第22話 蟻と巨人
「やれやれ、勘弁してくれよ、ボス戦第二ラウンドどころか、もうレイドボス戦じゃないか!」と心の中で叫びながら、彼らが俺に気づかないことを祈った。
だが、俺のそんな淡い期待は、彼らが到着ロビーから首都の目抜き通りにある洒落たビルへと直行する姿を目にして、あっけなく打ち砕かれることになる。
俺は、まるで子犬が飼い主に引きずられるように、彼らの後ろをトボトボとついていくしかなかった。
彼らを乗せた高級車は、ブカレストの中心街、ガラス張りの高層ビルが立ち並ぶエリアに滑り込んだ。
そして、一台の車が、ひときわ目を引く真新しいビルディングの前に停車する。
「……おいおい、ここかよ!」
俺は思わず声に出した。
そのビルは、俺が毎日缶ウイスキーを煽っていた元クリーニング店とは、住む世界が違いすぎた。
いや、次元が違う。
宇宙と蟻の穴くらい違う。
「青島くん、こちらへ」
先頭を歩いていた部長クラスの人物が、振り返りもせずに俺を促す。
俺は言われるがまま、ビルの中へと足を踏み入れた。
エントランスは広々としていて、英語とルーマニア語を流暢に操る受付嬢がにこやかに微笑んでいる。
ピカピカに磨かれた大理石の床に、足を踏み入れるのを躊躇するほどだ。
まるで、俺の靴底についているであろうルーマニアの泥が、この神聖な場所を汚すことを恐れているかのようだった。
エレベーターで最上階の一つ下のフロアに到着すると、目の前には想像を絶する光景が広がっていた。
「…………マジかよ」
そこにあったのは、ルーマニア事務所(仮)ではない、正真正銘の「安宅興商ルーマニア駐在員事務所」だった。
それも、俺の知らない間に、完璧な状態で準備されていたのだ。
ガラス張りのオフィスには、新品のきれいな事務机がずらりと並び、最新型のOA機器類が眩しい光を放っている。
シュレッダーは動かなくても紙詰まりを起こさないだろうし、コーヒーメーカーはきっと、インスタントコーヒーではなく、本格的なエスプレッソを淹れてくれるに違いない。
「どうだ、青島くん。君の作ったプレハブとは比べ物にならないだろう?」
部長がニヤリと笑う。
俺の心臓は、まるで荒野を走り回るトナカイのように暴れまわっていた。
「は、はい……全く、想像を超えておりました……」
俺は、震える声でそう答えるのが精一杯だった。
俺の仮設事務所は、まるで捨てられた段ボールハウスだったのに、こっちは「未来の商社」そのものだ。
恥ずかしいどころか、俺の「事務所」の定義が根底から覆された気分だった。
そして、会議室に通された俺は、彼らエリート集団のボス、あの威圧感のある部長から、まさかの指示を受けることになる。
「さて、青島くん。君がこれまでに築き上げてきた功績は高く評価する」
部長の声は、まるで重厚なオーケストラのようだった。
俺は、期待と不安で生唾を飲み込んだ。
褒められるなんて、Fラン大卒の俺には滅多にないことだ。
「だが、この『マナツプロジェクト』は、安宅興商の社運を賭けた一大事業。これからは、より効率的かつ、グローバルな視点で動く必要がある」
部長は、俺の目をまっすぐ見て言った。
その視線は、まるで氷点下のレーザービームのようだった。
「ついては、君のこれまでの事務所は閉鎖する。そして、君は明日から、この新しい事務所に移ってきなさい」
「……え?」
俺の頭の中で、また鈍いセンサーが鳴り響いた。
どっ、どっ、どっ……と、脳内警報が鳴り止まない。
「閉鎖」?
俺の、あのカビ臭いけど居心地の良かった?
仮設事務所が!?
そして、ここに移る?
俺の居場所は、ここなのか?
「何か不満かね?」
部長が冷ややかに問いかける。
俺は慌てて首を横に振った。
「い、いえ! とんでもございません! 御意のままに!」
こうして、俺の“スラムの王子様”生活は、突然の終わりを告げたのだった。
次の日、俺はボロボロのハイエースを借りて、あの元クリーニング店の仮設事務所へと向かった。
ルーマニアでのハイエースが借りられたのには驚いた。
これもかなり俺に気を利かせてくれているらしい。
何せ、旧共産圏だ。
車の多くはロシア製だが、最近はドイツ車も一部見かけるが……高級車しか見ないのはなぜだろう。
階級格差は何処にでもあるらしい。
それで、俺には相変わらず羊毛輸出の仕事はあるが、先月の大口輸出を一度送ったこともあり、少し時間が取れる。
この束の間の平和?を利用して、俺は事務所兼住居の、あのボロイ建物から引き払う作業を始めることになった。
ドアを開けると、そこは生活感の塊だった。
エレナが作った花瓶に活けられた野花、イオナが落書きした壁、そして埃をかぶった俺の私物たち。
数ヶ月前までは、ここが俺の全てだったのに、今となってはまるで遠い昔の夢のようだ。
「やれやれ、まさか俺が、こんな場所から引っ越し作業をする羽目になるとはな……」
俺は一人ごちながら、荷造りを始めた。
埃まみれの段ボール箱を漁ると、中からなぜかルーマニア語の辞書と、母親にもらった「元気が出るおまじない塩」が出てきた。
あの時、ピーマンが刺さった鉄パイプを持ったヤクザに追いかけられた日のことを思い出し、思わず苦笑した。
「おまじない塩、ここでも使うことになるとはな……」
俺は塩を一つまみ指に取り、事務所の隅々にパラパラと撒いた。
これは、悪霊払いではなく、俺の魂の鎮魂歌だ。
荷造り作業は、想像以上に手こずった。エレナとイオナの私物が多く、どれが俺のものなのか判別不能なのだ。
イオナが描いた俺の似顔絵(なぜかいつも、目が点で描かれている)が貼られたマグカップや、エレナが俺の誕生日にもらったからと勝手に使っていた俺のTシャツなど、公私混同の結晶がそこら中に散乱していた。
「おいおい、これ、全部俺の持ち物だったのかよ……?」
俺は呆れながらも、一つ一つ丁寧に段ボールに詰めていく。
これまでのルーマニアでの日々が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
トラブルと、少しの成功、そして、二人の女性との奇妙な関係。
その日の夕方、すべての荷物をハイエースに積み終え、旧事務所の鍵を閉める直前、イオナがやってきた。
「ナオト、今までありがとう」
彼女は、どこか寂しそうな、しかし真っ直ぐな目で俺を見つめた。
「ああ。またな、イオナ」
俺はそう言って、彼女の頭をそっと撫でた。
イオナは引っ越しと同時に事務所を離れ、すでに母のエレナの元に移っていた。
エレナはヴァシレと結婚し、新しい生活を始めていたので、イオナもそちらで暮らすことになったのだ。
俺の心は、少しだけ、切ないような、でも温かいような、複雑な感情で満たされた。
まるで、一つの章が終わり、新しい章が始まる、そんな予感だった。
新しい事務所での俺の立場は、係長待遇のままだったが、その実態は「雑務及び羊毛輸出担当」だった。
つまり、エリート集団の雑用係だ。
朝、オフィスに出勤すると、部長が仁王立ちで俺を待っている。
「青島くん、今度の資料、A3両面でね。あ、あとコーヒー、砂糖なしで頼む」
部長はそう言いながら、俺の目の前に分厚い資料の束を置いた。
そして、手には空のコーヒーカップ。
「……俺、ルーマニアで雑用に来たわけじゃないんですけど」
俺がそう呟いた直後だった。
オフィスの自動ドアが開き、追加チーム20名がドヤドヤと入ってきた。
全員が、見るからにエリート臭をプンプンさせている。
そしてその中に、俺の目が釘付けになる“ひとり”がいた。
「……長谷川……お前っ……!」
「よう、青島。生きてたか。まさか俺が来るとはな、驚いたろ」
そう言ってニヤリと笑うその男――長谷川浩紀。
東京での研修で俺を小馬鹿にしていた、私学トップ大卒の天才肌だ。
技術畑出身で、プロジェクト現場の鬼として知られる変人。
彼は、俺の顔を見るなり、またニヤニヤと笑い出した。
「で、俺とお前しかいねぇんだって? 同期は。ここには」
長谷川が、まるでゲームの攻略本を読み上げるかのように言う。
「ああ。まさかのブカレスト二人会だ……俺は雑用係だけどな」
「……まあ、長嶋じゃなくてよかったろ? あいつは、今それどころじゃないらしいが、それでも俺のことを見て悔しがっていたけどな」
長谷川の言葉に、俺は想像しただけで、笑いがこみあげた。
長嶋が机を蹴り、悔しそうにしている姿……。
ああ、それだけは、このルーマニアまで来てよかったと思える唯一の収穫かもしれない。
俺のルーマニアでの日々は、羊毛輸出の担当という名目で、エリートたちの「雑務係」と化した。
朝から晩まで、俺はコーヒーを淹れ、資料をコピーし、会議室の予約を取り、たまに社内パーティーの準備までさせられる。
まるで、大手総合商社の「何でも屋」だ。
相変わらず、羊毛輸出の仕事もあるが、それはあくまで片手間にこなす“裏業務”のようだった。
本社から岡山の客先に送る大量の羊毛サンプルを検品し、日本への発送手続きを行うのも、もちろん俺の仕事だ。
「青島くん、この羊毛、もう少し光沢が欲しいんだけど」
「え、部長、それは羊毛そのものの問題でして……」
「そうか。では、君の“現地適応力”で何とかしてくれたまえ」
“現地適応力”という言葉は、もはや「青島になんとかさせる」という意味で使われている気がした。




