第39話 神戸本店という名の新たな戦場
後楽園での密談という名の、日本経済を揺るがしかねない超トップ会談を終えた俺は、国内営業本部長と共に、どこか上の空のまま新幹線のグリーン車に揺られていた。
窓の外を流れる景色が、まるで現実味のない映画のワンシーンのように見える。
「……青島君、疲れたかね」
向かいの席に座る本部長が、静かに問いかけてきた。
その目には、いつもの厳しさとは違う、戦いを終えた将のような穏やかさがあった。
「疲れたというか……何が何だか、まだ整理がつきません。俺、……私はなんであんな場所にいたんでしょうか」
「ははは、私もだよ。一介の商社の本部長が、日本を代表する商社の役員たちと膝を突き合わせて合弁会社の話をするなど、夢にも思わなかった」
本部長はそう言って笑うが、その顔には確かな手応えと自信が満ち溢れていた。
「君のおかげだ、青島君。君という『規格外』がいたからこそ、我々はこのチャンスを掴むことができた。……だが、戦いはまだ始まったばかりだ。覚悟しておきたまえ」
その言葉通り、俺たちを乗せたのぞみ号が新神戸駅に滑り込むと、ホームにはすでに国内営業本部の部長と係長が出迎えていた。
彼らのただならぬ雰囲気に、俺は一抹の、いや、かなりの不安を覚える。
「本部長、青島君、お疲れ様でした! 会議室、準備できております!」
休む間もなくだ。
俺は、駅の改札を一人で出ることも許されず、そのまま本社の車に押し込まれ、再び神戸本店へと拉致同然に連行された。
もう、この展開にも慣れてきた自分が怖い。
案内されたのは、国内営業本部が管理する一番大きな会議室だった。
重厚な扉を開けると、そこにはすでに見慣れた顔ぶれがずらりと揃っていた。
先の出張で俺の代わりに矢面に立ってくれた部長、そして、その隣には……。
どうやら、今日の主役は俺だけではないらしい。
会議室が静まり返ると、上座に座った本部長が、ゆっくりと口を開いた。 その声は、フロア全体に厳かに響き渡る。
「諸君、よく集まってくれた。先般、岡山で行われた会合の結果を報告する。我々、安宅興商は、伍星商事をはじめとする国内主要商社5社と共に、コロンビアにコーヒー豆の輸入を専門とする合弁会社を設立することで合意した!」
どよめきが、波のように会議室に広がった。
誰もが信じられないといった表情で、互いの顔を見合わせている。
「これに伴い、我が国内営業本部内に、新会社設立のための『特命プロジェクト準備室』を本日付で立ち上げる! これは、我が部の、いや、安宅興商の社運を賭けたプロジェクトであると心得よ!」
本部長の言葉に、部屋の空気が一気に熱を帯びる。
そして、矢継ぎ早にメンバーが発表されていった。
室長には、このコーヒー案件を最初から追いかけていた件の部長が就任。
そして、その補佐として……。
「プロジェクトの主担当として、営業一課、枦谷誠! 君にこの大役を命じる!」
「は、はいっ! 粉骨砕身、頑張ります!」
緊張で顔をこわばらせながらも、これ以上ないほど大きな声で返事をする枦谷。
その姿は、誇らしげで、どこか頼もしくも見えた。
だが、この決定に、静かに異を唱える者たちがいた。
会議室の隅に固まっていた、国内営業本部内に巣食う数少ないT大卒閥の連中だ。
「お待ちください、本部長! なぜ、これほど重大な案件を東京本社に諮らず、この場で決定されるのですか!」
「そうだ! 海外との合弁会社設立など、本来であれば東京の国際事業部が主導すべき案件のはず!」
彼らの悲鳴にも似た抗議が、会議室に響く。
だが、本部長は眉一つ動かさなかった。
「諮る必要などない。これは、東京が見捨てた案件を我々が拾い上げ、育てたものだ。それに、すでに伍星商事も四丼物産も、この話に乗っている。今更、君たちのボスである副社長が口を挟む余地など、どこにもないのだよ」
冷徹な事実を突きつけられ、T大閥の連中はぐうの音も出ない。
彼らが慌てて東京の副社長にご注進の電話を入れたところで、後の祭りだ。
その副社長自身、今回の失態続きで社内での求心力が地に落ち、同じ派閥内での権力争いでそれどころではない、という噂がすでに神戸まで届いていた。
まさに、なしのつぶてである。
神戸本店において、T大卒派閥の影響力はもともと限定的だった。
実力主義の気風が強い国内営業本部では、仕事のできない者は出身大学に関わらず評価されない。
今回の件で、カリスマ性を増した本部長の勢いは、もはや誰にも止められなかった。
もちろん、社内政治の泥沼が終わったわけではない。
東京からは、いつの間にか復職していた長嶋から、枦谷や部長宛にネチネチとした嫌がらせのメールが連日のように届いていた。
だが、神戸と東京の物理的な距離は、心の距離よりも遠い。
「また長嶋さんからメール来てるよ。『地方の独断専行は許されない』だって。今さら何言ってるのかしら」
「ほんと、みっともない……。長谷川さんが、東京で色々抑えてくれてるみたいだけど、あの人、長谷川さんにも逆恨みしてるみたいで、すごく当たりが強いんだって」
昼休み、給湯室で聞こえてきた長峰さんと大沢さんの会話に、俺は思わず苦笑した。
長嶋の暴走は、もはや神戸では「またか」と呆れられるだけの、滑稽な余興でしかなかった。
その夜、俺たちはいつもの四人で、祝賀会と称して三宮の夜に繰り出していた。
主役はもちろん、特命プロジェクトの担当に抜擢された枦谷だ。
「いやー、まさか俺がこんな大役を任されるなんてな! これも全部、青島、お前のおかげだ! そして、俺を信じてくれた本部長と部長のおかげだ!」
ビールジョッキを片手に、すっかり上機嫌で熱弁を振るう枦谷。その目は、希望と野心でキラキラと輝いている。
「これで、俺も少しは大沢さんに相応しい男に近づけたんじゃないか!?」
「もう、枦谷君ったら!」
顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに枦谷の腕を叩く大沢さん。
その光景は、どう見ても新婚夫婦のそれだった。
「調子に乗ってると足元を掬われるわよ。プロジェクトは始まったばかりなんだから、ちゃんと真面目に仕事しなさい!」
「わかってるって! 愛する葵のためなら、俺はどんな困難だって乗り越えてみせるさ!」
甘すぎるセリフの応酬に、俺は思わず手羽先を取り落としそうになる。
その横で、長峰さんはクスクスと楽しそうに笑っていた。
「ふふっ、本当に見ていて飽きないわね、あの二人は」
「まったくだ。こっちの身にもなってほしいよ」
俺がぼやくと、長峰さんは悪戯っぽく微笑んで、俺の顔を覗き込んできた。
「青島君も、なんだかんだ言って、この状況を楽しんでるんじゃない?」
「楽しめるか! 俺は一刻も早く、コロンビアの静かな日常に帰りたいんだよ。役にも立たないレポートを書いてる方が、よっぽど精神的に楽だ」
「あら、そうなの?」
長峰さんは、少しだけ寂しそうな顔をした。
そして、テーブルの下で、そっと俺の手に自分の手を重ねてきた。
「……私は、青島君がこうして近くにいてくれると、なんだかすごく、安心するんだけどな」
――ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。
重ねられた手のひらの温かさと、シャンプーの甘い香りが、俺の思考回路を完全にショートさせる。
「え……?」
俺が、かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
長峰さんは、はっと我に返ったように顔を真っ赤にすると、慌てて手を引っ込めた。
「な、な、なんでもないっ! 今のは忘れて!」
ぶんぶんと首を横に振って誤魔化す彼女の姿は、あまりにも可愛らしくて、俺は何も言えなくなってしまった。
その、あまりにも分かりやすい俺たちのやり取りを、向かいの席から枦谷と大沢さんがニヤニヤしながら見ていることに、俺は気づかないふりをした。
ドタバタと、甘酸っぱい空気が入り混じる神戸の夜は、こうして更けていくのだった。
それからの数日間、国内営業本部はまさしく蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
設立準備室が本格的に稼働を始め、本部長や部長は、後楽園で名刺を交わした各社の実務担当者たちと、連日、大阪や東京のホテルで会合を重ねていた。
そのおつきとして、枦谷も生まれて初めて乗る飛行機のプレミアムクラスやグリーン車に目を回しながら、必死にメモを取って全国を飛び回っているようだった。
俺はといえば、「特別顧問」というよく分からない肩書のまま、準備室に席だけ置かれ、主にコロンビア現地の情報提供や、ラファへの連絡役といった仕事をこなしていた。
しかし、国内での泥臭い根回しや、山のような書類作成といった実務が本格化するにつれ、俺の出番は明らかに減ってきていた。
「……部長。俺、もうここにいても、やることなくないですか?」
ある日の午後、俺はついに室長である部長に直訴した。
これ以上、神戸にいて面倒な社内政治に巻き込まれるのはごめんだった。
すると部長は、山積みの書類から顔を上げ、ニヤリと笑った。
「ああ、バレたか。正直、君は国内のこういう泥仕合には向いていない。君の本当の価値は、もっと自由に動ける場所でこそ発揮されるからな」
部長は一枚の書類にサインをすると、それを俺に差し出した。海外出張命令書だ。
「許可しよう。さっさとコロンビアに帰って、現地の地盤を固めておいてくれ。新会社の設立には、君の力が絶対に必要になる。これは、そのための先行投資だ」
その言葉に、俺は心の底から安堵した。
「ありがとうございます!」
俺は、まさに脱兎のごとくその場を後にした。
同期たちに簡単な別れの挨拶だけ済ませると、その日のうちに荷物をまとめ、関西国際空港へと向かった。
もちろん、帰りも国内営業本部持ちのビジネスクラスだ。
フルフラットになるシートに身を沈め、俺は深く息を吐いた。
数々のドタバタと、ほんの少しの甘酸っぱい思い出を乗せた飛行機は、日本の喧騒を離れ、一路コロンビアへと向かう。
ボゴタの空港に降り立ち、懐かしい熱気と喧騒に包まれた瞬間、俺は心の底から思った。
「やっぱり、こっちの方が落ち着くな……」
こうして俺は、役にも立たないレポートを作成しては本店に送るという、表向きは平和な生活に戻った。
だが、日本で産声を上げた巨大なプロジェクトの歯車は、すでに俺を巻き込んで力強く回り始めている。
このコロンビアでの平穏が、そう長くは続かないであろうことを、この時の俺はまだ、知る由もなかった。




