第19話 トラブル・フライト
「青島、すぐに戻れ。チケットは手配した。関空直行便だ」
電話の向こうの部長の声は、いつになく切迫していた。
俺が「あの、マナツプロジェクトの件で何か…」と言いかけるのを遮り、「いいからさっさと帰ってこい!これは業務命令だ!」とガチャンと切れた。
何なんだ、この扱いは。
まるで俺が何か世紀の大発見でもしたかのような、いや、それにしては口調が荒すぎる。
いつもの「お前、本当に仕事してんのか?」というネチネチした詰問とは明らかに違う熱量だ。
出発の日、エレナとイオナが見送りに来てくれた。ヴァシレももちろん一緒だ。
「ナオト、私の親友よ! 日本の本社とやらに、このヴァシレが全面的にバックアップすると伝えてくれ! すぐに戻ってこいよ!」
そう言って、熊のような巨体で俺を抱きしめる。
肋骨が数本イッたかと思った。
エレナは「体に気をつけて。Naotoは無理しすぎるから」と心配そうに俺の頬にキスをしてくれた。
その隣で、イオナは相変わらずの仏頂面で俺をじっと見つめ、「……ナオト、死ぬな」とボソリと呟いた。
縁起でもないことを言うな。
だが、それが彼女なりの別れの挨拶なのだろう。
空港のカウンターで受け取ったチケットを見て、俺は目を剥いた。
「ビ、ビジネスクラス……!?」
あのドケチで有名な我が社が、俺ごときにビジネスクラスだと?
しかも全額社費。
マナツプロジェクトとやらは、俺の想像を遥かに超える一大事らしい。
有頂天で乗り込んだ飛行機。
ふかふかのシートに身を沈め、ウェルカムドリンクのシャンパンを優雅に傾ける。
これぞエリート商社マンの姿だ。
気分は最高潮だった、隣に乗客が来るまでは。
ドシン、という地響きのような音と共に、俺の隣に巨大な壁がそそり立った。
いや、壁じゃない。
人間だ。
身長は2メートル近く、肩幅は俺の倍はあるだろうか。
彫りの深い顔立ち、鋭い眼光、そして一切の無駄を削ぎ落としたかのような強面のコーカサス人だった。
つい最近までルーマニアで仕事をしていた人たちと同じような人種、つまり、どう見てもカタギには見えない。
俺は一瞬で現実に引き戻された。
シャンパンの泡が、喉の奥で苦い炭酸ガスに変わる。
(なんでだよ!なんで俺の隣はいつもこうなんだ!)
心の中で絶叫する。
ルーマニア行きの飛行機でも、隣はプロレスラーみたいな男だった。
俺は何か、そういう星の下に生まれたのだろうか。
それから関空までの十時間は、まさに苦行だった。
彼は一言も発さず、時折取り出したノートパソコンで、暗号のような文字列と、中東かどこかの砂漠地帯にある厳重な施設の衛星写真のようなものを、眉間に皺を寄せながら眺めている。
俺は生きた心地がしなかった。
下手に動いて彼の気に障ったら、上空1万メートルで太平洋に放り出されるかもしれない。
ルーマニアからだと、ほとんど太平洋上空は飛ばないけれどもね。
俺はシートに縫い付けられたように固まり、映画を見るふりをして、ひたすら時間が過ぎるのを祈り続けた。
長い長い拷問のようなフライトが終わり、関空に到着した。
解放感に浸りながら、俺は早足で通関を抜け、タクシー乗り場へと向かう。
もう二度とあの男と顔を合わせることはないだろう。
そう思った矢先だった。
「グッ……!」
背後から、呻き声が聞こえた。
振り返ると、そこには、さっきまでの強面のコーカサス人が、腹を押さえて苦悶の表情でうずくまっているではないか。
(見て見ぬふりだ、青島! 関わったら絶対に面倒なことになる!)
俺の中の自己防衛本能が、最大級の警報を鳴らす。
しかし、その苦しそうな顔を見ていると、足が動かない。
「……あ、あの、大丈夫ですか?」
結局、俺のお人好しなDNAが、自己防衛本能に打ち勝ってしまった。
俺はすぐに近くにいた空港職員を大声で呼び、状況を説明した。
「救急車をお願いします! 急病人です!」
職員が駆けつけ、騒ぎになる中、俺はぼんやりと考えていた。
ルーマニアでも、危機一髪のところで人助けをしたような気がする。
エレナとイオナが路頭に迷いかけていた時、声をかけただけだったが、結果的に警察が来て、俺は無事だった。
いや、あれは人助けと言えるのか?
俺は事務所に二人を引き取って仕事を与え、果ては結婚までさせた?。
やっぱり人助けだよな。
だが、つくづく俺はトラブルに会いやすい。
そんなことを考えているうちに、救急隊員が到着した。
「付き添いの方ですか? 事情をお伺いしたいので、ご同乗をお願いします!」
「え? いや、俺はただの通りすがりの……」
俺の抗議も虚しく、あれよあれよという間に救急車に乗せられてしまった。
なんでだよ!
ピーポーピーポーというサイレンの音を聞きながら、俺は遠ざかっていく関空のターミナルビルを眺めて、深くため息をついた。
俺のドタバタな帰国は、まだ始まったばかりだった。
救急車が運び込まれたのは、関空のそばにある大きな総合病院だった。
強面のコーカサス人は、診察の結果、急性の虫垂炎、いわゆるアッペだった。
その場で緊急手術が行われるという。
言葉が通じず困っている医師と彼の間に入り、俺は自分のスマホを取り出した。
ルーマニアでも重宝していた翻訳アプリを起動し、医師の説明をカタコトの音声で彼に伝える。
「緊急手術が必要です。命に別状はありません」
彼は朦朧とした意識の中、俺の手を弱々しく握り、「……メルシー」と呟いた。
いや、ここは日本だから「ありがとう」だろ、と心の中でツッコミを入れる。
「連絡先を交換しましょう。手術が終わったら連絡します」
俺はそう言って、彼のスマホと連絡先を交換した。
もう一度病院を訪ねることを約束し、俺はようやく解放された。
病院の玄関でタクシーを拾い、神戸の本社へと向かう。
すでに時刻は夕方を過ぎていた。
タクシーの中でぐったりとシートに身を沈めながら、俺は自分の人生のハンドルが、完全に他人の手に握られているような気がしていた。
神戸の本社ビルに到着すると、俺はそのまま役員会議室に通された。
そこには、役員たちが、ずらりと顔を揃えて待っていた。
その顔は皆、一様に険しい。
「青島君、遅かったじゃないか。早速だが、例の件について報告を」
俺の上司?になるのかな、人事本部長の言葉に、俺はゴクリと唾をのんだ。
病院での一件で、頭の中はまだ混乱している。
俺は自分のスマホをプロジェクターに接続し、ルーマニアでヴァシレの部下に撮らせた、あの巨大な巻物の写真(部分的にだが)をスクリーンに映し出した。
「こ、これが、ヴァシレ氏から提供された『マナツプロジェクト』に関する資料です。黒海沿岸で新たな天然ガス田が発見されたとのことで…」
俺がしどろもどろに説明を始めると、役員たちは身を乗り出してスクリーンに食い入った。
間違えて、途中でイオナの仏頂面のアップ写真や、ヴァシレがエレナを軽々と抱き上げて回っている、あのドタバタな瞬間の写真が映し出されてしまい、会議室の空気が一瞬、カチンと凍りついた。
「…以上が、私が入手した情報です」
俺が冷や汗をかきながら報告を終えると、役員の一人が重々しく口を開いた。
「ありがとう、青島君。よくやってくれた。補足すると、この情報はすでに政府筋にも伝わっており、日本国も全面協力の体制で臨むことになった。近々、経済産業省の役人と、政府開発援助基金から資金を拠出する関係で、専門家が現地に派遣されることも決まっている」
その言葉に、会議室がどよめいた。俺は自分の耳を疑った。
政府?
経産省?
なんだか話がとんでもないスケールになっている。
俺がもたらした情報が、日本という国家を動かすほどのものだったとは。
「この情報は、まだどこにも公になっていない、極秘中の極秘情報だ。安宅興商が、この国家プロジェクトの主導権を握る、またとないチャンスなのだ!」
先の役員の言葉に、ほかの役員たちは色めき立った。
その熱気に気圧された俺は、「青島君、君は今日のところはご苦労だった。一旦、外してくれ」と、丁重に、しかし有無を言わさぬ口調で会議室から追い出されてしまった。
廊下に一人取り残され、俺は呆然と立ち尽くす。
まるで巨大な嵐の中心に放り込まれたような気分だった。
その時、ポケットのスマホが震えた。
メールの受信通知だった。
相手は、病院にいるはずの、あの強面のコーカサス人からだった。
『手術は無事に終わった。3日後には退院し、すぐに帰国する。君は命の恩人だ。どうしても、もう一度会ってお礼がしたい』
義理堅い男だ。面倒だとは思ったが、ここまで言われて無視するわけにもいかな
い。
俺は再び、和歌山県の病院へ向かうことを決めた。
この時、俺はまだ知らなかった。
この男との再会が、俺の人生に、さらなる嵐を呼び込むことになるということを。
翌日、俺は再び和歌山県の総合病院を訪れていた。
病室のドアをノックすると、「入れ」という、力強い声が返ってきた。
数日前までの弱々しさが嘘のように、彼はすっかり回復していた。
「よく来てくれた、友よ」
彼はベッドから起き上がると、俺の手を力強く握った。
その握力に、骨が軋むのを感じる。
「いやいや、無事で何よりです。それで、お加減は…」
「もう問題ない。日本の医療技術は素晴らしいな。さて、改めて自己紹介させてくれ」
彼はそう言うと、ベッドサイドのテーブルに置いてあった一枚の名刺を俺に差し出した。
「俺は、ラドゥ・ポペスク。ルーマニアの人間だ。見ての通りだがな」
彼はニヤリと笑った。
俺は名刺を受け取り、その名前を見て首を傾げた。
「ポペスクさん…? あの、てっきりコロンビアの方だと…」
事前に会社経由で、彼の身元を軽く調べてもらっていたのだ。
その時の報告では「かなり怪しいコロンビア人」という、ざっくりとした、しかし不穏な情報だった。
「コロンビア人? ハッハッハ! それは面白い冗談だ」
ラドゥは腹を抱えて笑った。
「確かに、俺の仕事の拠点はコロンビアだ。そこでちょっとした事業を成功させてね。だから、そう見られても仕方ないかもしれん」
どう見てもコーカサス人で、俺がつい最近まで仕事をしていた人たちと同じ人種にしか見えない。
コロンビアの要素はどこにもない。
しかし貰った名刺にはしっかりとコロンビアとある。
それに今説明されたが、拠点がコロンビアらしく、よくわからんおっさんだ。
「仕事で日本には時々来るんだが、まさかこんなことになるとはな。君には本当に感謝している。君は俺の命の恩人だ」
「いえ、そんな大したことじゃ…」
「謙遜するな。この恩は必ず返す。もし、君がコロンビアに来ることがあれば、必ず声をかけてくれ。どんなことでも力になることを約束する」
彼はそう言って、ウインクしてみせた。
その笑顔は、どこか裏社会のボスのような凄みと、同時に奇妙な信頼感を抱かせる不思議な魅力があった。
こうして、俺は謎のルーマニア人兼コロンビアの成功者(?)であるラドゥと別れた。
神戸に戻る電車の中で、俺は二つの巨大な縁と、一つの巨大なプロジェクトを抱え込んでしまったことに、今更ながら気づいた。
片や、ルーマニア政府を動かす有力者ヴァシレと、国家プロジェクト『マナツ』。
片や、コロンビアで成功したという謎の男ラドゥとの、命の恩人という名の奇妙な繋がり。
「俺はただのしがないサラリーマンのはずなのに、なんでこんなことに……」
電車の窓に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。
俺の平穏な日常は、どうやら、はるか彼方に過ぎ去ってしまったようだった。
これから一体、どうなってしまうのか。俺のドタバタな日々は、まだまだ続く。




