第38話 貸しと借りと、後楽園の密談
コロンビアの空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
親友・枦谷とその上司を日本に送り出し、俺の日常は一時の平穏を取り戻していた。
事務所兼豪邸では、相変わらずマリアとイオナが俺を巡って火花を散らしているが、それももはや見慣れた光景だ。
枦谷と大沢さんの恋が成就したという長峰さんからの知らせには、自分のことのように嬉しくなった。
俺のドタバタが、誰かの幸せに繋がったのなら、まあ、悪くない。
「それにしても、青島さんはどうなのかな~」
なんていう大沢さんからの意地悪なメッセージには、苦笑いを浮かべて適当なスタンプを返しておいた。
俺の恋の行先なんて、俺自身にも分かりやしないのだ。
そんな穏やかな午後、一本の国際電話が、新たな嵐の到来を告げた。
「おう、青島か。元気でやってるか」
電話の主は、岡山の所長だった。その豪快な声を聞くだけで、背筋が伸びる。
「ええ、お陰様で。何かありましたか?」
「ああ、大ありだ。お前、こっちからかなり無理して日本に送ったコンテナが、もうすぐ着くらしいな」
役員会議での大立ち回りの末、国内営業本部が独断で進めたコーヒー豆の輸入のことだ。
東京本社を完全に無視したあの強行策が、どうやら新たな火種を生んだらしい。
「実はな、知り合いから連絡があってな。『そちらに伍星の社員が尋ねるから、コーヒーの件、説明してやってくれ』と、まあ、そういう命令だ」
「ご、伍星商事!? なんでまた、あの日本一の商社が……」
俺が素っ頓狂な声を上げると、所長は電話の向こうでガハハと笑った。
「国内の奴ら、この間、伍星に借りを作ったからな。今どきどこも豆が手に入らず苦労してる。そういう時に余裕があれば、恩を売っておくもんだ。要するに『貸しを作る』ってことよ」
『情けは人の為ならず』なんていう、ことわざがある。だが、『貸しを作る』とは、なんとも直接的で、いかにもあの所長らしい表現だ。
そういえば、あの人の人脈は、常識では考えられないほど広範囲に及んでいた。
きっと、こういう『貸し借り』の積み重ねで築き上げてきたものなのだろう。
その翌日には、俺の携帯に直接、知らない番号から着信があった。
「もしもし、青島直人様の携帯電話でいらっしゃいますか。私、伍星商事の者ですが、明日、☓時の飛行機でボゴタに到着します。つきましては、どちらへ伺えばよろしいでしょうか」
流暢すぎる日本語と、一切の無駄がない事務的な口調。
昨日今日で話が決まって、明日にはもうコロンビアに来るというのか。
後で知ったことだが、日本からこの短時間で飛んでくるのは物理的に不可能だ。
そこは全世界にネットワークを持つ伍星商事。
コーヒーの買い付けで世界中を飛び回っている社員が、ブラジルから直接ボゴタに飛んでくるらしかった。
グローバル企業のスケールのでかさに、俺はただただ圧倒されるばかりだ。
所長の『貸し』とやらに付き合う気は毛頭なかったが、俺の気弱で流されやすい性格が災いし、結局、俺は空港まで出迎えに行く羽目になった。
手書きの日本語で『伍星商事様』と書いた、我ながら情けないプラカードを掲げ、入国ゲートの外で待つ。
やがて、人波の中から、すっと一人の男が現れた。
身軽なスーツケース一つで、完璧に着こなしたスーツ姿。鋭い眼光に、自信に満ちた立ち居振る舞い。
これぞ、エリート中のエリートサラリーマン。
俺とは人種が違う、という言葉が頭をよぎる。
男は、俺の掲げたプラカードに気づくと、まっすぐにこちらへ向かってきた。
ゲートのそばで、俺たちは名刺を交換した。
伍星商事、食品部門、南米担当バイヤー、高坂誠。
差し出された名刺は、シンプルながらも洗練されたデザインで、俺の名刺がやけに安っぽく見えた。
空港内の喫茶スペースに移動し、俺たちは向き合って座った。
高坂と名乗った彼は、コロンビア担当のバイヤーでもあり、この国には何度も訪れているという。
「早速ですが、FNCの本部へ向かいたいと思います。すでにアポイントは取ってありますので」
「は、はあ……」
「青島さんも、ご同席いただけますか? 我々が普段どのような交渉をしているか、ご覧になっておくのも良い経験かと」
上から目線ともとれる口調だが、不思議と嫌味はなかった。
これが、本物のエリートが持つ余裕というやつか。
「部外者の俺がいてもいいんですかね?」
「私が紹介します。問題ありません」
俺たちはタクシーに乗り込み、FNC本部へと向かった。
そこで待っていたのは、いつもの、のらりくらりとした担当者だった。
本日も、何度も聞かされたコーヒー豆の市況について、型通りの説明が繰り返されるだけ。
だが、高坂は違った。
彼は、FNCの担当者と旧知の仲のようで、柔らかい表情で世間話を交えながら、巧みに相手の懐に入り込んでいく。
やがて、担当者の口から、これまで決して明かされることのなかったオフレコ情報までが、ぽろぽろとこぼれ始めた。
世界的な不作の深刻度、特定の国による強引な買い付けの実態、そしてFNC内部の苦しい台所事情。
流石は伍星、というべきか。
いや、これは一朝一夕で築ける関係ではない。
彼らが長年積み重ねてきた信頼の証なのだ。
FNC本部から俺の事務所へと向かう車中、高坂が不意に口を開いた。
「正直に申し上げて、驚きました。FNCからこれほどの情報を引き出せるとは思っていませんでしたから。……それで、安宅さんはどうして、この状況で新たな豆のルートを確保できたのですか?」
その問いに、俺は自分が今作っている最中の、農園主たちの「集まり」について簡単に説明した。
その瞬間、高坂の顔つきが、全く別のものに変わった。
それまでの冷静沈着なエリートの仮面が剥がれ落ち、野生の獣のような鋭い光がその目に宿る。
彼は、俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで身を乗り出してきた。
「……なんですって? 農園を、グループ化した? あなたが?」
その迫力に、俺は思わず後ずさった。
事務所に着くと、俺はマリアとイオナを高坂に紹介し、この事務所の顔役であるラファについて説明した。
そして、明日、一緒にカリまで出向き、あの「集まり」をまとめている二人、フェルナンドとリカルドに会ってもらうことを約束した。
翌日、ボゴタの空港には、なぜかラファまで姿を現した。
俺たちは彼のプライベートジェットでカリへと飛んだ。
カリの空港には、あのいかつい顔の二人、フェルナンドとリカルドが、黒塗りのアルファードで迎えに来ていた。
高坂は、この異様な光景に一言も発さなかったが、その目は好奇心と警戒心で鋭く光っている。
コーヒー産地にある、改装中の事務所。
そこで、俺は高坂をフェルナンドとリカルドに引き合わせた。
彼らは多くを語らなかったが、互いにプロフェッショナルとしての実力を瞬時に見抜いたようだった。
固い握手が交わされ、新たなビジネスの始まりを予感させた。
「しかし、不思議でならん」
事務所からの帰り道、ラファが俺に問いかけてきた。
「なんで、安宅の人間が、ライバルであるはずの伍星の社員をそこまで手助けするんだ? 普通は、見つけた獲物は独り占めにするもんだろう」
俺は、岡山の所長について簡単に説明し、彼の言う『貸し借り』の話をした。
すると、ラファは「なるほどな」と、割と簡単に納得してくれた。
「そういえば、俺とお前の出会いも、いわば『貸し』から始まったようなもんだったな」
空港で倒れた彼を助けた、あの日のことだ。
「その『貸し』を頼りに、お前は俺に助けを求めてきた。まあ、どこでも同じようなもんか」
ラファはそう言って、どこか面白そうに笑った。
俺は、所長の言う『貸し借り』の本質が、少しだけ分かったような気がした。
高坂は、カリの空港から直接ブラジルへと帰っていった。
俺はラファと一緒にボゴタの事務所へと戻る。
「しかし、ラファの仕事って、一体何なんだろうな」
俺に付き合う必要など全くないはずなのに、彼はいつも、絶妙なタイミングで現れ、俺を助けてくれる。
今回の件で、彼も伍星商事という巨大な組織と繋がりができたようで、しきりに俺に感謝していた。
「俺は、別に言われたことをしているだけなんだが……」
まあ、素直に感謝を受け入れておくことにした。
そこからは、割と平穏な日々が続いた。
コロンビアの青い空の下、コーヒーの香りに包まれて、俺は日本でのサラリーマン生活が遠い昔のことのように感じていた。
だが、そんな平和は、長くは続かなかった。
ある日、急遽、神戸の本店から呼び出しがかかったのだ。
「青島君、至急、帰国したまえ」
電話口の国内営業本部の部長の声は、いつになく切迫していた。
今回も、国内営業本部の経費でビジネスクラスでの移動になるらしい。
一体、何が起こったというのか。
俺は、マリアとイオナに別れを告げ、テキサス経由で関西国際空港へと向かう飛行機に乗り込んだ。
胸騒ぎが、止まらなかった。
神戸の本店に着くと、俺はトラウマになりそうな最上階に連れて行かれることはなく、そのまま国内営業本部のオフィスに通された。
本部長たちと簡単な挨拶を交わすと、すぐさま今度は新幹線に乗せられる。
役員と一緒の移動なので、グリーン車での快適な旅だが、行き先が分からない。
岡山駅で降り、タクシーで事務所に向かうのかと思いきや、連れてこられたのは、日本三名園の一つ、後楽園だった。
園内にある、趣のある茶室に通されると、中ではすでに数人の男たちが静かにお茶をすすっていた。
その中心にいたのは、岡山の所長だった。
「よう、青島。相変わらず元気そうだな。安心したよ」
「ええ、お陰様……で?」
「なんで、そこで疑問形なんだ。まあいい、こっちへ来て座れ」
所長は、俺と一緒にここまで来た国内営業本部長を完全に無視して、俺を自分の隣に座らせた。
本部長の付き人として来ていた営業部長が呆然と立ち尽くしていると、所長と一緒にいた男たちから次々と挨拶をされる。
「私は、こういうものです。今回の集まりに呼んでいただき、誠に光栄です」
差し出された名刺には、『伍星商事 取締役 食品事業部長』とあった。
他にも、四丼物産、往紘商事、角紫、鈴木通商……。
日本の名だたる総合商社の役員たちが、この場に顔を揃えている。
俺にも次々と名刺が渡されるが、こんな大物たちと名刺を交換していい人間なのだろうか、俺は……。
不安そうな顔をする俺を見て、岡山の所長は「もらっておけ」とだけ言った。
そして、渡してきた相手には「そいつの名刺なんざ役に立たんぞ」とばかりに、俺の代わりに俺の名刺をトランプのカードのように配り始めた。
俺の社会人としての常識が、音を立てて崩れていく。
あの地獄のような新入社員研修で初日に習った、丁重な名刺の受け渡し作法は、ここでは完全に無視されていた。
役員たちの名刺交換がひと通り済むと、重々しい雰囲気の中で話し合いが始まった。
最初に口火を切ったのは、伍星の役員だった。
「昨今、コーヒーの市況は、我々の想像を絶するほどに悪化しておりますな」
「酷いどころの話ではない。うちはアフリカからの豆は昨年の半分も確保できておらんし、ブラジルも昨年以下だ」
「うちはもともとコロンビア産に重点を置いておりましたが、FNCからの回答は芳しくないの一点張りでして……」
世界的にコーヒー豆の市況が絶望的になっている。
そこへ、アメリカやヨーロッパの巨大資本だけでなく、近年では中国までもが、なりふり構わぬ乱暴な手段で豆を確保しに来ているため、日本の商社は完全に買い負けている、と。
そんな状況で、俺がコロンビアで確保した、まとまった量の豆を農園ごと確保できたルートは、幸運以外の何物でもない。
だが、その量は、安宅興商一社で賄うにはあまりに巨大すぎる。
かといって、FNCなどを経由させると、様々な思惑が絡み、日本には入りづらくなる可能性が高い。
そこで、伍星商事の声かけから、関連する大商社が動いたのが、この集まりの真相だった。
話し合いの結果は、驚くほどあっさりと決まった。
コロンビアのカリに、日本の専門商社を共同で設立し、そこから日本へ輸出する仕組みを作ろう、と。
「うちからは、すぐにでもパナマの事務所から人を出すぞ」
「うちは、コロンビアに事務所があるので、ローカルスタッフをそちらに回せるが」
「資本金はどうする?」
「日本にも拠点は必要ではないか?」
話は具体的な段階へと一気に進んでいく。
結局、この場に集まった総合商社5社が、それぞれ資本金を出し合い、合弁で会社を設立することになった。
人材も、各社が協力してコロンビアに送り込むことで話がついた。
「資本割合はイーブンでよろしいか?」
「いや、うちは声をかけてもらっただけの立場。そこまで望みはしません」
そんなやり取りの末、伍星と安宅が25%ずつ、四丼物産が15%、往紘商事、角紫、鈴木通商がそれぞれ10%ずつという、驚くべき速さで話がまとまった。
そして、最後に所長がとんでもないことを言い出した。
「残りのごくわずかな端数だが、これは岡山事務所と、そこの青島、それから現地のラファさんで持ってもらうことにしよう」
……は? それって、どういうことだ?
俺が個人株主になるということか?
俺が呆然としている間に、あっという間にたたき台が出来上がると、集まった役員たちは「では、急ぎ社に戻って手続きを進めますので!」と、嵐のように去っていった。
俺は、岡山に残り、所長や木下先輩、そしてなぜか最後まで残っていた国内営業本部長と一緒に、岡山の老舗料亭で、これまでの出来事を報告することになった。
その席で、本部長が俺からの報告を聞きながら、所長はとんでもないことを言い始めたのだ。
「それにしても、うちの会社も相変わらずだな。上はバカばかりだ。……なあ、本部長」
所長が、呆れたように本部長に話しかける。
「悪いな。その馬鹿に、俺も入るが……」
本部長は、力なく笑った。
「ああ。だが、アイツラ、どうにかならんのか。特に副社長派閥の連中は」
「今は仕方がない。だが、そこの青島君のお陰で、次期社長の目は限りなく小さくなっただろうな」
「当たり前だ。人の功績を盗むばかりで、それだけでなく邪魔ばかりして回る。商売人なら商売人らしく、正々堂々と商売で競えと言いたくなる」
「しかし、商売をしていくと言っても、なかなか人が育たん。うちの連中にも発破をかけてはいるが、そこの青島君のような、絶対にあり得ないくらいの無茶な商いをやってのけそうな若者は、どこにもおらんな」
「いないもなにも、そういう連中を採用してこなかったのだろう。それに、その目のあるやつを潰して回ったのは、貴様ら上の連中だろうが」
「……ああ。だが、ピンチの時に助けられたのも、そういう型破りな連中がいたからだと、今更ながらに思い出すよ。それこそ、所長のような人に、俺も若い頃は助けられたっていうのにな」
所長の過去が、少しだけ見えた気がした。
所長は、あまりにぶっ飛んだ性格と、規格外の商いを成功させる手腕のために、上層部から煙たがられ、この岡山に流されたらしい。
「本店に戻って、後進を育ててみないか」
本部長が、所長に頭を下げる。
「止めてくれ。俺は、この岡山が好きなんだ」
「……なら、所長のところの……木下はどうだ。彼なら、本店で係長……いや、課長として迎えたい」
「いい話だが、どうだろうな。あいつも岡山に骨を埋めるつもりだろうし。一応、話はしてみるが、まあ望み薄だな」
「そ、そうか……。それにしても、青島君は化けたな。俺のところに回ってきた人事情報では、研修の結果は惨憺たるものだったが」
「そんな紙切れの評価に頼るから、人が見えなくなるのだ。尤も、こいつは俺と違って、やたらとトラブルばかりを引き寄せる厄介な体質だがな」
「所長も、人のことは言えないと思いますが」
「俺は、こんな新人時代から、世界を股にかけてトラブルは起こしてこなかったよ。こいつは使い方次第だ。だが、本店や東京に連れて行っても、どうせ役に立たん。こいつでどうこうしようなどとは、考えないことだな」
「それは、重々承知している。何せこいつは、怖いもの知らずで、あの副社長のメンツを、役員たちの目の前で、完膚なきまでに潰してくれたからな」
……へ?
何だ、その話は。怖い。
副社長とは、あの地獄の役員会議室でしか会っていないはずだが。
あの時、俺は一体何をしたというんだ?
辞表を求められたので、必死に言い訳をした記憶しかないのだが……。
俺の知らないところで、また何かとんでもないことが起こっていたらしい。
料亭での夜は、岡山の美味い酒と肴、そして、俺の知らない過去と未来の話で、静かに、そして騒がしく更けていった。




