第27話 流転の南米、エスプレッソより濃い人生
コロンビア、ボゴタ。
標高2600メートルという、酸素すら薄い高地にあるこの街は、熱気とスモッグとバイクのクラクションが渦巻く、まさしく“カオス”という言葉を具現化したような場所だった。
ルーマニアでの「所長(仮)」という束の間の栄光から一転、「雑務係」への降格、そしてまさかの「娘(成人済)」同棲という衝撃展開を経て、俺の“流転のサラリーマン人生”は、またしてもゼロから、いや、むしろマイナスから始まったのだ。
名前もポジションも相変わらず“仮”のままだ。
たぶん、この国の郵便配達員の方が、俺よりも正確な身分証明書を持っているに違いない。
「はあ……ボゴタ、ってどこだよ!」
空港に降り立った瞬間から、俺は途方に暮れていた。
ルーマニアの空港ですら戸惑ったのに、ここコロンビアはさらに混沌としている。
飛び交うスペイン語はまるで呪文のようで、看板の文字すら読めない。
案内所もどこか適当な雰囲気で、助けを求めるにも一苦労だ。
こういう時にルーマニアだったらイオナがいたが、流石に南米にまでは来ていない。
俺は一人、異国の喧騒の中で立ち尽くしていた。
本来、安宅興商のような大手総合商社が新たに海外拠点を設ける際には、綿密な市場調査を行い、現地の法務・財務体制を整え、万全の準備をもって正式な布陣で臨むのが常だ。
ルーマニアで設立した「仮設事務所」ですら、形式上は現地の商取引を担う事務所であり、その「事務所長」の格としては本社部長待遇が妥当とされるはずだった。
最低でも課長職は必要だったところを、俺というFラン大卒の係長を「仮設」という制限を設けることで例外的に就かせた、前代未聞の措置だったと人事部からは聞かされていたのだ。
だが、今回命じられたボゴタの事務所は、商取引を目的としない、いわば「アンテナ事務所」扱いだ。
市場の動向や治安情報、文化的な背景など、世界で商売をする上での基礎的な情報収集やサポートを担うことが主目的であり、係長の職位があれば十分なはずだ。
そう、係長以上の職位と経験、それに能力が必要だということなのだ。
にもかかわらず、俺はルーマニアでのガス田プロジェクトで手柄を横取りされ、主任に降格させられていたのだ。
いや、確かの降格されての主任ではあるけど、先に上げた所長の条件である経験もまだ入社数年のいわばルーキー、あるはずが無いだろう。
本社ではエリートに選ばれたわずかな優秀な人がそろそろ初の海外出張を経験するくらいの経験値になる……俺の場合は岡山の木下先輩…いや、所長の無茶苦茶な指令で一年も経たずにルーマニアに飛ばされたけど、あの時は経験豊富??木下先輩と一緒に行動していたので、それでも俺は心配で緊張したのだが、今回は……何!どういうことなの!!
先の条件で一番大切な能力を考えても英語すらろくにしゃべれない俺に能力などあるはずもない。
幸い電波さえ飛んでくればスマホが使えるので、偉大な先生がカメラで捉えた情報を日本語に変えてはくれるが、目にする看板ですら怪しいのがここには多すぎる。
しかも職位だけあれば問題ないとばかりの丸投げ体質はルーマニアから何も変わっていない。
ここでも辻褄合わせのために、前代未聞の「主任でも所長ができる」という例外中の例外として、このボゴタに「仮設主任所長」という、またもや曖昧でふざけた役職を押し付けられたというわけだ。
こんな丸投げの体制で、言葉もろくに分からない俺が、本当に事務所を設営できるのか?
途方に暮れながら、俺はポケットに忍ばせていたスマホを取り出した。
本当に良い時代に俺は生きていた。
スマホが無ければ、とっくに野垂れ死んでいただろう。
スマホでアドバイスを探そう……あ、思い出した。
こんな時、頼れるのは……あの男しかいない!
「なんでも力になる」とか言っていたからな。
俺は、数ヶ月前に日本に帰国する飛行機の中で、ずっと隣に座っていた男で、空港を出た時に急病で倒れたところを助けたことがあった。
機内で倒れていれば、俺は何もせずに済んだのに、つくづくトラブル体質だとあの時は考えたが、何が幸いするかわからないものだ。
尤も、その彼が言葉通りに助けてくれるはまだわからないが、それでも藁にはなるのだろう。
俺はそのわらにすがる気持ちで連絡を取る。
彼の名はラドゥ・ポペスク。
どう見てもカタギには見えない強面のコーカサス人だったが、命を救ったお礼にと
「コロンビアに来ることがあれば、どんなことでも力になる」と名刺をくれたのだ。
あの時の名刺交換が、まさかこんな形で役立つとは。
俺は震える指で、その名刺に書かれた番号に電話をかけた。
数コール後、電話の向こうから、あのドスの効いた声が響いた。
「よう、ジャポネス。ここに来るとは聞いてたぜ。まさか、お前が本当に連絡してくるとはな、ハッハッハ!」
俺は、現在の状況を必死で説明した。
事務所設立の任務があるが、右も左も分からないこと、予算もろくにないこと、そして何より、言葉の壁が厚すぎること。
ラファは、俺の話を黙って聞いていた。
そして一言、 「オマエ、根性あるな。よくそんな仕事を受けたものだ。まあ、俺の目の届く範囲にいるうちは安心してくれ。うちの連中、チンピラばかりだが、誰か手こずらせたら俺が責任取る」
こっちは笑うしかなかった。
羊毛→ガス田→コーヒーと太陽の国ときて、今度は命のやりとりかよ、と。
数時間後、空港の到着ロビーで、あの巨漢の男が迎えに来てくれた。
ラドゥ・ポペスク、通称ラファ。
地元の名士にして、どう見てもギャングと紙一重の存在だ。
「助けてもらった恩は必ず返す。さあ、まずは事務所だ。適当な場所に空いている一軒家を押さえておいた」
ラファの「適当な場所」という言葉に、俺は一抹の不安を覚えたが、彼に案内されたのは、ボゴタの高級住宅街の一角にある、広大な敷地を持つ豪奢な一軒家だった。
「……ここ、が、事務所?」
俺は呆然と立ち尽くした。
石造りの外壁、手入れの行き届いた庭、噴水まである。
中に入れば、大理石の床に、アンティークの家具が並び、シャンデリアまで吊るされている。
これ、どう見ても「元・クリーニング店」だったルーマニアの事務所とはレベルが違いすぎる。
いや、俺が泊まっていたホテルよりも豪華だ。
「ああ。表向きは輸入業者の倉庫ということになっている。住居としても使って構わん。事務所の立ち上げには人手も必要だろう。一つ礼として、君に“秘書”を準備しておいた。言葉もできるし、仕事もできる。たまに……夜も尽くす」
ラファはニヤリと笑った。その「夜も尽くす」という部分だけ、声がやけに低い。
俺は内心、「なんでそこだけ声が低くなるんですか!?」 と叫びそうになったが、口を閉じた。
そして、彼の後ろから現れたのは、息を呑むような美しさの女性だった。
「アオシマさん、はじめまして! マリアです! 今日からお世話になりまーす! 私があなたの秘書よ!」
太陽のような笑顔を振りまく、エキゾチックな美貌の持ち主。
鮮やかな色のワンピースを身につけた彼女は、まるでこの混沌としたボゴタの街に咲いた一輪の花のようだった。
正にここはコーヒーと太陽の国だな、コーヒーは知らんが、目の前に太陽だけはある。
「アオシマさん、悪くないじゃない? 私のタイプよ♡」
マリアは、出会ったばかりの俺の腕に、当たり前のように腕を絡ませてきた。
「……え、いや、待って、秘書ってそういう!?」
俺の抗弁は、一切聞かれなかった。
ラファは満足そうに頷くと、踵を返し、足早に去っていった。
まるで、俺に最高のプレゼントを押し付けて、とっとと逃げ去ったかのように。
こうして、俺のボゴタでの「仮設事務所」設営は、豪邸と、飛び切りの美女秘書との奇妙な同棲生活という、予測不能なサスペンスドタバタコメディとして幕を開けたのだった。




