第36話 コーヒー―豆の輸入と枦谷の恋の行方
役員会議室という名の戦場から命からがら這い出した俺は、壁に手をつき、大きく息を吐いた。
全身から力が抜け、立っているのがやっとだった。
長距離フライトの疲れと、極度の緊張状態から解放された反動で、視界がぐにゃりと歪む。
「……青島君、大丈夫?」
聞き慣れた、心安らぐ声が耳に届いた。
顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込む長峰さんの姿があった。
どうやら、会議室の前でずっと待っていてくれたらしい。
その優しさが、ささくれ立った神経にじんわりと沁みていく。
「長峰さん……。ああ、なんとか生きてるよ。魂が半分くらい抜けかけたけどな」
「顔、真っ青よ。本当に無茶ばっかりするんだから……」
彼女はそう言うと、持っていたハンカチで俺の額に浮かんだ冷や汗をそっと拭ってくれた。
その自然な仕草に、思わず心臓が跳ねる。
近い距離で見る彼女の真剣な眼差しに、俺はなぜか目を逸らしてしまった。
「はは……。まあ、クビは免れたみたいだし、結果オーライってことで」
「そういう問題じゃないでしょ! 副社長に辞表を出せって言われてたじゃない! 私、外で聞いてて心臓が止まるかと思ったんだから!」
ぷんすかと頬を膨らませて怒る長峰さん。
その剣幕に、俺はたじろぐ。
だが、本気で俺の身を案じてくれていることが伝わってきて、胸の奥が温かくなった。
そこへ、背後から新たな声がかかる。
「青島君、すまなかったな。うちの専務が暴走して、君を巻き込んでしまった」
振り返ると、そこにいたのは国内営業本部の例の部長だった。
先程の会議での剣幕とは打って変わって、申し訳なさそうな顔をしている。
「いえ、俺は別に……。それより、本当に東京の協力なしで輸入を?」
「ああ、やると決まったからには、やるしかない。そこでだ、青島君」
部長はニヤリと笑い、俺の肩を力強く叩いた。
「君には、新しく立ち上げる『コロンビアコーヒー特命プロジェクト』の特別顧問に就任してもらう! もちろん、これは業務命令だ!」
「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってください! 俺の所属は役員室直属のはずですが!?」
「そんなものは後からどうとでもなる! 君がコロンビアで築いた人脈と、羊毛の輸入で培ったノウハウ、全てを貸してほしい! これは、我が国内営業本部の、いや、安宅興商の未来がかかった戦いなんだ!」
有無を言わさぬ勢いでまくし立てられ、俺は完全に言葉を失った。
隣で聞いていた長峰さんも、呆気にとられて目を白黒させている。
こうして、俺の意思とは全く関係のないところで、新たなドタバタ劇の幕が切って落とされたのだった。
その夜。
俺たちは、いつものように神戸の洒落た居酒屋に集まっていた。
もちろん、同期の4人でだ。
俺が役員会議での一部始終と、なし崩し的に決まったプロジェクト顧問就任の件を報告すると、大沢さんと枦谷は目を丸くして驚いていた。
「えええっ!? 青島、そんな大変なことになってたのかよ!? マジで無事でよかったな!」
「でも、プロジェクトの顧問ってすごいじゃない! 青島君、出世だね!」
心配してくれる枦谷と、能天気に喜ぶ大沢さん。
この温度差こそが、俺たちの同期会の日常だ。
「出世なのかね、これ……。どう考えても貧乏くじを引かされただけな気がするが」
俺がぼやいていると、すっかり良い感じに酒が回った枦谷が、ガタン!と大きな音を立てて勢いよく立ち上がった。
そのただならぬ雰囲気に、店内の客の視線が少しだけこちらに集まる。
「よーし、聞いたかお前ら! 青島は会社の未来を背負って戦ってるんだ! 俺も、負けてられねえ!」
何を言い出すんだ、こいつは。
とりあえず他のお客さんに迷惑なので枦谷を座らせて落ち着かせる。
枦谷が一応騒がずに会話ができるレベルになり、俺と長峰さんとが目を合わせながら「やれやれ」と言った感じに浸っていると今度は、枦谷はビシッと指をさした。
その指先が向いていたのは……顔を赤くしてオロオロしている大沢さんだった。
「特に、大沢さん! よく聞いててくれ!」
「え? わ、私!?」
突然名指しされて、大沢さんの肩がビクッと跳ねる。
「俺、明日から青島が切り開いてくれた道を通って、コロンビアに出張に行くことになった! これは、ただの出張じゃない! 俺の、男としての価値が試される戦いだ!」
枦谷は、熱弁を振るう政治家のように拳を握りしめている。完全に酔っ払いの暴走だ。
とにかく声のトーンを抑えるように枦谷を落ち着かせる。
今日は酒のピッチが速かったのか、それとも俺の去った後で、会社で何かあったのか知らないが、荒れている……ちょっと違うか。
あ、俺と前に空港で約束した件か。
誰かコロンビアに送ると言ったが、まさか枦谷一人ってことじゃないよな。
俺の異常は今更だが、俺たちが一人で国内出張でも珍しいのに、海外はあり得ないだろう。
まだ、枦谷は声こそトーンを落としたが続けていた。
「だから! この出張を必ず成功させて、胸を張って帰ってくる! そしたら……そしたら、君に伝えたいことがあるんだ! だから、それまで俺のこと、待っててくれないか!」
ドーーーン!!
最後のセリフは、周りのテーブルにまで響き渡るような大音声だった。
一瞬の静寂の後、店内がざわめき始める。
大沢さんは、茹でダコみたいに真っ赤になって俯いてしまい、両手で顔を覆って
「う、うそでしょ……」と呻いている。
完全に公開処刑だ。
俺と長峰さんは、揃って深いため息をつき、顔を見合わせた。
「なんだかなぁ……」
「まったく、あいつは……」
長峰さんが、俺の耳にそっと口を寄せてきた。
シャンプーのいい香りがして、またしても心臓が変な音を立てる。
「あれって……もしかして、青島君がけしかけたの?」
「……悪い。前に空港で、俺が無理やり約束させたことだと思う。まさか、こんな形で暴発するとは……」
「もう……」
長峰さんはジトっとした目で俺を睨んだが、すぐに視線を友人へと戻した。
「でも……葵は私の大切な友達だからね。あんな不器用なアプローチだけど、枦谷君の覚悟は本物みたいだし。ちゃんと、見守っててあげるから」
そう言って微笑む彼女の横顔は、とても綺麗だった。
こうして、神戸の夜はドタバタと更けていく。
会社の派閥争いという名の戦場、新たに始まる波乱必至のプロジェクト、そして、同期たちの間で始まった、あまりにも不器用で、あまりにも騒々しい恋のプレリュード。
俺の平穏な日常は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
一つだけ確かなのは、明日からまた、とんでもなく騒がしくて、だけど、ほんの少しだけ面白い日々が始まるということだけだった。




