第23話 帰国
俺はブカレストのオフィスで、まるで魂の抜けた人形のように雑務をこなす日々を送っていた。
俺の仕事は、本社から来たエリート軍団のコーヒー係であり、会議室の予約係であり、そしてA3両面コピーの専門家だ。
なんというか、ルーマニアに来てまで、俺は“Fラン大卒のパシリ”という宿命から逃れられないのかと、半ば諦めに近い感情を抱いていた。
長谷川は隣で相変わらず飄々としていたが、彼の忙しさは俺とは次元が違う。
彼は文字通り「プロジェクト現場の鬼」として、国家レベルの天然ガス田開発プロジェクトの最前線でギラギラと目を光らせていた。
俺の目には、長谷川の背後に「経験値20000」「レアアイテムドロップ率アップ」みたいなオーラが見える気がした。
くそ、俺のRPGだけ難易度おかしくないか?
旧仮設事務所は閉鎖され、エレナはヴァシレとの結婚、もはや俺の元を訪れることはほとんどなかった。
もちろん、彼女が幸せになるならそれが一番だ。
そう、俺は「出来た男」を演じたのだ。
だが、心にぽっかり空いた穴は、インスタントでないコーヒーを何杯飲んでも埋まらなかった。
しかし、そんな俺にも、一筋の光……いや、正確には、「時限爆弾」のような存在が残っていた。
イオナだ。
彼女はエレナとヴァシレの新居に引っ越してからも、なぜか頻繁に俺の住処に顔を出した。
「ナオト、今日のコーヒー、濃すぎる。私が淹れてあげる」
そう言って、勝手に俺のデスクに座り、コーヒーを淹れ始める。
その横顔は、もはや昔のスラムで怯えていた少女の面影はどこにもない。 スラリとした手足に、自信に満ちた眼差し。
そして、俺の顔を見るたびに、ほんの少しだけ顔を赤らめる仕草が、俺の心臓を不意打ちでドクンと跳ねさせるのだ。
「それにしても、こんな雑用ばかりやっていて、Fランの面目丸つぶれね」
口を開けば毒舌だ。
だが、その毒舌が、なぜか心地よかった。
エレナとの関係は、彼女の婚約を機に自然とフェードアウトしていったが、イオナとは……そう、不思議な関係が続いていた。
デートというような洒落たものではない。
だが、週末の夜、彼女がひょっこり住処に現れると、俺たちは互いの体温を確かめ合うように、夜を過ごすことがあった。
ルーマニアでの孤独な日々を共に生き抜いた「戦友」のような連帯感が、いつの間にかそれ以上のものへと変化していたのだろうか。
俺には、その関係が何なのか、言葉にすることができなかった。
言葉にしたら、もっとヤバいことになる気もした。
そんなある日、事務所に「いかにも」な一団がやってきた。
ピカピカのスーツを身につけた、見るからにエリート集団だ。
先頭を歩くのは、見るからに切れ者といった雰囲気の男。
「安宅興商、東京本社、農産品事業本部、繊維原料部の佐藤です。青島係長、ご苦労様です」
「は、はい! 青島です!」
係長。
そう、ルーマニアに来て「所長」とまで言われた俺の正式な肩書きは、いまだ「係長」のままだ。
今やっている仕事と階級が全くマッチしていないが、社内の規則上俺に無理やり事務所長にするものだからややこしくなっていた。
「今回、この事務所で扱っている羊毛ですが、うちの事業本部で引き継ぎを行うことになりました」
彼は事務的にそう告げた。
どうやら、ルーマニアでの羊毛取引が、ついに本格的な事業部レベルの仕事に昇格したらしい。
あの木下さんと俺のドブ板営業が、ついに東京本社を動かしたのだ。
やったぞ、俺!
……いや、でも、俺の仕事は?
引継ぎそのものは、あっけないほど簡単だった。
これまで俺が泥水をすすって開拓してきた現地のルートや、賄賂と友情の狭間のような交渉術は、彼らにとって「興味深い現地情報」として、クールにタブレットに打ち込まれていった。
俺の汗と涙と、時々血の滲んだ奮闘が、データに変換されていくのを見るのは、なんとも言えない気分だった。
まるで、俺の冒険が誰かのゲーム攻略本に載るような感覚だ。
「青島係長、引き継ぎはこれで終わりです。ありがとうございました」
彼はそう言うと、俺の肩をポンと叩いた。
その目に、「よくやった」という労いと同時に、「もう君の役目は終わった」という感情が同時に宿っているのが見て取れた。
「これで、俺は何を……?」
俺は呆然と立ち尽くした。
羊毛の仕事もガス田の仕事も、全部本社に取られた。
残されたのは、コーヒー係と、A3両面コピー係の肩書きだけだ。
俺は、このルーマニアで、完全に「お役御免」になったのか?
数日後、俺は所長室に呼び出された。
まさか、俺の雑務係としての仕事ぶりを褒めてくれるのか?
そんなはずはない。
足取りは重い。
「青島係長」
東京から来た部長は所長として仕事をしている。
その彼が、いつものように感情のない声でそう言った。
その部屋には、長谷川の姿もあった。
彼もまた、何かを察したかのように静かに俺を見ている。
「君のブカレストでの任務は、これにて終了だ。つきましては、日本に帰国してもらう」
「……え?」
帰国?
ついに俺は、本社から完全に「お払い箱」にされるのか?
いや、それならそれで、実家の布団にダイブできるぞ!
長峰さんにも、今度こそ「おかえり」と言ってもらえるかも!?
一瞬だけ、頭の中がお花畑になった。
「ただし」 部長の冷たい声が、俺の妄想を打ち砕いた。
「次の赴任先も海外だと聞いてはいるが、本店に出向いた時に辞令を渡されるから問題は無いな」
……は?
「君のこれまでの『現地適応力』を高く評価してのことだ。また一から、何もないところからビジネスを立ち上げてくれ」
……いや、待て待て待て。
何もないところから立ち上げるのは、もうルーマニアでやったんだよ!
しかも「現地適応力」って、それ「スラムで生き残る力」ってことじゃないか!?
俺が力なく呟くと、部長は「これは本社からの命令だ」と一言。
長谷川が横で、肩を震わせて笑いをこらえているのが見えた。
くそ、こいつ……!
その日の夜、俺は住処に戻り、イオナに今回の社命について話した。
「私は日本に帰ることになった」
イオナは、何も言わずに俺の顔をじっと見つめていた。
その瞳の奥に、何かを秘めているような光が宿っている。
「私、お母さんの再婚、賛成。でも……あなたのそばにいたい」
まっすぐな目に、俺は曖昧な笑みしか返せなかった。
心臓が、ドクンと跳ねる。
まさか、イオナがそこまで言うとは。
「イオナ、お前が本気なら……日本に来るか。イオナなら頭も良いから大学にでも通うか。何なら俺が面倒を見るぞ」
俺は、少し考えてからそう言った。
言葉に出してみると、その重さに、俺自身が驚いた。
日本で大学にでも通うか。
それなら、俺が面倒を見ることもできる。
だが、イオナが国を離れるのはたやすいことでは無い。
元々スラム出身の人間で、戸籍も曖昧な親子だ。
まだまだ旧共産圏の悪しき文化も残るこの地で、パスポートを取るにも一苦労だ。
もちろん、そう簡単にはいかない。
ルーマニアの役所の鉄壁ぶりは、俺が身をもって体験済みだ。
普通に申請したら、パスポートが発行されるまでに年単位でかかるだろう。
「じゃあ、準備が整ったら連絡をくれるか? 俺は先に日本に帰るが……」
「うん、わかった。ちゃんと連絡する」
イオナは、少しだけ寂しそうな顔で頷いた。
俺たちは、ブカレストの俺の住処で、固い握手を交わし、別れた。
こうして、俺はイオナの準備が整うまで、一度日本へ帰国することになった。




