食堂のメニューの中でも“中級クラス”の親子丼を選んだ。
普段はカツ丼一択だが、今日は違う。
トレーを持って食堂を歩いていると、視界の端に見覚えのある姿が入った。
——長峰幸。
あの氷の才媛が、一人でテーブルに座っている。
スマホを片手に、静かにサラダをつついている姿は、相変わらず絵画のように整っていて、話しかける隙間がない。
……だが、チャンスは今しかない。
気がつけば、俺は彼女のテーブルに足を運んでいた。
「……あの、ここ、いいですか?」
長峰は一瞬だけ顔を上げた。そして、軽く頷いた。
「どうぞ」
心臓が跳ねた。
落ち着け、俺。
これはただの“相席”だ。ただの偶然。ただの昼飯だ。
「……ありがと」
座ったものの、会話は続かない。
俺が親子丼の鶏肉をモグモグしている間、長峰はスマホを見ていた。
数分の沈黙。
……気まずい。
その時だった。
「青島くん、さ」
「は、はい!?」
いきなり呼ばれて、箸を落としそうになる。
「この前のグループワーク、資料まとめてくれたでしょ。……ありがとう。見やすかった」
「え、あ……う、うん……! いや、俺なんて、全然……!」
緊張のあまり、語彙が消し飛んだ。
だが彼女は、珍しく微笑んだように見えた。
「……その謙遜、嫌いじゃないよ」
この一言だけで、心の中に春が来た気がした。
そのまま、自然と会話が続いた。
話題は業務アプリの使い方、Excelの便利なショートカット、さらには地元の話題まで。 長峰が神奈川出身で、意外にもラーメンにうるさいことを知ったとき、俺は完全にやられていた。
「こってりは好き?」
「うん、背脂チャッチャ系とか最高」
「意外……!」
「失礼」
小さく笑った長峰に、完全にノックアウトだった。
そんなこんなで、気がつけば30分が経過していた。
まさか、彼女と、こんなに普通に会話ができるなんて。
——このランチは、俺の人生の宝物だ。
だが。
「おやおや、お熱いことで」
その声が、背後から降ってきた。
「うわっ……」
振り返ると、そこには案の定、長谷川浩紀がいた。
トレーを片手に、いつものニヤニヤ顔でこちらを見ている。
「まさか長峰さんが、こんな落ちこぼれにご飯付き合うなんて……世の中、分からないねぇ」
「ちょっと、長谷川くん」
長峰が、ほんの少しだけ睨んだ。
その顔に、一瞬、俺が救われた。
「……ごちそうさま。じゃあ、午後もがんばって」
長峰はそう言って席を立ち、去っていった。
その背中が遠ざかるのを、俺は見送った。
そして——
「いや~、お前、やるじゃん。進展、進展!」
「や、やめろって……!」
「いいねぇ、庶民とお姫様。まるでラノベだ」
「ほんとにやめてぇええ……!」
昼休み終了のチャイムが鳴る中、俺は顔を真っ赤にして、長谷川に追い回されながら廊下を逃げた。
でも。
その日、俺の歩幅は、ほんの少しだけ大きくなっていた気がした。




