第34話 コーヒー農園の開放
英雄(に仕立て上げられた)枦谷優斗を半ば無理やり帰国の途につかせた後、俺はカリの最高級ホテルの部屋で一人、途方に暮れていた。
やれやれ、親友の恋路を救うという崇高な(?)目的は達成されたわけだが、俺のカリ出張はまだ終わっていない。
終わってたまるか。あれはあくまで「私的」な救援活動。俺は安宅興商の社員として、公務でこの地に来ているのだ。
コーヒー豆の流通を妨げていた中国マフィアは、ラファとその謎の「友人」たちによって壊滅した。
これで市場は正常化に向かうだろう。
だが、報告書に「マフィアを潰したら解決しました」と書くわけにはいかない。
そんな報告書を提出したら、俺は本社で精神鑑定を受ける羽目になる。
「さて、どうしたものか……」
今回の出張目的は、あくまでコロンビアにおけるコーヒー豆の生産・流通状況の視察だ。 カリでの一件は、その前菜に過ぎない。
本丸は、この国のコーヒー生産の心臓部、「コーヒー・トライアングル」と呼ばれるキンディオ、リサラルダ、カルダスの三県だ。
ここまで来て、手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。
俺が決意を新たにしていると、部屋の電話が鳴った。
ラファからだった。
「ナオト、例の友人は無事に飛び立ったか?」
「ああ、なんとか。英雄の称号を土産にな」
俺が皮肉たっぷりに言うと、ラファは電話の向こうで笑った。
「そうか。で、お前はどうする? ボゴタに戻るか?」
「いや、予定通りコーヒー地帯を回る。これが俺の仕事なんでな」
「そうか。ならば、話が早い」
ラファは「これからカリでの後始末がある」と言い、残念ながらここでお別れだと告げた。
だが、と彼は続けた。
「俺の友人を二人、お前に付けよう。彼らが道中の面倒を見てくれる」
友、人……?
俺の脳裏に、昨夜の特殊部隊まがいのスーツ集団がよぎる。
いやいや、まさかな。
「いや、そこまでしてもらうわけには……」
「遠慮はするな。彼らも、ちょうどそちらの方面に『仕事』があるらしい。それに、お前には借りがあるからな」
市場での騒動が役に立った件を言っているのか。
この男の貸し借りの勘定は、どうにもスケールがデカすぎてついていけん。
有無を言わさぬラファの口調に、俺は結局「お世話になります」としか言えなかった。
やれやれ、俺の人生、どうしてこうも自分の意志とは無関係に物事が進んでいくのか。
翌朝。
ホテルの正面玄関に降りていくと、そこには見慣れない一台の黒いトヨタ・アルファードが停まっていた。
そして、その傍らには、見るからにカタギではないオーラを放つ男が二人。
一人は、がっしりとした体格に高級そうなスーツ、そして顔の半分を覆い隠すようなレイバンのサングラス。
もう一人は、少し痩せ型だが、蛇のように鋭い目つきをした男で、口元には手入れの行き届いた髭をたくわえている。
二人とも、肌は日に焼け、その立ち姿には一分の隙もない。
「……どうも」
俺が恐る恐る声をかけると、サングラスの男が分厚い手で俺の手を握りしめてきた。
握力が異常だ。骨が軋む。
「青島さんだな! 俺はフェルナンドだ。ラファの友人だ。こっちはリカルド」
髭の男、リカルドが軽く頷く。目は笑っていない。
完全に獲物を品定めする目だ。
「フェルナンドさんは、カリで農産品の扱いなどを?」
俺がラファから聞いた情報を口にすると、フェルナンドはニカっと笑った。
「ああ、そうだ! 農産品の『流通』をスムーズにするのが仕事でな! 害虫駆除とかも得意だぜ!」
害虫駆除。
絶対にその言葉通りの意味じゃない。
俺の背筋を冷たい汗が伝う。
「リカルドさんも、コーヒー産地で同様の?」
「まあ、そんなところだ。俺の場合は『土地問題』の整理が専門だがな」
土地問題の整理。
もう何も聞きたくない。
この人たち、絶対にビジネスマンの顔をしたフィクサーか何かだろ。
ラファの友人、人脈の幅が広すぎる。
運転手付きのアルファードの、広々とした後部座席に押し込まれる。
革張りのシートは快適そのものだが、両脇を固めるのがこの二人だと思うと、全く落ち着かない。
まるでマフィアのボスに拉致される下っ端の気分だ。
いや待て、俺は一応、大手総合商社の主任なんだぞ。
「さあ、行こうか! まずはキンディオ県を目指す!」
フェルナンドの陽気な声と共に、アルファードは静かにカリの街を滑り出した。
これから始まるであろう珍道中に、俺はただただ天を仰ぐしかなかった。
キンディオ県へ向かう道は、アンデスの山々を縫うように続く。
車窓からの景色は絶景の一言だが、俺の心は一向に晴れない。
隣のフェルナンドは鼻歌交じりだが、そのサングラスの奥の視線は常に車外の状況をスキャンしている。
リカルドに至っては、瞑目しているように見えて、全身からピリピリとした警戒のオーラを発している。
そして、お約束のように、トラブルは起こった。
ある小さな村を抜けようとした時、道の真ん中に数台の車が無造作に停められ、行く手を阻んでいた。
車の周りには、見るからに柄の悪い連中がたむろしている。
その顔つきには見覚えがあった。
市場で騒ぎを起こしていた中国人マフィアの残党だ。
「やれやれ、まだゴキブリが残っていたか」
フェルナンドが、心底面倒くさそうに吐き捨てた。
「青島さんは車の中に。少し『掃除』してくる」
リカルドが静かにそう言うと、二人は車を降りた。
俺は運転手に「絶対に車から出るな」と念を押され、固唾を飲んで成り行きを見守る。
残党どもは、高級車から降りてきたフェルナンドとリカルドを見て、最初はカモが来たとでも思ったのだろう。
下品な笑みを浮かべ、何事か喚きながら取り囲んだ。
だが、次の瞬間、俺は目を疑った。
フェルナンドが相手の一人の腕を掴んだかと思うと、人間がそんな方向に曲がるはずのない角度に関節を極め、悲鳴を上げる暇もなく地面に叩き伏せる。
リカルドは、まるで踊るように相手の攻撃をかわし、的確に急所だけを打ち据えていく。暴力というよりは、もはや芸術的なまでの「制圧」だった。
あっという間だった。ほんの数分で、10人近くいた残党は全員、道の脇で折り重なるようにして伸びていた。
フェルナンドはスーツの埃を払い、リカルドはハンカチで指先を拭っている。
「終わったぞ。さあ、行こう」
何事もなかったかのように車に戻ってきた二人に、俺はもうツッコむ気力もなかった。
この人たち、絶対にただのビジネスマンじゃない。
車が再び走り出すと、道の脇から、恐る恐る様子をうかがっていた村人たちが出てきた。 その中の一人の老人が、俺たちの車に向かって深々と頭を下げるのが見えた。
その目には、感謝と安堵の色が浮かんでいた。
俺たちが最初に訪れたのは、キンディオ県にある、とあるコーヒー農園だった。
アルファードが農園の入り口に着くと、大勢の農園主たちが出迎えてくれた。
彼らは、さっきの村での一件をどこからか聞きつけたらしく、フェルナンドとリカルド、そしてなぜか俺を見るなり、わっと歓声を上げた。
「グラシアス! ムーチャス・グラシアス!(ありがとう! 本当にありがとう!)」
「救世主だ! 長い間、奴らの嫌がらせに苦しめられてきたんだ!」
どうやら、あのマフィアの残党たちは、この地域の農園に寄生し、不当に安い価格で豆を買い叩いたり、従わない農園には嫌がらせを繰り返したりしていたらしい。
それが、俺たちが(というか、お供の二人が)通っただけで解決してしまったというわけだ。
農園主たちに案内され、農園の中心にある家に通される。
そこで紹介された代表の男性は、日系三世のタナカさんと名乗った。
「青島さん、本当にありがとうございました。我々は長年、あのチャイニーズマフィアの圧力に苦しめられてきました。彼らは販路を牛耳り、我々が他の業者と取引しようとすると、様々な妨害をしてきたのです」
タナカさんの話によると、この地域には品質の高いコーヒーを生産しているにもかかわらず、マフィアのせいで販路が限定され、大手の商社などとはまともな取引ができていない中小規模の農園が数多くあるという。
その中には、タナカさんのような日系人の農園も少なくなかった。
「彼らがいなくなった今、我々はようやく、自分たちの豆を正当な価格で売ることができます。ですが、正直なところ、どこにどうやってアプローチすればいいのか……」
タナカさんは、期待と不安が入り混じった目で俺を見た。
その時、俺の頭の中で、岡山のドブ板営業で叩き込まれた商社マンとしての勘が働いた。
これは、チャンスだ。
「タナカさん、皆さん。もしよろしければ、皆さんの農園を一つのグループとしてまとめ、日本の商社と直接取引するというのはどうでしょう?」
俺の提案に、農園主たちがざわめいた。
「グループ、ですか?」
「そうだ。バラバラに交渉するよりも、ある程度の規模をまとめて共同で出荷すれば、交渉力も増す。輸送コストも削減できる。安宅興商が、その窓口になります」
もちろん、俺一人の判断で決められる話ではない。
だが、この質の高いコーヒー豆を安定的に確保できるルートを新規に開拓できれば、本社にとっても大きなメリットになるはずだ。
俺の言葉に、農園主たちの顔がパッと明るくなった。
「ぜひお願いしたい!」
「我々の豆を、日本の皆さんに!」
話はとんとん拍子に進んだ。
俺は、その場で集まった十数件の農園を一つのグループとして組織化することを提案した。
「ただし、言っておくが、俺は取りまとめ役なんてごめんだぞ」と心の中で叫びつつ、俺は隣に座る二人の男に視線を送った。
「そこで、だ。このグループの現地での取りまとめ役は、このお二方にお願いしたい。彼らは『流通』と『土地問題』のプロだ。これ以上の適任はいない」
俺がそう言うと、フェルナンドとリカルドは、一瞬きょとんとした後、ニヤリと笑った。
「なるほどな。青島さん、あんたも中々の策士じゃないか」
「いいだろう。その話、乗った。ラファにも良い報告ができる」
こうして、俺は図らずも、コロンビアのコーヒー産地に新たな生産者グループを誕生させ、その顧問に納まり、さらにその面倒な実務はすべてラファの友人(という名のフィクサー)に丸投げすることに成功したのである。
ボゴタに戻った俺は、早速この一件をレポートにまとめた。
キンディオ、リサラルダ、カルダスの三県にまたがる中規模農園グループの結成。
確保可能なコーヒー豆の推定数量は、一商社が単独で扱うには巨大すぎるほどの規模になる見込みだ。
マフィアという障害がなくなった今、これは安宅興商にとって、とてつもないビッグチャンスになるはずだった。
俺は興奮気味にレポートを本社に送信した。
すぐにでも高い評価を得て、主任から一気に課長代理くらいに昇進するんじゃないか。
そんな淡い期待を抱きながら、返信を待っていた。
数日後。
ついに本社から連絡が来た。
国際電話の呼び出し音に、俺は少し緊張しながら受話器を取る。
相手は、人事部の部長だった。
「青島君か。コロンビアでのレポート、拝見した。実に素晴らしい内容だ」
「は、はあ、ありがとうございます!」
やった! やはり高評価だ!
「ついては、君に一度、急ぎ帰国してもらいたい。役員会で、君から直接話を聞きたいそうだ」
……役員会?
俺の脳内で、警報が鳴り響いた。
ただの報告で、役員会? しかも、人事部長の口調が、どこか硬い。
「あの、それは一体……」
「詳細は言えんが、君のカリでの行動について、ニューヨーク支店経由でいくつか報告が上がっていてね。どうやら、君は現地でマフィア相手に大立ち回りを演じたそうじゃないか」
……バレてる。
それも、一番知られたくない部分が、一番ややこしいルートで伝わっている。
なんでニューヨーク経由なんだ!
「英雄に仕立て上げた枦谷君のことは、幸い伝わっていないようだ。問題になっているのは、あくまで君の存在だ。青島直人、君一人だよ」
電話の向こうで、人事部長は淡々と告げた。
「というわけで、可及的速やかに帰国したまえ。役員一同、君を『お待ちかね』だそうだ」
ガチャン。
一方的に切られた電話を、俺は呆然と持ったまま立ち尽くした。
やれやれ、俺の人生、なんでいつもこうなんだ。
手柄を立てたつもりが、とんでもない地雷を踏み抜いていたらしい。
役員会でのお呼び出し。それは、Fラン卒の落ちこぼれが、断頭台に送られるのと同義語だ。
コロンビアの青い空が、急に色褪せて見えた。
俺の逆転社会人人生、最大のピンチの到来である。




