第32話 市場での騒動
カリでの最初の夜は、あっという間に明けた。
時差ボケと長旅の疲れ、そして最高級ホテルのふかふかすぎるベッドにやられたのか、親友の枦谷はまだ夢の中である。
やれやれ、気持ちは分かるが、今日からが本番だというのに、この男は相変わらずマイペースだ。
俺はというと、ルーマニアでのサバイバル生活のおかげか、どこでも眠れるたくましい神経を手に入れてしまったらしい。
すっきりと目覚め、部屋のバルコニーからカリの街を眺める。
アンデス山脈の麓に広がる街は、朝の光を浴びて活気に満ち溢れていた。
「さて、どうしたものか」
枦谷が起きるまで、俺は今日の行動計画を練る。
隣のスイートにはラファが、そしてその周辺の部屋にはマリアとイオナが滞在している。
Fラン大卒の元落ちこぼれ商社マンと、恋に悩む日本のエリート商社マン、謎のルーマニア系大富豪、その才色兼備の秘書、そしてルーマニアから俺を追いかけてきたお嬢様。
なんだこのカオスなチームは。
もはや商談というより、ハリウッドのB級アクション映画の撮影でも始まりそうだ。
しばらくして、ようやくもぞもぞと起き出してきた枦谷と合流し、マリアとイオナも交えて4人で朝食をとった後、俺たちはカリの街へ繰り出すことにした。
まずは現地の空気を肌で感じることが重要だ。ドブ板営業の基本である。
「す、すごいな……」
タクシーを降り、セントロ(中心街)の市場に足を踏み入れた枦谷は、目を丸くして呟いた。
色とりどりの果物や野菜、香辛料の匂い、飛び交うスペイン語の怒声にも似た活気。
日本の整然としたスーパーマーケットしか知らない彼にとって、この猥雑なまでのエネルギーは衝撃的だったらしい。
「青島、見てみろよ、あのバナナの大きさ!」
「ああ、こっちじゃ普通だ」
はしゃぐ枦谷の隣で、俺は周囲への警戒を怠らない。
そして、その警戒はすぐに現実のものとなった。
原因は、俺の隣を歩く二人の美女である。プラチナブロンドの髪をなびかせるマリアと、東欧系の整った顔立ちを持つイオナ。
この二人が揃って歩けば、当然ながら、嫌でも目立つ。
市場の男たちの視線が、面白いように突き刺さってくるのが分かった。
そして、ついにその時が来た。
道の真ん中でだべっていた、見るからに柄の悪い地元の若者グループの一人が、俺たちの前に立ちはだかったのだ。
「おい、チーノ(中国人)」
ニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、男は俺の顔を覗き込む。
やれやれ、またこのパターンか。
東アジア系の顔立ちは、彼らにとって十把一絡げに「チーノ」なのだ。
「何の用だ?」
俺が面倒くさそうに答えると、男は俺の肩をドンと突いた。
「威勢がいいじゃねえか。お前ら中国人は、最近このカリで随分と偉そうにしてるらしいな。おまけに、そんな綺麗なチャンネーを二人も侍らせて、いいご身分じゃねえか」
男の仲間たちがゲラゲラと笑う。
どうやら、最近この地で羽振りを利かせている中国人と俺たちを混同し、嫉妬とやっかみから因縁をつけてきた、という構図らしい。
全くもって迷惑千万である。
俺の人生、どうしてこうもテンプレートなトラブルに巻き込まれるのか。
「人違いだ。俺は日本人だ」
「ああ? 日本人も中国人も同じだろうが!」
ダメだ、話が通じない。
完全に酔っ払いに説教するのと同じレベルの不毛さだ。
俺の後ろで、枦谷が完全に怯えきっているのが気配で分かる。
マリアとイオナは冷静な表情を崩さないが、その瞳には警戒の色が浮かんでいた。
「金を出せよ、チーノ。そしたら見逃してやる」
「断る」
俺が即答すると、男の顔色が変わった。
「なんだと、てめえ!」
男が拳を振り上げた、その瞬間だった。
「何をごちゃごちゃやっている」
野太い声と共に、俺たちと若者グループの間に、新たな集団が割って入ってきた。
屈強な体つきの男たち。
その顔つきは、明らかに地元の人間とは違う。
鋭い目つき、統制の取れた動き。
そして、その中心に立つ男の顔を見て、俺は息を呑んだ。
こいつら、本物だ。
若者グループのリーダーが、一瞬怯んだように見えた。
だが、彼もここで引くわけにはいかないと思ったのか、虚勢を張って怒鳴り返す。
「なんだてめえら! こいつらは俺たちの獲物だぞ!」
その言葉が、最悪の引き金となった。
後から現れた男たち――本物の中国人マフィアであろう連中――は、一斉に若者グループに襲いかかった。
市場のあちこちで悲鳴が上がり、果物や野菜が宙を舞う。
あっという間に、ただのチンピラのいざこざが、本格的な大乱闘へと発展してしまった。
「うわあああ!」
枦谷の情けない悲鳴が響く。
彼は完全に腰を抜かし、その場にへたり込んでいた。
いや待て、お前エリート商社マンだろ!
少しは戦え!
無理か!
俺は咄嗟にマリアとイオナを自分の背後にかばう。
マフィアの男の一人が、獲物を見るような目でこちらに近づいてきた。
万事休すか。
俺が腹を括った、その時だった。
「そこまでだ!」
市場の入り口から、今度はスーツを着た屈強な男たちが、雪崩れ込むように現れた。
その手には鈍く光る何かが見える。まずい、銃か!?
いや、違う。彼らはマフィアたちを鮮やかな手際で取り押さえ、あっという間にその場を制圧してしまった。
呆然とする俺たちの前に、スーツ集団のリーダーらしき男が進み出て、深々と頭を下げた。
「青島様ですね。ラファ様より、お迎えに上がるよう申しつかりました。ご無事で何よりです」
……ラファ。
この騒動の真っ只中に、なんというタイミングで現れるのか、あの男の手下は。
もはや神出鬼没というレベルを超えている。
俺は天を仰ぎ、深く長いため息をつくしかなかった。




