第35話 役員会議室という名の戦場
コロンビア、ボゴタの喧騒から、俺はたった一人、遥か彼方の日本へと戻ってきた。
長距離フライトの疲労で全身は鉛のように重く、時差ボケで意識は朦朧としている。
機内食のカレーは幸い出なかったが、それでも空腹は満たされず、神戸空港に降り立った俺は、生気のない魚のような目をしていた。
だが、安堵する暇など微塵もなかった。
空港からの足は本社が手配したタクシーで、そのまま神戸の本店最上階へと直行する。
「青島君、ご苦労だった。役員がお待ちかねだ」
総務部の人間は普段よりも事務的な口調で、俺を役員会議室へと促した。 重厚な扉が開くと、ひんやりとした空気が肌を刺す。
役員会議室。
それは、社内でも限られた「選ばれし者」だけが足を踏み入れることを許される、安宅興商の聖域であり、同時に、魑魅魍魎が跋扈する政治の戦場でもある。
その光景に、俺は思わず息を呑んだ。
広大な円卓の周りには、総勢十数名の役員たちがずらりと顔を揃えていた。
その視線は、まるで獲物を捕らえるかのように鋭く、一斉に俺に突き刺さる。
常務会に国内担当役員(国内支店長クラス)に加え、東京本社からも食品輸入担当役員やその他精鋭たちが参加している。
通常では考えられない、異例中の異例の集まりだ。
その中心に鎮座するのは、T大閥の総帥にして次期社長の座を虎視眈々と狙う、俺の天敵とも言うべき副社長だ。
彼の冷たい目が、俺を射抜いていた。
「さて、青島君。コロンビアでの報告、詳細を頼む」
副社長の低い声が響く。
その声には、冷徹なまでの威圧感と、何かを確信したかのような不穏な響きが混じっていた。
俺は深呼吸し、持参した資料と、頭に叩き込んだ情報を報告した。
現地の治安状況、マリアを通して得た政界の裏情報、そしてコロンビアコーヒーの市場動向……。
そして、ラファについては、あくまで「地元の有力者」という曖昧な表現で濁した。
もちろん、彼の裏の顔については一切触れていない。
俺の報告は、意外にも好評だったらしい。
役員たちは時折頷き、メモを取り、真剣な表情で話を聞いてくれた。
だが、その空気は突如として破られた。
「しかし、青島君。君のコロンビアでの行動について、ニューヨーク支店経由でいくつか報告が上がっていてね」
副社長がニヤリと笑った。
その目に、獲物を追い詰めた獣のような獰猛な光が宿る。
「どうやら、君は現地でマフィア相手に『大立ち回り』を演じたそうじゃないか」
……バレてる。
それも、一番知られたくない部分が、一番ややこしいルートで伝わっている。なぜニューヨーク経由なんだ!
副社長はちょうちん持ちの役員……違った、東京本社貿易管理室の平役員だったが、その人が鬼の首を取ったように経緯を説系してきた。
「この情報は、ニューヨークにいるわが社の精鋭が普段の地道な活動の成果としてワシントンに深く食い込んでおり、そこから君について聞いたそうだよ。
なんでも、カリで大立ち回りをしたそうだね」
東京本社にとって、俺の存在はとにかく煙たかった。
一度はルーマニアのガス田プロジェクトについては、俺らが企画書を挙げて羊毛を輸入から始まったのだが、その羊毛の輸入計画を潰しにかかったにもかかわらず、臆面もなく俺からの情報と人脈を乗っ取り、今やそれを「全社を挙げた一大プロジェクト」として推し進めている最中だ。
その成功が、Fラン大卒の俺の功績に由来しているという事実は、彼らのプライドにとって、耐え難い屈辱だったのだろう。
彼らは、俺を追い込んで辞めさせるか、あるいは二度と目立たないような辺境に飛ばすことを画策していたに違いない。
だが、その思惑に反して、コロンビアでも人脈を作りつつあるという情報が入り、警戒を強めていた矢先の大立ち回りの情報。
彼らはその流れに乗り、俺を完全に潰しにかかるつもりだったのだ。
本来、今回の役員会の議題は、国内営業本部からのコロンビア産コーヒー豆の輸入案件がメインのはずだった。
だが、副社長は、俺を糾弾することで、国内営業本部に借りを作るつもりなのだろう。
彼らは、俺の存在、というか所属が、いまだに岡山になっているかのように話を進めようとしていた。
確かに俺は困ると岡山の所長を頼るが、海外にほっぽり出されているのに、俺の扱いは「国内」として見られているらしい。
「この安宅興商という巨大な組織において、いかなる理由があろうと、個人が独断でマフィアと交渉し、ましてや武力沙汰に発展させるなど、言語道断! 貴様には、安宅興商の社員としての自覚が欠けている! 即刻、辞表を提出してもらうぞ!」
副社長の怒号が響き渡る。
だが、会議室は、俺の処遇だけでは終わらなかった。
いきなり辞表勧告されたが、俺には身に覚えが……無いはずも無いか。
でもでも、俺はあの時はホテルで枦谷と一緒に触れていただけで、一夜明けて方が付いていた。
確かのその前に、市場で地元のヤンキーたち(あれ、あれをヤンキーと呼んでもいいのかな、まあいいか)ともめてダウンタウンを逃げ回った訳だが、それは巻き込まれたわけで、しかも、俺たちからは手を出していなかった。
尤も手を出そうなどとは全く考えないくらいに俺は荒事に弱い。
なので、状況を説明して、言い訳を始めるも、俺の言い訳の途中から、会議を本題に戻そうと国内営業本部長が茶々を入れてきた。
「お前らが、まともにコーヒー豆を輸入できないことを棚に上げて、一般社員を糾弾か。
それも、彼には恩があるのではないかな」
俺のことを知っているのか、かなり痛い所をついてきたので、それに他の役員たちが反論を始める。
やたらと難しい言葉を使いながらあーでもないこーでもないとおおよそお偉いさんが集まってするような話ではなくなってきた。
嫌気を指したのか、本部長が最後にとんでもないことを言い始める始末だ。
「まともに輸入できないどこぞの商社マンが無能だからやむを得なかった、などとよく言えるものだ!」
「それを言うのならば、国内営業は 他の競合他社を儲けさせるとは、あなたには愛社精神が欠けている!」
売り言葉に買い言葉で、本店の国内営業本部長が副社長に食って掛かる。 会議室は一触即発の空気に包まれた。
国内営業本部としては、「うちはコーヒー豆の商売から撤退しないといけないのか」という危機感が募っているのだ。
国内の地方チェーン店が近年人気を博し、全国展開を始めたばかりで、コロンビアコーヒーは今でもかなりの収益を叩き出している。
今後数年にわたり倍々ゲームで取引額が増えていくことが目に見えているだけに、経営企画部門や経理部門の役員が、国内営業本部長をなだめ始めた。
安宅の国内商売として、絶対に引くことができない取引先なのだ。
また、ここからの取引を足がかりに、既存の国内大手チェーンからも引き合いが来ているだけに、国内営業本部としては絶対に引けない案件だった。
東京の海外でのガス田案件と同等、あるいはそれ以上に位置付けが近いだけに、営業本部長の専務は必死だった。
国内営業本部は私学のW大卒派閥が強く、海外のT大卒派閥のような露骨さはないものの、国立私立問わず仕事のできる人間を上に上げているため、東京と比べるとT大閥の力は弱い。
それだけに、副社長は次期社長の座を睨んで、ここでも強気に出ていた。 俺の存在は、まさにその火種となる煙たい存在だったのだ。
彼はここで俺を糾弾することで、国内営業本部に貸しを作るつもりなのだろう。
混乱する会議の最中、枦谷の所属する部長が、本来は役員に資料の説明をするだけの発言権のない立場であるにもかかわらず、俺に問いかけてきた。
「ところで、君、同期の枦谷君が豆の輸入について調べに行ったが、ダウンタウンで襲われたとかで、すぐに帰したそうだが、豆の件は調査は済んでいるのかな」
件の部長は、会議が空転しているので、雑談ついでに聞いてきたようだが、俺から、「望むならばすぐにでも豆を手配できます」なんて答えたら、それを聞いた東京の副社長は烈火のごとく怒りだした。
「青二才に海外取引なんかできるか!」
なんていうものだから、俺は煽るつもりなどなく、小心者のために素直に答えてしまった。
「はい、東京本社の方の様にかっこよくきれいな事務所からの取引は私にはわかりませんが、現場にいれば私でも羊毛の取引をできましたし、つい最近まで倉敷繊維様の羊毛の輸入は私がしておりましたが」
なんて答えるものだから、副社長は余計に怒り出す。
副社長と同じ派閥の海外担当役員も副社長に同意して騒ぎ出した。
何せ、一度羊毛の件で邪魔を働き、岡山の所長に怒鳴り込まれて、配下の課長の首を飛ばしたばかりだ。
ここで何がなんでも俺を潰さないと気が済まないらしい。
だが、商売がかかっている神戸の国内営業担当の役員たちからは、一斉にそれらについて反撃が始まった。
「ならすぐにでも豆を輸入して見せてくれ。先に青二才でもと言っていたが、その青二才ができると言っているのだから、君らにはそれこそ片手間なことだろう」
これを言われると、流石にコーヒー豆の市況を知らないはずのない者たちの顔色が変わる。
「青島君。本当に豆の件は問題無いのか」
「問題と言いますか、この件ですが、私がカリまで出向いた時に判明したのですが、中国マフィアが絡んでおりましたので」
俺がそう答えると、会議室は一瞬静まり返った。
マフィアという言葉が、まるで爆弾のように響き渡る。
「そのマフィアはどうした」
副社長が険しい顔で問う。
「ええ、コロンビアの知人の助力……いや、尽力がありまして、完全に排除されました。その後に、彼らに虐げられていたコーヒー農園主が小さな集まりを作りましたので、そこに話を持っていけば輸入はできます」
「そ、そん筈あるか。今は世界中でコーヒー豆がひっ迫している上に、アフリカ産の不作も重なりさらに難しいはずだ」
東京の役員が血相を変えて反論する。
「世界の状況は存じ上げておりませんが……コロンビアでは今までそのマフィアに奪われるように持ち去られた豆が宙に浮いている状況だと聞いておりますが」
俺が淡々と事実を告げると、会議室はさらに混乱に陥った。
そこから、両者の捨て台詞が飛び交い、会議は収拾がつかないまま終結した。
「東京が輸入しないというのなら、この件は国内が仕切る!」
「まともに海外貿易など知らない者に簡単に貿易ができるか。できるものならやってみろ。この件にあたっては東京は一切協力できないからな!」
なんかすごいことになってしまったが、俺の処分については、結局のところ、有耶無耶のまま、訳の分からない結果に終わった。
混乱の中で、俺の降格の件はどこかに飛んでいってしまったようだった。 俺は、役員会議室という名の戦場から、疲労困憊で這い出すことしかできなかった。




